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私、引き籠って研究がしたいだけなんです!  作者: 浅田 千恋
第五章 神聖ギュスターブ帝国
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81.美しき世界

 その日、私は研究所の所長室で一つテーブルを挟みモーリッツさんと向き合っていた。いつも飄々としたモーリッツさん、しかし今の彼は自らの憤慨を隠そうともせず、私の視線に対抗するように一点を確りと見詰めている。


 そして斯くいう私もその瞳に笑みを湛えてはいない。そう、私は怒っているのだ。


 どうしてこうなった? そう、それは…… あれ? どうしてだろう。どうして私、怒ってるんだっけ。あ、そうだ、確かモーリッツさんが……



「所長! ちょっとこれを見て下さい!」


 遡る事数時間、いつもに増して目を輝かせながら私の居る所長室に飛び込んできたのはモーリッツさんだった。


 興奮した様子の彼は私に一枚の紙を掲げて見せた。そこには幾本もの線で繋がれた記号たちが並ぶ。


「ん? ああ、ニトログリセリン、ですか」


 そう、そこに描かれていたのは化合物を示す化学式、くねくねと三又に別れたニトログリセリンのそれだった。


「そうです、ニトログリセリンです。グリセンリンをエステル化して…… って、そんな事はどうでもいいのですよ。見てください、これ、美しくないですか! 所長に教えてもらった化学式の甘美な世界、とりわけその中でもこれは極上の一品だと思うのですよ。私はすっかり魅せられちゃいました。どうです、所長もそうは思いませんか?」


 ああ、なるほどそうきたか。化学式、化学を科学する上でこれほど便利なものは他にない。と同時にその世界はモーリッツさんが言う通り洗練された様式美を備えていた。


 しかし、どうしてニトログリセリン?


「あの、モーリッツさん、言いたい事は何となくわかります。モーリッツさんはそのひょろひょろっとしたのが好きなんですね?」


 そしてその私の何気ない一言にモーリッツさんは噛み付いた。


「何ですか、ひょろひょろって! も、もしかして所長にはこの退廃的な、そうそれは所長が作ってくれたオムライスのような虚無感を感じませんか? 困ったな、せっかく私はアインスター所長と一緒にこの奇跡に出会えた喜びを分かち合おうと思ったのに」


 うん、そこまで言われたら私も穏やかじゃないよね。


「い、今何気に私の料理を馬鹿にしましたね? いいでしょう、その不安定で今にも崩れそうな、いやニトログリセリンだから実際に爆発するんですけど、それよりも美しい化学式を私がお目に掛けましょう!」


 そう言って私はモーリッツさんが持ってきた紙にさらさらっと一つの化学式を書き入れた。記号の無い正六角形、それはベンゼン。


「どうですか、この安定感! 単純にして奥が深い。ここから織り成される複雑な構造式はニトログリセリンの比ではありません。言うなればこれはニンニクとオリーブオイルのみで作ったパスタ、アーリオオーリオ。モーリッツさんも研究を続ければいつかこの境地に立ち戻る日が来ますよ」


「これはこれは、アインスター所長はそのお歳で随分と守りに入られたのですね。ええ、そうでしょう、シンメトリーは確かに美しい。しかしその先にある危うさこそが私の境地。不安定の中にこそ我々研究者は身を置くべきなのです!」


 ああ、オムライスの上に引かれたケチャップの赤い線、あの物足りなさこそが真理なのです! そう言ってモーリッツさんは胸を張った。


 そしてどちらの構造化学式がより真理かを筆舌を尽くして言い争い、互いに一歩も引かず睨み合ったまま……



 ……うん、よく考えれば目くじらを立てて言い争うような事では無かった。いや良く考えなくてもそうだ。化学式は美しき世界、なるほどモーリッツさんのニトロも素敵ですね。それで良いではないか。


「ふぅ、わかりました。モーリッツさん、その化学式……」


 私がそう言って仲直りを提案しようとした時だった。ガチャリと所長室のドアが開いた。


「あ、アイン所長、失礼します! ちょっとご意見を…… あ、モーリッツさん、いらしたんですね。すいません、何かお話の途中でしたか? 随分難しい顔をされてますけど」


 言いながらにこりと爽やかな笑みを向けたのはケイト君だった。


「ケイト、ノックくらいしたらどうかな? それよりもこれを見てくれ、ケイトはどう思う?」


 モーリッツさんが化学式の描かれた紙をケイトに突き出す。でもそういえばさっきからコンコンと何かを叩く音が聞こえたような……


「モーリッツさん、僕はノックしましたよぅ。返事が無かったからノブを回してみたんです。それより、何ですかそれ? その線は蛇? あ、隣のはその蛇がとぐろを巻いたんですね!」


「はぁ、君はこの美しさがわからないと? そういえば君は所長の科学勉強会にもあまり顔を出しませんね。工作も大事ですけど理論があってこそ。次代のエースがこれでは不安ですよ」


 モーリッツさんが言う勉強会とは化学式なども含めて研究に必要な知識を共有するために私が定期的に開催しているものである。


 カムパネルラの製造を中心となって行ったケイト君は、その後も後継機の開発や貨物車両の製造をダニエルさんと共に担っている。

 その為ハード面には強いのだが、理論面が弱いというのは否めなかった。


 何故モーリッツさんに怒られたのかわからないケイト君の瞳が私に助けを求める。

 うん、ノックに気付かなかったのは申し訳なかったけど、駄目だよ、ケイト君。化学式を疎かにしちゃ。


「ケイト、これはどう見たって化学式でしょう。ケイトはどの化学式が好きなのですか?」


 あ、ケイト君の目が点になった。


「好き? な化学式ですか…… え? これに好きとか嫌いとかあるのですか? あ、そういえば僕まだ仕事が残ってました! 所長、また今度伺います」


 そう言ってケイト君が足早に部屋を出る。ぐぬぬ、逃げたな。モーリッツさん、後で懲らしめてやりなさい。


 そしてそのケイト君と入れ違いに所長室の扉を潜ったのはマルキュレさんで。


 私とモーリッツさんの視線がぶつかる。彼女ならきっと理解してくれる、と。


「え? 化学式ですか? ニトログリセリン、ベンゼン、まあ確かに綺麗ですけど、普通ですわね。私が好きなのは例えばニコチンアミドアデニンジヌクレオ……」


 ああ、しまった、マルキュレさんはそっちだったか! これは長くなる。


「……といかに安定性を保ったまま多重的かつ立体的に構造が成り立つかが鍵かと…… 失礼、用件はまた今度に致しますわ」


 そうやって喋るだけ喋ってマルキュレさんは部屋を出ていった。うん、一体何しに来たんだろうね。


「どうやらマルキュレ女史は化学式が複雑であればある程興奮するようですね。ふふ、私にもそういう時期がありましたよ」


「ええ、一度は嵌まる罠ですね。そして人は最後にベンゼン環に辿り着く」


「辿り着きません! それこそが神の罠、真の自由は切れそうな一本の綱の上にこそあるのです。万歳デカダンス!」


 最早自分でも何を言っているのかよくわからないけど、モーリッツさんはさらりとその上をゆく。

 そして最後に登場したのはヴェルギリウス様だった。


「ふむ、何をしているかと思えば全くくだらぬ」


 事のあらましを悟ったヴェル様が口を開く。しかし今のモーリッツさんは化学の神に魂を捧げた妄信者だ。


「くだらないとはどういう事ですか! ヴェルギリウス様といえど化学に対する暴言は聞き捨てなりませんな」


 全くだ、ふんす、と当然の反応に私が同意を示すと、ヴェルギリウス様は肩を竦めた。


「その化学式がくだらぬのではない。そんな事で言い争いを続ける其方等がくだらぬと言っているのだ。アインスターよ、其方が言っていたではないか。人にとって大切な酸素、その化学式は両の手をがっしりと繋いだ姿だと」


 そう言ってヴェルギリウス様は私達が言い争いを続けた用紙の隅に二つのOをかいてそれを二人の線で繋いだ。


「その化学式のように皆で手を取り合って研究を進めていこうと言っていたではないか。それを何だ? どちらの式が美しいだのと、子供同士の喧嘩のように。だから私はくだらぬと言ったのだ」


 ぐぬ、ぐうの音も出ない正論。返す言葉もない。あれ? でも私、子供だよね。だからいいのかな?


「申し訳ありませんでした、ヴェルギリウス様。それにアインスター所長、少し熱く成り過ぎたようです」


 しかしモーリッツさんは何とか抵抗の兆しを探る私を尻目に、素直に頭を下げた。流石は大人の対応、そして私に向かって右手を差し出す。


 そうなれば私としてもこれ以上争う事は出来ない。いや、そういえば私は最初から言い争いなどするつもりはなかったのだけど。


「私の方こそ言い過ぎたかもしれません、すみませんでした」


 そう言って私は差し出されたモーリッツさんの手を握り返した。


「それではこれで仲直りと言う事で」


 モーリッツさんがもう片方の手も差し出し、私もそれを握る。そうだ、この姿。二本の手を繋いだそれは一つの化学式のようでもあった。


 それを見てヴェルギリウス様が僅かに口許を弛める。そして私を見て改めて口を開いた。


「ちなみに私が美しいと思うのは、ニコチンアミドアデニンジヌクレオ……」



 ……もういいです、ヴェルギリウス様。





次回は11月1日17:00更新です。

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