77.奈落(アビス)
先日の冒険者ギルドとの会合から数日経った朝、待ち合わせ場所である研究所前に現れたのは、一緒に現地へ向かう予定のラプラスさんではなくアイザック先生だった。
「おはようございます、アインスター君。今日はラプラス君の代わりに私が保護者としてご一緒する事になりました。宜しくお願いしますよ」
目に掛かるボサボサの前髪をくしゃくしゃと掻きながら、先生がゆっくりとこちらにやってくる。でもあれ? ラプラスさんって私の保護者としてついてくるんだっけ。交渉の為だと思っていたけど……
「おはようございます、先生。そうですか、ラプラスさん、都合が悪ければ他の研究員に同行をお願いしたんですが。お手数をお掛けしてすみません」
ともかく、やって来てしまったものは仕方ない。私も先生に挨拶を返す。
「まあ、半ば私がラプラス君に頼んで代わってもらったんですけどね。おっと迎えが来たようですよ」
ん? 代わってもらったとはどういう事かしら? しかし深く考える間も無く、ギルドが用意した馬車が到着したようだ。
私とラプラスさん、いや代わりにやって来たアイザック先生の二人だけなら、馬車を使わずカートで現地に向かうのだけど、冒険者ギルドの方でも同行者がいるようで、私達はその指示に従った。
見ると長身の男性が今まさに馬車から降りようとしている。あれは確かギルド長、マグナドルテさんと言ったかな。如何にも冒険者でござるといった副長は今日はいないようで、ひとりにこやかにこちらに向かってくる。
目は笑っていないのだけど。
「いや、遅くなりました。私どもの話をご快諾頂きましたのに申し訳ない事です」
先日と同じ紺のジャケット、ギルドの制服だろうか、胸に剣と杖を象った紋章が光る。そのギルド長が丁寧に頭を下げた。
実際には予定時間に遅れているわけではないのだが、社交辞令というやつだろう。
「私達も今来たばかりですから。それで、早速参りましょうか?」
私の言葉にギルド長が頷く。
「そうですね。概ね先日お話しした通りですので、何か不明な点などあれば道すがら馬車の中で。尤もこちらとしても報酬面など実際の運用を見てみないと何とも決まらない点が多々ございまして、誠恐縮するばかりではありますが」
ギルド長が言うそれは、これまでにモデルとなるケースが無い以上仕方ない。始めにガッチリと枠を固めてしまうよりも臨機応変に対応する、それは双方の合意事項だった。
私達は馬車に乗り込む。思えば馬車の揺れにも随分慣れた。
「アインスター君、それ前にも思っていたんですが魔法ですよね、君だけ揺れていないの。そんな事に魔法を使うなんて、とも思いますけど、便利ですよね。今度教えて下さいよ」
うん、慣れたといってもズルしてるんだけどね。
「良いですよ。まあ教えると言っても授業で私が語った事の応用ですけど。馬車との相対位置を固定して……」
今日の視察については現場に着くまで特に不明な点も無いので、自然話は魔法の事になる。これは相手がアイザック先生だから尚更仕方ない。
ギルド長のマグナドルテさんも特に気にする風でもなく、時折御者に指示を出しながら、こちらの話に耳を傾けていた。
馬車は北の国境辺りでその進路を西に変える。魔法話が一段落した私はアイザック先生に尋ねた。
「そういえば先生、ラプラスさんに代わってもらったと仰ってましたよね。あれどういう事ですか?」
アイザック先生が少し目を細めて遠くに視線を向ける。
「そうですね。丁度向こうの方に黒い場所が見えてきたでしょ。ほら、周りと少し色が違う」
確かに荒野の真ん中、少し他とは色が違う。ちょっと離れた場所には簡易な小屋のような建物も並ぶ。もしかしたらあれが…
「そうです。あれがマリアージュの大穴、通称奈落の口、アビスゲート。あの穴」
何やら物騒な名前を口にした先生は私の方に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「私が空けました」
……え!?
ちょっと待って、流石に理解が追い付かない。あの穴は確か戦争中に大規模魔法で…… って、そうか、その魔法を使ったのは先生!
そういえば前にヴェルギリウス様がアイザック先生を指して奈落と。
「まあ、一応軍の機密扱いですが知っている人は知っている、その程度のものです。アインスター君に知らない事があったという方が驚きですね」
私が口をぱくぱくさせているのを見た先生が話を続ける。
「もちろん大規模魔法ですから私の部隊が、と言った方が正確かもしれませんが。いや、やっぱりこの穴を空けたのは私ですね」
「ほう、まさかこんなところで伝説に御目にかかれるとは。いや、失礼、どうぞ続けて下さい」
私同様に驚いた様子で振り返ったギルド長が先を促す。知っている人はと言ってもそれは軍部での話で一般には当然の事ながら詳細は伝わっていないらしい。
遠目に見えていた大穴が次第にその輪郭を顕にする。
「では、もう少し続けましょう。当時の私は自慢するわけではないですけど、若手ではナンバーワンの魔法の使い手として将来を期待されていました。私の方でもその自覚はあって、血気に盛んで自分は強いと少々自惚れてもいました」
なんだかいつも穏やかな先生からは想像も出来ない。
「私が魔法に長けていた理由の一つは、感覚で魔法の規模をある程度調整出来た事。例えば皆が同じ魔法を唱え、同じ結果が発生するのに対し、私が唱えるそれは大きくも小さくも調整が利くものでした」
なるほどこれは興味深い。従来の魔法は魔法陣に描かれたプログラムそのままに効果が発動するので誰が唱えても同じ筈。とすると私のようにイメージで魔法を使っていた?
でもそれだと詠唱は要らない筈だし。
「当時は何故そうなるのか解りませんでした。まあ考えてもみませんでしたけど。只自分は優れているのだと、そう思っていました」
そう言った先生は少しだけ寂しそうに笑った。
「今ならその原理は解ります。私は特に私と相性の良い魔法に於いて魔法陣の一部を変数として扱う事が出来る。規模を示す文字を無意識のうちに書き換える事が出来たんですね。これはアインスター君の研究によって解りました」
そういう事か。従来の魔法陣でもその内容を書き換え、効果を変更する事が出来る。これは先生に限った事なのか、誰にでも出来るのか、それはわからないけど。
「おそらく同じ原理でもう一つ。それまで他の誰もが使うことの出来なかった新魔法を私は使う事が出来た。当時まだ効果もわからず名前も無かったその魔法が奈落、ここにあった森を消し去った魔法です」
使うことが出来なかったという事は魔法陣が完全なものでは無かった、という事だ。おそらく発動に必要な何かの変数がブランクになっていたに違いない。
そして先生はそのブランクに無意識のうちに変数を入れる事が出来た。だから魔法が発動した。
「私としても、もちろん軍部としても、効果のわからない魔法をいきなり実戦に投入したわけではありません。それは繰り返し訓練施設で試された」
それは当然だろう。効果がわからなければ最悪味方に被害が及ぶ事も考えられる。
あ、実際に被害が及んだのだったか…
「その魔法は一つの効果だけをみれば他愛も無いものでした。精々両手を広げた程度の大きさの球体範囲内、その全てが消滅するというもの。ええ、その範囲内に在るものだけが切り取られた様に綺麗さっぱり無くなる、文字通り消滅です。アインスター君、これはどういった現象でしょう?」
わかりますか、とアイザック先生。
「ううん、それが消滅なら分子レベルでの崩壊、若しくは超高密度の圧縮、ちょっと聞いただけではわかりませんね。それはどのように消えましたか?」
「出現した後、小さくなって消えましたね」
イメージ的には圧縮というのが近い気がする。でも先生、それ他愛無くはないよ、恐ろしい魔法だよ。
「まあ一つの効果だけと言ったのは、その魔法にはもう一つの特性があったからです。魔法による魔法の生成、一つの球体が消えた瞬間、二つの球体が現れました。そしてそれらが消えると今度は四つ、そうやって現れては消え、その数を増やしていきました。それらは一つずつ、魔法陣を新たに伴って」
なるほど、魔法陣を描く魔法、毎回二倍になっていけば瞬く間にそれは増殖してゆく。所謂ねずみ算方式。
しかし、魔法陣に影響を及ぼす魔法というのは私達の研究とも一部で合致する。それで先生は私の魔法や研究に興味津々だったという訳か。
「尤も……」
先生が目前に迫った大穴に視線を送る。馬車は緩やかにその速度を落とし、やがて御者が私達に到着を告げた。
次回は10月4日17:00更新です。