61.医療改革
医療改革、その言葉にラプラスさんとマルキュレさんが顔を見合わせた。
「アイン所長、その医療というのはどういう意味でしょう?」
二人を代表するようにラプラスさんが私に問う。まあその疑問はもっともでこの世界には医療という概念がそもそも無いのだ。
「医療とは広い意味で人の健康を維持又は回復するためのあらゆる術のことです。もっともお二人に言葉の意味がわからなかったのは当然で、この国には能動的な意味で医療に該当する行為が二つしかありません」
すなわち、薬草を使うか教会に行くか。二つしかない選択肢に医療という言葉は必要ない。たとえ教会内で様々な医療行為が行われていたとしても公開されていない以上、所謂ブラックボックスで、結局は教会に行くという一つの行為に集約されてしまうのだ。
「それでは改革というのは、まずその選択肢を増やすということでよろしいのかしら?」
「さすがはマルキュレさんですね、概ねその通りです。但し、その前にまず症状を細分化していかなければなりません。例えば急に体調が悪くなったとしましょう、疲れなどによる体力の低下が原因かもしれませんし、ストレスが原因かもしれません。またウィルスや細菌が原因かもしれません」
ウィルスや細菌と言ってもわからないと思うが一旦話を続ける。
「どの場合でも軽度なら薬草で回復します。ほとんどの場合には放っておいても治るかもしれません。しかし重くなれば症状に違いが出てきますし、対処方法も違ってきます」
私は先日教会でたまたま見かけた患者のことを話した。教会内には自己治癒力を高めるような効果が魔素によってもたらされているのだが、その効果で体内の悪い細菌まで活性化されてしまい、回復するどころか逆に悪化してしまっていたのだ。
「ここで一つ重要なことは、私達の周りには魔法の素、魔素が存在するということです。多くの騎士は気としてそれをとらえていますが同じものですね、その点、魔法師のほうが理解しやすいかもしれません」
我々魔法師は魔素を通して自然界に働きかけ事象を変化させる、これを魔法と呼んでいる。魔素は体内にも存在し訓練すればその動きもわかるようになる。
問題はその魔素が知らずの内に人体の自己治癒力に影響を与えているのではないか、ということである。
私がそう思い至ったのには理由がある。この世界では病気になる人が極端に少ないのだ。また病気になってしまってもほとんどの場合には薬草で治ってしまう。最初は皆体が丈夫なだけかと思っていたけれど、さすがにそれだけでは説明できない。
「怪我の場合も同じです。放っておいても大丈夫なのか、薬草で治るのか、魔法が必要なのか、又は他に有効な手段があるのか。それには状態を正しく診断しなければなりませんが、今の教会ではそれが不十分なのです」
「教会に対抗するのですか?」
私は首を横に振る。
「直ぐに対抗するつもりはありません。教会の方々は出来ることを精一杯やっていると思います。それを批判するつもりはありません。問題は教会がこの国の組織ではないということです」
教会と冒険者ギルド、この二つの組織はルーベンス王国から独立した組織として存在する。冒険者ギルドはどの国からも完全に独立した冒険者のための組織だが、王国やフェルメールにある教会は正式名をボグナーツ正教会と言い、神聖ギュスターブ帝国にその総本部が存在している。つまり間接的に神聖ギュスターブ帝国の組織なのだ。
そのため教会から情報の提供を受けたり、またそのやり方に研究所として口を出したり、ということが難しい。
「いずれ教会にはコンタクトを取る必要があると思います。互いに協力出来れば良いですが、今の段階では何とも言えませんね。しかし交渉となるとこちらも何らかの交渉材料を用意しなければなりません」
「それでは回復魔法の開発はやはり不可欠ですわね」
マルキュレさんが楽しそうに頷く。
「そこで私の考えはこうです…」
まず人体の構造についての知識を深める。これはベースとして不可欠だ。人体の構造がわかって初めて病気や怪我の話となる。
次に魔素が人体に与える影響を調査する。身体強化のプロセスなどもこの機会に整理したほうが良いかもしれない。この部分に関しては、私自身にとって既にある前世での常識との差を埋めるという意味でも重要なのだ。
「これらは研究における土台の部分です。並行して行うことも可能だと思います。これらがある程度纏まれば…」
次に行うのは病気、怪我の分類だ。原因や症状で病名を付け対処法を纏める。そして対処の手段として必要ならば魔法や魔道具の開発を行う。
「この段階で患者を受け入れる機関が必要になります。教会をベースに考えるか、全く別の組織とするか、今の段階ではわかりません。しかし何れにしても交渉は進めていかなくてはなりません。それをラプラスさんにお願いしたいのです」
交渉事でラプラスさんより上手く立ち回れる者もそういない。自慢じゃないが私の研究はラプラスさん頼りな面が多いのだ。
私の発言を受けてラプラスさんが顔を上げる。
「アイン所長がそのような事を考えていたなんて思いもしませんでした。所長の指示となれば何でも致しますが…一つ伺っても宜しいでしょうか?」
少し考えるようにしてラプラスさんが私に尋ねた。
「ええ、質問があればどうぞ」
「所長は何故このような研究をしようと考えたのですか?この研究にどのような意味がありますか?」
そう言われてはっとした。ラプラスさんが言うのは研究所としてこの研究に何か意味があるのか、ということだろう。私が考えていたのは、怪我をした人がよくなればいい、病気の人がよくなればいい、それだけだった。
「意味は…ないのかもしれません。私は魔法の開発を目的としませんでした。あくまで手段の一つとして考えています。ならば魔法研究所にとっての利益となる研究ではないのかもしれません。ラプラスさんを始め多くの人を動かす前にもっとよく考えなければいけませんでした」
怪我や病気の人を助けたかっただけです、という私に、ラプラスさんはしかし首を振った。
「アイン所長、それでいいのです。研究所の利益など研究には必要ありません。誰かのために何かをよくしたい、研究の動機はそれで十分だと私は思います」
そう言ってラプラスは微笑んだ。
「鉄道計画の時は色んな立場の利益をお考えでしたでしょう?研究所の利益、王国の利益、国民の利益、その中にアイン所長の利益はあったのかと私は心配しておりました。でも杞憂でしたね、アイン所長はちゃんと研究を楽しんでいらっしゃるようだ」
そんなラプラスさんの保護者のような言い草に思わず照れてしまう。ラプラスさんこそ人の心配ばかりでちゃんと研究を楽しめているのだろうか。
「お任せ下さい、アイン所長。教会との調整は私に任せて存分にやりたいようにおやり下さい」
私も一つ頷きを返す。
「ありがとうございます、ラプラスさん。それでは話を少し戻しましょう。先程話した手順で医療という考えをこの国に根付かせます。そのための研究をマルキュレさん達の第二研究室で行って欲しいのです」
現在の第二研究室での基礎研究は概ね仕上がりを見せており新しく研究を始める余力は十分にある。また一から研究室を立ち上げるよりもチームワークが出来上がっているマルキュレさんたち女性チームのほうが適している。
「研究が進めば研究規模の拡大や増員も視野に入れています。また私の魔法小隊から女性魔法師を応援に呼ぼうと考えています。現役の魔法師がいたほうが研究がしやすいと思いますから」
これはフローレンスさんにお願いしようと思っている。彼女なら直ぐに研究所の女性陣とも仲良くなれるだろう。
「そこまで準備していただけるなら何の問題もありませんわ。第二研究室の総力をあげて取り組みます」
マルキュレさんからも力強い賛同を得られた。未知の分野に踏み込むという不安はそこには感じられない。彼女ならしっかり私の期待に応えてくれるだろう。
「ありがとうございます、マルキュレさん。この研究は今期の目玉です。一緒に頑張りましょう」
マルキュレさんと固く握手を交わす。
「それでは私は小隊に顔を出してからカムパネルラを見てきます。お二人も業務に戻って下さい」
二人の共感を得られたことにほっと胸を撫で下ろして私は研究室を離れた。
次回は5月31日17:00更新です