10.パンを売りに行く
部屋に戻って私は今日のパンの出来をまとめる。まあ、概ね成功だろう。もっとよく生地を捏ねると更にきめの細かいパンができるかな。
「あとはヨモギパンなんかもいいんじゃない?…庭にたくさん生えていたような…」
しばらくしてお父様が帰ってきたようだ。私も出迎えに向かうと玄関にお父様が立っていた。お母様もいる。
「あなた…アインが…パンを焼いたの」
「おお!アインもお母さんを手伝って料理をするようになったか。偉いぞ
…ん?どうしたんだ母さん?そんな難しい顔して…ははん、さてはアイン失敗したな?ハハハ、父さんはアインが焼いてくれたパンなら何だって平気だぞ!」
久しぶりの我が家にお父様も機嫌が良いようだ。食べてみればわかるわ、というお母様に促されて食卓に向かった。
食卓ではターニャとハンスが食事の準備をしていた。いつもよりちょっと豪勢なお肉料理にスープ、それと籠にパンが六つ入っている。
「後で食べてもらおうと思ってハンスとターニャの分を別けておいたの」
お母様が私に言う。意外とすぐになくなっちゃうね。もう少したくさん焼けばよかったかな。
「それじゃ頂きましょう。あなたお帰りなさい」
お母様の合図で皆が夕ご飯を食べ始める。
「じゃあさっそくアインが焼いてくれたパンを食べようか、どれどれ、うん、美味し…え!?これがパン!?こんな…こんなパンは初めて食べたぞ」
お父様が勢いでパクッと二つ食べ、三つめを取ろうとしてお母様に手を叩かれた。
「あなた、今日のパンは二つまでですよ!あとは私たちの分です」
「え!?もう無いのか。…しまった、もっとゆっくり食べればよかった」
「お父様、美味しかったですか?私の分を一つあげますからそんながっかりした顔をしないでください」
お父様が今にも泣きそうな顔をしていたので私はパンを一つお父様のお皿に取ってあげた。
「おお!ありがとうアイン。いやこのパンは凄く美味しいぞ。これをアインが作ったのか…こんなパンは王都でも食べたことが無い。アインは凄いな、パン作りの天才じゃないか!」
やはり王都のパンも堅くて美味しくないようだ。王都になければきっとどこにも無いのだろう。作って正解だったね。
「私もパンが堅くて困っていたのです。ふっくら柔らかくなれば美味しいかなと思って…またたくさん焼きますね」
「あら、アイン。またパンを焼いてくれるのね。それは良かったわ。今度はお母さんにも焼き方を教えてちょうだい」
「ではパンは私に任せてください。でも特別な焼き方ではないのですよお母様。発酵させるとふっくらと仕上がるのです。……と昔の本にありました。今度詳しくお教えしますね」
出所を探られても何と言っていいかわからないので全て読んだ本のせいにする。その後はお母様と買い物に行った話をしたり、お父様の王都での話を聞いたり楽しく夕飯を終えた。
お父様の仕事もしばらくは王都に行くこともないようでその日のうちに帰ってくることが多くなった。そして私の日課にパン作りが加わった。
毎日作るのは大変なので三日に一度くらいに大量のパンを焼く。お母様にもパンの焼き方を教えたので我が家は美味しいパンで溢れた。今のところ天然酵母は私がせっせと作っている。
梨から作った酵母は発酵に時間がかかったがフルーティーな香りがしてレーズンのそれとはまた違った味わいだった。
万年筆作りも順調に進んだ。刳り抜いた胴にインクが染みこまないように油を付けた布で磨く。それはもうちまちまと磨く。
…手が腱鞘炎になりそうなくらい時間のある時にせっせと磨いた。そのかいあって、ツルツルテカテカのボディが完成した。
接着にはゴムのような木の汁を使う。継ぎ目を綺麗に磨いて外側に丈夫な糸をぐるぐると巻いていく。これでインクを入れる胴の部分が出来上がった。
ペン先はインクが溜まるように元から横溝がいくつも彫られているので、インクを流す縦の溝を加えて胴の部分とくっつける。
胴の部分からペン先にかけてインクを流す溝と流れたインクの代わりに空気を送り込む溝がある。万年筆は液体が細いところに流れ込む毛細管現象を利用してインクを常にペン先に送っているのだ。
「うん、うまくできたね。…まあまあの使い心地!」
私はサラサラとできたばかりのペンを走らせる。ボールペンのように滑らかな書き心地ではないが、何度もペンにインクを付けることを考えるとだいぶ楽になったのではないか。
「…でも、もう二度と作らないよ!」
そう言って私は疲れた腕をさすった。
相変わらず我が家ではパンブームが続いた。私がヨモギパンを焼いたことでお母様とターニャはいろいろな味のパンを作るのに夢中になるし、執事のハンスには
「こんな美味しいパンは今まで食べたことがございません…」
と泣きながらお礼を言われるし、お父様は美味しいパンが食べられないので仕事に行きたくないと駄々を捏ねるし……
私と違って柔らかいパンを食べたことが無いこの世界の人たちにとっては全く新しい味であり、私が思った以上の驚きがあったようだ。
「こんなに喜んでもらえるなら街でも売れるかもしれない…」
万年筆が完成して時間ができたのと、これからの研究を考えるとやはり自分のお金が必要になると思っていた私は天然酵母パンを街の市場で売ることを考えていた。
だけどこの世界での商売の仕方はわからないし市場で物を売るにも何か手続きが必要かもしれない。市場に知り合いもいないし、私はボルボワ商会のボルボワさんを訪ねることにした。
昼食を終え部屋に籠るふりをして街に出かける。一度お母様と買い物に出かけたので大体の道はわかる。
天然酵母パンを10個ほど籠に詰めてボルボワ商会に向かった。
「ごめんくださーい」
「いらっしゃいませ」
店に入ると店員さんらしき人が笑顔で迎えてくれる。
「あの…アインスター・アルティノーレと申します。ボルボワさんにお話があるのですが…」
私がもじもじしながらボルボワさんの所在を尋ねると、お待ちください、と言って呼びに行ってくれた。
「これはこれは、アルティノーレのお嬢様。よくいらっしゃいました」
しばらくしてボルボワさんが現れる。
「あいにくとまだドレスは仕上がっておりません。できましたらお屋敷までお持ちいたしますよ」
仕上がりが気になりますか?お可愛らしいお嬢様ならきっとお似合いですよ、とニコニコ顔だ。
「すみません、今日はドレスの件ではないのです。ボルボワさんに教えて欲しいことがございまして」
「ほう、何ですかな?私に答えられることでしたら何なりと」
「私、市場でパンを売りたいのですが、商売するのに何か必要な手続きなどはありますか?」
するとボルボワさんは難しい顔で考え込んだ。
「ふぅむ、それは少し難しいですな。この街で商売するには商人ギルドに登録しませんといけません。商人ギルドに登録して、それから市場で物を売る場合には販売場所の申請が必要ですな」
「やはり商人ギルドというのがあるのですか…ボルボワさんも商人ギルドに登録されているのですね」
以前に買い物に来た時に冒険者ギルドがあることがわかったので商人にも組合みたいなのがあるのではないかと考えてはいた。それに場所の申請から始めなければいけないようで、これではすぐにはパンを売ることはできないだろう。
「ところで、そのパンはアルティノーレのご婦人がお作りになられたので?」
私が困り顔をしていると、ボルボワさんがパンの入った籠を見ながら尋ねてきた。
「いいえ、私が作りました。前に来た時に頂いた白衣…いや白のコートがとても気に入りまして、また欲しいなと思ったのですけれどお母様にお願いするのも気が引けて…それでこっそりお金を貯めて自分で買おうと思ったのです」
家の者には内緒ですよ、とぱっちりウィンクをしてはにかむ。
「ほぅほぅ、そうでございましたか。いやはやご貴族のお嬢様が商売とはお考えが大胆ですな」
ボルボワさんもにっこり微笑んで
「そうしましたら、今お持ちの分は私が買いましょう。おいくらですかな?」
あくまでサンプルとして持ってきたものなのでいくらで売るかは決めていない。前に食べた食事が大銅貨3枚だったのでパンひとつ銅貨3から5枚くらいかな?手間がかかっているので少し上乗せしておこう。
「パン一つ大銅貨1枚で売るつもりです」
「おや、少し高いようですが…まあいいでしょう」
そう言ってボルボワさんは銀貨1枚を渡してくれた。私は籠のままパンを渡す。
「それでお嬢様、よろしければ商人ギルドへ行ってみますか?私は主に服飾部門に属しておりますので市場での販売にはあまり詳しくありません。ギルドに行って聞いてみるのもいいかもしれませんな。いや、今すぐにはいけませんので私の方からギルドの者に面会予約をしておきますよ」
ボルボワさんに段取りをしてもらえるのはありがたい。
「ありがとうございます。私も商人ギルドに行ってみたいので宜しくお願いできますか?」
「それでは日時が決まりましたらお屋敷に使いの者を出します。なに家の者にはばれないようにいたしますからご安心下さい」
今日はありがとうございました、と言って私は店を出た。後はボルボワさんに任せておこう。ただ実際に市場で物を売るのは難しそうだな、とも思う。来年は騎士学校入学の準備もあるだろうし、そうなるとあまり時間が無いのだ。
研究のための金策は別の手立てを考えた方がいいかも…そんなことを考えながらてくてくと歩いていると遠くの方から声が聞こえてきた。
「……さま。…ちょ…って…さい。……お嬢様!」
私が振り返ると、遠くにボルボワさんが走ってくるのが見えた。何かあったのかな?私はちょっと待つことにする。
「はぁ、はぁ…お嬢様!良かった!はぁ、はぁ、ちょっと…お待ちを」
ボルボワさんの息が荒い。どうやら全力で走ってきたようだ。
「落ち着いてください。どうかなさいましたか?」
息が落ち着くのを待って私が尋ねる。
「もう大丈夫です。それよりお嬢様!私、頂いたパンを食べましたよ!なんなんですかあれは!本当にパンですか!あんなものは私、食べたことがないのですよ」
ボルボワさんが一気に捲し立ててくる。それにしてもせっかく作ったのに、あんなものとは酷い言い様だ。
「美味しくなかったですか?」
私がそう聞くとボルボワさんはポカンとした顔で
「え!?いや美味しいですよ。とても美味しかったですよ、はい。あのパンを焼いたのは…いえ、考えたのは本当にお嬢様なのですね?」
私が頷くとボルボワさんもウンウンと深く頷いて私の手を取った。
「お嬢様、いやアインスターさん。話がありますので一旦店に戻りましょう。」
そう言って私の手を引き店に向かう。私も仕方ないのでついて行く。途中、すぐに一口食べればよかったとか店の者にもあげようかいや勿体ないから全部一人で食べようかとかぶつぶつと独り言を言っていた。
店に着くとスタスタと奥の応接室のような場所に入っていく。店の者にお茶を持ってくるように言って私たちは席に着いた。
「アインスターさん、単刀直入に言いましょう。あのパンは素晴らしいです。作り方を私に売ってください」
なるほど、そうきたか。ボルボワさんは今までと違いすっかり商人の目になっている。私への呼び方も変わっている。私は頬に手を置いて少し考える。自分で売るのは難しいと考えていたところだ。製法を買ってくれるのは正直ありがたい。でも…
「ボルボワさん?おいくらで買っていただけるのでしょうか?」
「以前、隣の国で新しく開発された繊維の製法を買い取ったことがございました。その時に支払った金額が金板5でした。ああ金板は金貨10枚分の価値があります。同じ金額でこのパンの製法を買い取りたい」
金板1枚が前の世界では100万円から300万円といったところではないか。前の世界でも研究により生まれた新しい技術や製法はそれを使う企業によって高額で売買されていたので金額自体にはそれほど驚かない。
…しかし貴族とはいっても五歳の娘に持ちかける金額じゃないよね。
「ところでボルボワさんはパンを使うお店を経営していらっしゃるのですか?」
「いいえ、私はこの販売店と製造工場、全て服飾関係でございます」
「それでは製法をお売りするのは難しいですね」
ボルボワさんは提示した金額に自信があったようで、ちょっと驚いた後がっくりと肩を落とした。
「製法が私では難しいと?」
「いえ、作るのは簡単です。私でもできましたし。ただ私は、せっかくならこのパンがこの街で広く、そして値段も安く広まってほしいのです」
街でも気軽に買えるようになれば私もパンを作らなくて済む。それには値段もあまり高くなっては困る。例えばボルボワさんが製法を独占してしまうとパンの値段が今までよりも随分高くなってしまう恐れがある。たくさんの店で価格競争をしてもらわなければ困るのだ。そうなればパンもより研究されていろんな味が楽しめるかもしれないしね。
最後のは私の願望だけど…概ねそのようなことをボルボワさんに説明する。
「ふむふむ、なるほど。アインスターさんはよく考えていらっしゃる。いや、このようなパンを作ってしまうのもそうですがとても幼い子供とは思えませんな」
ボルボワさんの目の奥がキラリと光ったように見えた。私は深く突っ込まれるのを避けるためにも話を続ける。
「それで、製法を売るというのは私もぜひそうしたいのですが、ボルボワさんに相手の紹介と交渉を
お願いできませんか?」
「うーむ、それでしたら販売先は商人ギルドの食品販売部門にもちかけるのがよろしいでしょうな。個別のパン工房などではアインスターさんの言うように独占される恐れがありますので」
確かにギルドに売ってしまって後は勝手に広げてもらうのが良いだろうと私も思う。
「ところで、ギルドに製法を売るにあたっても先ほどボルボワさんがおっしゃった金額でよろしいでしょうか?」
「妥当なところでしょうな」
やはりボルボワさんは適正な金額を提示してくれていたようだ。
「それでは条件は一つ、製法を知りたい職人や工房には情報を開示すること。その際にギルドが手数料なりを徴収すればギルドも損をしないでしょう。販売料の金板5枚のうち、金板1枚をボルボワさんに手数料としてお支払いしますので交渉を受け持ってもらえませんか?」
私がそう言うと、ボルボワさんも少し間をおいて首を縦に振った。
「喜んでお引き受けいたしましょう。ただし交渉中に製法を聞かれることがあるかもしれませんのでアインスターさんも一緒に来ていただけますか?そうですね三日後に私の知り合いのギルド幹部に面会予定を入れておきますのでその時にご一緒に。ご自宅まで迎えにあがりましょうか?」
「いいえ、ここまでは自分で来ます。今日くらいの時間で構いませんか?」
「結構です。お待ちしております」
私は途中店員さんが持ってきたお茶を飲み干して席をたった。