92.一人行く道
薄っすらと白みを帯び始めた空を眺めながら私はカートを走らせた。目指すは海沿いの港町ヴィンセント、神聖ギュスターブ帝国の魔法船団が停泊するその場所だ。
私はヴェルギリウス様の言い付けを破り、行動を起こした。といっても戦いに行く訳ではなかった。私は、帝国の要求に従い投降するのだ。
――――そう、投降を申し出る。
それで今回の一連の事態に幕を引く。それが私が出した結論だった。
「お父様、お母様、ごめんなさい……」
家族に対する思いが漏れる。勿論私がこの国を離れる事は伝えていない。突如居なくなる娘、その事を申し訳なく思う。お父様も、お母様も、お兄様二人も、みんな優しかった。おかしな事をする私に優しくしてくれた。
だが、それでもこれが私が出した唯一の解答なのだ。
魔法船団という脅威に、戦えば必ず負ける。そう考えている訳では無い。むしろいかに鉄鋼船といえど六隻という数を考えれば私の小隊なら攻略は可能だ。その方法も私は既にいくつか見当をつけている。
しかし、それら魔法船団を追い返したからといって、それでこの戦争が終わるとは限らない。二弾、三弾の増援があるかも知れない。そうして、戦えば必ず犠牲者が出る。いや、もう既に街には被害が出ているのだ。それが戦争というものだ。
「私が投降すれば、収まるんだよね」
どれだけ出るかわからない犠牲と私一人、それは当然の結論だった。考えられる限りの最適解。そんな事は科学者でなくともわかる。だから私は行かなければならない。私一人の犠牲、いやそれは犠牲とすら言えないかも知れないものだ。
水平線が俄かに色付く。闇を溶かす軟らかな白、夜明けは近い。
「帝国に行ってもまた研究が出来るといいな。ううん、どこに居たってきっとそれは出来る」
帝国には帝国の、この国には無かった景色があるのだろう。投降する私にあまり自由は与えられないかも知れない。それでも、その限られた中で出来る事はある筈だ。もし叶うなら、私の記憶を探る旅に出るのもいいかも知れない。
以前に少し考えた事があった。この世界の歴史を探る。古代文明の秘密を探る。その中に私の記憶に迫る鍵があるかも知れない、と。それは私の永遠の研究だった。
「研究、やっぱり研究かぁ」
こんな時でも思い浮かぶのは研究の事。そしてそれは研究所の仲間たちの顔に変わり。
「研究所の皆はしっかりしてるから大丈夫だよね。モーリッツさんは変わった人だったけど。あれ? マルキュレさんもやっぱり変わってたよね。ふふ、皆変わった人だったんだ」
そういえば誰かが言っていたっけ。私の周りにはおかしな人達が集まるって。違うよ、元から変な人達の中に私が入ったんだよ。だって皆研究者だもん。そこに小隊の皆の顔が加わる。
「ラプラスさんがまた小隊長に戻るのかな、だとしたらごめんね、ラプラスさん。シズクさんはやっぱり怒るだろうなぁ。ベンジャミンさんが上手く宥めてくれるといいけど。そういえばロンダークさんの声を聴いた事が無かったような……」
私の小隊の皆ならきっと私が居なくても大丈夫だ。彼らは既にこの王国の特級戦力、いやシズクさん一人で一国が滅びるんじゃないかというくらいの超特級戦力だ。だからもう私が心配する必要は無い。
やがて朝焼けが眼前に広がる広大な大地を照らし、景色が線になって流れた。そして直ぐ傍にはどこまでも続く一本の長い線路。
「王都とヴィンセントが鉄道で繋がったんだね。ジョバンニさん頑張ってるなぁ」
その名前のせいで鉄道運営のトップ、カムパネルラコーポレーション総帥に据えられたジョバンニさん。まあ、据えたのは私だけど。そのジョバンニさんも物怖じする事なく上手くやっている。私が思っていたよりも肝が据わっている。案外適任だったのかも。
私の色んな思いを乗せて景色が流れる。その一つ一つに別れを告げるように、私は……
「ギルベルト団長にも随分お世話になったよね。いつも白い歯を見せて笑ってたよね、実は公爵様なのに。お父様を宜しくね、ギルベルト様。そして……」
そして、最後に浮かんだのはやっぱりヴェルギリウス様の無表情な笑顔だった。私はヴェル様にだけは別れの挨拶を済ませた。それは一方的で、しかもおそらくは届いていないさよならだったのだけど。何故かそうしないといけないような気がしたから。
以前の世界で、私は一人だった。周りにはたくさんの人がいたけれど、私は一人だと思っていた。一人で日本を飛び出し、そしてまた一人でそこに戻って来た。世界が変わっても私は変わらなかった。いや、ヴェル様に別れを告げた分、ほんの少し変わったのかも知れないな……
「静かだ……」
ヴィンセントの街が視界に映った。夜明けの光を受けたその街は未だ寝静まった様な静けさに包まれ。
「おかしい。静か過ぎる」
私は街の入口でカートを降り。そうだ、この街はギュスターブ帝国に占領されていた筈ではなかったか。街の人達が避難などして姿が見えないのはわかる。だが帝国の人間が一人もいないのはどういう事だろう…… 解せぬ。
「戦いの跡はある、か」
一瞬、本当は何事も起こってはいないのではないかと思ったが、街のあちこちには確かに攻撃を受けた痕が残っている。破られた扉、崩れた家屋。一通り街を見て歩いた私だったが、そこに人の姿は無かった。
「この崩壊した様子はやっぱり実弾だね。魔法で巨大な鉄の球を撃ち込んだように見える。それにしても帝国兵は船に戻ったのかな。うぅん、占領地を放棄して? どうなんだろう」
そんな疑問を抱えつつ、私は街を抜けて海岸を目指した。ともかく船にはギュスターブ帝国の司令官がいる筈だ。そこへ行って投降を申し出なければいけない。だが……
「あ! あれは!」
視界の端に海が広がり、遠くに巨大な船が見える。なるほど、この距離からでもわかる大きさだ。でも私が驚いたのはそこでは無かった。戦艦に見紛うその巨大船の一隻から、もくもくと黒い煙が立ち昇っていたのだ。
――――船が燃えている!?
私の足も自然速まる。近付くにつれその船が燃えているのがはっきりとわかる。そして炎を纏う巨大鉄鋼船、その艦橋の更に上。大振りの鎌を肩に担ぎ、しなやかに立つ仮面の少女の姿を私の瞳は確かに捉えていた。
仮面の下でその口許が俄かに笑みを湛え、朝陽を浴びたデスサイズが煌めきを放つ。それは不敵に笑うシズクさん、その人だった。
次回は1月17日17:00更新です。