91.最後の挨拶
……いけない、ぼんやりしていた。
気が付けば会議室に集まった貴族の面々はそれぞれ私に挨拶を残し退室していた。それらを笑顔で見送った記憶が微かに残る。
「アインちゃん、どうしたんだい、様子が少し変だけど」
最後に残ったのは私と爽やかな笑みを湛えるギルベルト団長、そしてヴェルギリウス様で。
「いえ、何でもありません、ギルベルト様。今日はありがとうございました。おかげでまた一歩、私の思い描く世界に近付きました」
「アインちゃんの思い描く世界、か。それはきっと子供の頃に誰もが描く夢の様な世界なんだろうね。それが実現している、あは、凄いな。でもねアインちゃん、あまり無理するのは良く無いよ。まだまだ君にはその時間がたっぷりある」
ギルベルト団長が白い歯を見せてきらりと笑う。両面に表が描かれたコインの様ないつもの笑顔だ。それに応えて私も精一杯微笑んでみる。
「ありがとうございます。でも私は無理をしている訳ではありませんから、心配は無用です」
私の思い描く世界、か。咄嗟に出たその言葉に、自分でも可笑しくなってしまう。それは今や遥か昔のような、かつて私がいた世界。こことは違う世界。そこには確かに近付いている。だけどそれは果して私の理想の世界だったのだろうか。
私は理想の世界なんてこれっぽっちも思い描いてはいなかった筈だ。世界に理想なんて最初から求めてもいなかった。ただ研究がしたかった、研究の続きがしたかっただけだ。
「それじゃ、俺はこれで失礼するよ」
邪魔しちゃ悪いからね。そんな声が聞こえた気がした。そして残ったのは私とヴェルギリウス様。
「あの…… ヴェルギリウス様……」
ヴェル様はどうしてまだ残っているんだろう。いや、違う、私に何か言いたい事があるのだ。でも私は…… それを聞きたくない。
「アインスター。今日はご苦労だったな」
そのヴェル様が今日初めて口を開く。その声は何故か優しさに満ちて。
「あの…… ヴェル様。ヴェル様は今度の提案にあまり賛成では無かったのですか? 会議中もずっと黙っていらっしゃいましたし」
違う、そんな事が聞きたいのではない。
「そんな事は無い。其方の提案は素晴らしい制度だと私も思う。それについて何も言う事は無い」
だがな、とヴェルギリウス様。
「其方が殆んどの財産を提供する必要は無かったのではないか。其方が身に余る資産を有している事は知っている。だがそれは将来何かの役に立つ事もあろう。今回の制度に其方の資金は必要無いようにも思えるが」
確かに必要無い。その通りだ。私の資金が無くても王国貴族の継続的な資金供給が制度として成り立てば医療の全ては賄える。
「いえ、ヴェルギリウス様。私の資産は多くなり過ぎました。これだけのお金が一所に集まり留まり続けるのは良くありません。お金は巡ってこそ価値があるのです。私には研究所からの給金だけでも過ぎるくらいなのです」
だから、そんな議論は今必要無いのだ。ヴェル様はきっと気付いている。だから今もこうやって目を細めて、私に何か喋らせようとしているのだ。
「それは其方の言っていた経済という事か。なるほどな、理には適っている。ならばその事についても何も言うまい。それが其方のやりたい事であるならば、好きにするとよい。だから」
その声は、そしてその視線は、やはり穏やかだった。私はヴェルギリウス様が時折見せるその優しい瞳が好きだった。思えば私がこれまで好きな研究を目一杯やってこれたのは、この人のおかげだった。
お父様の反対を押し切って魔法学校に入学した私に、とっておきの場所を与えてくれたのはヴェルギリウス様だ。私の提案を一笑に付す事無く、最後まで見守ってくれたのはヴェルギリウス様だ。この人が居なければ、この人でなければ、今の私は無かったに違いない。
「私も、私の好きなようにする」
私は満足している。そう、きっと満足しているのだ。研究所の仲間に囲まれて、小隊の仲間に囲まれて、優しい家族に囲まれて、私は満足している。研究の事、魔法の事、いろんな事をヴェルギリウス様と話している時間は私にとってとても楽しいものだった。その事に私は必要以上に満足しているのだ。
だからこれ以上、これ以上話をしたくなかった。
「ヴェルギリウス様、ありがとうございました」
いけない、涙が溢れそうになる。だから私は咄嗟に振り向き、そのまま会場を後にする。
ヴェルギリウス様……
さようなら。
そう何度も繰り返し心の中で呟きながら。
王国貴族が一堂に会したその会議から数日、その情報は私の耳にも届けられた。王国西部、海岸に面した港町の陥落。そう、神聖ギュスターブ帝国の魔法船団が遂に襲来したのだ。
沿岸部に六隻の巨大鉄鋼船を並べた帝国は教皇パロデアウスの名の元に砲撃を開始した。それは事実上の宣戦布告だった。
皇帝ではなく教皇の名が示された事で、この戦いがボグナーツ教会の主導である事がわかる。尤も帝国であろうが教会であろうが、魔法船団という目に見えた武力がそこにある以上、どちらでも変わりはなかったが。
「やっぱり来たんだね。そして既に攻撃も行われた……」
砲撃の後、鉄鋼船のいくつかが接岸し、強襲部隊が上陸した。そして港町街の一つが瞬く間に占領されたのだった。
ルーベンス王国ではその襲来に備えて魔法師を含めた防衛部隊が控えていた。それでもやはり危惧した通り、魔法障壁は鉄鋼船の砲撃の前に役には立たず、街を放棄し防衛線を後退させるに至ったという。
「魔法障壁が効かない。砲撃魔法が障壁の強度を上回っているのか、それとも」
そもそも魔法では無いのか。
あれは魔法学校入学の為の面接。もう随分前になるだろうか、私は初めてヴェルギリウス様に会った時の事を思い出していた。
「私が注意したのに。ヴェルギリウス様が言う事を聞かないから」
その時ヴェルギリウス様が展開したのは魔法効果を無効化する障壁だった。しかしそれまでのこの世界の魔法とは違い、本物の炎を発生させる私の魔法は、その障壁をすり抜けヴェルギリウス様の服を焦がしたのだった。
「それと同じ、魔法で実弾を発射するようなものなら魔法障壁は効かないんだよね」
実際に見た訳ではないので本当のところはわからない。でも恐らくそういう事なのだろう。魔法船団は古代文明の遺産。この世界の古代文明は魔法文化に優れていたという。それはつまり科学技術も進歩していたという事に他ならない。
「まあ、どちらでも同じ、だよね」
それは今考えなくてもいい。そうして私はぐるりと部屋を見渡した。すっきり片付いた部屋。発つ鳥後を濁さず、ってね。
最低限の準備は済ませた。これは目立つ動きの出来ない私にとっては仕方ない事だった。でも、これでいい。何度も、そう何度も、私は自分にそう言い聞かせた。
翌早朝、まだ陽も昇らぬ暗がりの中、わたしは誰にも見付からぬようにそっと研究所を抜け出した。
次回は1月10日17:00更新です。