9.天然酵母を作る
街からの帰り道、お母様といろんなお話をした。
「それでね、お母さんの実家とお父さんが喧嘩して…今でも実家には帰らないのよ」
お母様の実家は隣町の侯爵家だという。
へぇ、お母様、上流貴族だったんだ。お母様に一目惚れしたお父様が結婚を申し込んだところ、下級貴族ということで侯爵様に認めてもらえなかったらしい。でもお父様は諦めずにお母様を口説いて、お母様も実家を捨ててお父様と結婚したようだ。だから今でもお母様の実家の侯爵家とは絶縁状態なのだ。
ロマンスだねぇ、お父様やるじゃない!
…でもお母様はお父様のどこが良かったのだろう…
そんな事は口に出さず、私も騎士学校に行くことにあまり乗り気ではないということをお母様に話す。
「お母様、私は騎士になって戦うことができそうにありません。騎士になる以外に他に道はないのでしょうか…」
「あら、アインは凄く強いんだってお父さんが言っていたわよ…でも、そうね、王都には騎士学校の他にも魔法学校があるから…貴族には国を守る義務があるのだけれど必ず騎士になる必要はないのよ」
お母様は一瞬困ったような顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻って応えてくれた。
「それに騎士学校に行っても必ず騎士になるわけではないのよ。領地に戻るものもいるし、王都で他の公務につくものもいるわ。お母さんも騎士学校に行っていたのよ」
なんと!おっとりしているお母様が騎士学校に行っていたとは想像もできない。強いのだろうか…
でも魔法学校があるというのは嬉しい情報だった。そこなら魔法の研究もできるのではないだろうか。
「アインは魔法の勉強もしているのでしょう?魔法師になりたいの?」
「そういうわけではありませんが、剣術よりも魔法のほうが面白いのです」
あら、まぁと言ってお母様が笑った。後は取り留めもない話をしているとすぐに家に着いた。
家に帰った私はすぐさま白衣に着替える。男の子用の服なので袖もゆったり、裾が床ぎりぎりまである。
「うん、やっぱり丁度良い。まずはポケットを付けよう」
ボルボワさんに分けてもらった布で内外にポケットを付けることにする。たくさん物が入った方が便利なのだ。一旦白衣を脱いでお母様を探しに行く。
「お母様、お裁縫の道具はありますか?」
お母様はターニャと一緒に夕飯の準備をしていた。
「あるわよ、ちょっと待ってね」
そういうとお母様はテーブルのベルをチリリンと鳴らす。間もなく執事のハンスがやってきた。
「奥様、どうなさいましたか」
「ハンス、ごめんなさいね、お裁縫の道具を取ってきてもらえるかしら。アインに渡してあげてちょうだい」
「かしこまりました」
しばらくしてハンスが裁縫道具を渡してくれた。部屋に戻った私は早速ポケットを数か所縫い付ける。
「これで良し…おおぉ、いいじゃない」
ポケットを縫い付けた私は再び白衣を羽織って台所に向かう。
さっそく柔らかいパンを作るための天然酵母作りを始めるのだ。普通パンを作るときにはイーストを混ぜて生地を寝かせて発酵させる。しかしこの世界ではイーストは無いし今の設備ではイーストは作れない。
そこで天然酵母を作るのだ。天然酵母作りは一時日本でも流行っていた記憶がある。私は死ぬ直前、菌の研究をしていたこともあって酵母についても知識を持っている。
本当は日本食が恋しいのだけれど味噌や醤油は知識があっても作れる気はしない。だけど天然酵母は意外と簡単にできるのだ。
「お母様、ちょっととなりで作業してもよろしいですか?」
私はお母様たちの料理の邪魔をしないように端っこのほうで買ってきた梨を刻む。
「あら?さっそく着ているのね。…その服ちょっと大きいんじゃないかしら?」
私の白衣を見てお母様が微笑む。隣でターニャもクスクスと笑いを堪えているのがわかる。むぅ、白衣の良さがいまいち伝わっていないようだ。
「アインも手伝ってくれるの?」
「ごめんなさい、お料理はまた今度します。今度美味しいパンを作りますね。ここに置いてある空のビンを使ってもいいでしょうか?」
お母様は、いいわよ、と笑顔のまま料理に戻った。
私は二つのビンを綺麗に洗って、こっそり魔法で煮沸消毒する。それにレーズンと刻んだ梨を入れる。砂糖もそれぞれに適量入れる。あとは自室での作業だ。
「ウォーター!」
部屋に戻った私は魔法でそれぞれのビンに水をちょろちょろと注いだ。浄水でなければ駄目なので家の水は使えないのだ。
「後は蓋をして…温度は大丈夫だね」
今の季節は部屋の温度くらいがちょうどいいので日の当たらないベッドの下に保存しておく。頃合いをみて蓋をあけ空気を入れて発酵させれば完成である。だいたい一週間くらいでできるだろうか。
今日の天然酵母作りを終えて次は万年筆に取り掛かる。まずは買ってきたペンのペン先と胴を丁寧に別ける。
「さて、どうやって穴をあけよう…」
胴の部分にインクを貯める空洞を作りたいのだがドリルもないし、削っていってもうまくできそうにない。そこでまず縦に半分に割ってそれぞれ半円の溝を削って最後に二つをくっつけることにした。鋸はあるがペンが小さくて切るのが難しそうなので魔法でやってみる。
「ペンを固定して…」
細く細く絞った水を高速で飛ばす。
上から下へ、チーズでも切るように滑らかに水の刃が通る。
「これは凄いや!」
うまく切れたのに満足したのも束の間、辺りがびしょ濡れだ。
…そりゃそうだ、私の出した水は時間が経っても消えないのだ。自然に乾くのを待つしかない。
「…う、これは見なかったことにしよう」
私はこの水の刃をウォーターカッターと名付けた。
「これならそのまま中を刳り抜けたかもしれないね…」
後は水の量を調整して半分に切った胴部分をさらに削っていけばいいのだけれど…これ以上は部屋の中ではできない。外ですることにしよう。
また明日だなと思ったら、ちょうどターニャが私を呼びに来た。夕飯ができたようだ。私は分解したペンをかたづけてダイニングに向かった。
次の日からは朝起きると剣の素振りをこなし、部屋に戻って天然酵母の様子をこまめに確認する。蓋をあけて空気を入れてやらなければならない。そしてあとの時間で万年筆作りをする。万年筆は慎重に削っているので結構日がかかりそうだ。
五日ほど経った日、今日はお父様が帰ってくるようだ。ちょうどレーズンで作った天然酵母が良い頃合いだったのでパンを焼いてみることにする。
「お母様、今日のパンは私が焼きたいと思います」
「まあ、お父さんもきっと喜ぶわ」
夕飯に間に合うように朝からターニャに手伝ってもらってパン作りだ。背がちょっと届かないのでターニャに踏み台を持ってきてもらう。
「お嬢様がお料理のお手伝いをするなんて珍しいですわね。でもそろそろお掃除もお料理もできるように
ならなければいけませんよ」
これまで私は家に引き籠ってはいたがお手伝いなどあまりしていなかったので、ターニャが驚いたように目を輝かせる。でも私だって前の世界では料理も自分で作っていたのだ。
…まあ、ほとんどレトルトだったけど。
「私はパンを焼くだけです。他の料理はお母様とターニャにお任せします」
「それにしてもその恰好でパンを焼くのですか?」
ターニャがくすくすと笑いながら尋ねる。そう、私はお気に入りの白衣を着ている。料理というよりはまるで化学の実験をするようだ。
「これはエプロンのようなものです。それより小麦粉を取ってもらえますか?」
ターニャが持ってきてくれた小麦粉の入った袋を覗き込む。小麦粉といっても真白ではない。全粒粉に近いけど中には大粒の殻まで混じっている。だからいつも食べるパンはどちらかというと黒っぽい。多少殻が混じっていてもそれはそれでアクセントになって美味しいのだけど、いつものパンと違いを出したいのでふるいにかけて大粒の殻は取り除く。
いつもは生地をこねて焼くだけなのでターニャが何をやっているのかという顔でこちらの様子をうかがっている。
「だいぶ白くなってきたでしょう?今日は柔らかいパンを焼きたいので大きな殻は取り除くのです」
そう言って私はターニャに白ではないが均一なライトグレーになった小麦粉を見せる。
「へぇ、粉がサラサラになりましたねえ。でも捏ねれば同じではないですか?」
「ふふ、まあ見ていてちょうだい。食べればわかります。きっと驚くと思いますよ」
もちろん粉を振るうのは念のためで本当の工夫は発酵の工程なのだからターニャの言う通り必要なかったのかもしれない。あくまでも念のため、だ。
振るった粉に水と塩、天然酵母を加えて捏ねていく。
こねこねこね…こねこねこね…こねこねこね…
今の私の体では生地を捏ねるのも一苦労だ。
こねこねこね…こねこねこね…こねこねこね…
「はあ、はあ、…ターニャ、交代です」
「いつも通りに捏ねればいいのですね?」
「そうです、いつもパンを作る時のように捏ねてください」
さすが料理上手のターニャはパン生地を捏ねるのも上手い。私だってもうちょっと力があれば……あっ!身体強化があるじゃない!身体強化すればきっとパン生地を捏ねるのも楽なはずだ。うん、今回はターニャに任せて次からは身体強化を使おう。
そんな事を考えているうちにパン生地が完成したようだ。
「お嬢様、できましたよ。次はオーブンに火を入れてきますね」
オーブンといっても薪で火を焚くもので焼き始めるまでに時間がかかるのだけれど、さすがにまだ早い。
「ターニャ、ちょっと待って。まだオーブンの準備は早いと思います。そうね、火を入れるのは夕ご飯を作り始めるころでいいです」
それにこれからパン生地を発酵させなければならない。天然酵母の発酵には時間がかかるのだ。
「生地はこのまま置いて発酵させますので場所を移さないでくださいね」
ここは室温もちょうどいい。
「お嬢様?このままでいいのですか?」
やはり怪訝そうなターニャを促して私たちは部屋を出た。
お昼ご飯を食べて今日の日課をこなし、私は一度パン生地の元へ戻った。
「うんうん、いい感じかな」
少し膨らんでいるのを確認して生地を十等分に分ける。今回はシンプルに丸いパンを焼くのだ。分けた生地を丸めて再び発酵させる。初めてなのでその場で様子を見ながら過ごすことにした。
「おおっ!膨らむ膨らむ」
生地が膨らんできたころ、ターニャとお母様がやってきた。
「お嬢様、オーブンに火を入れますね」
ターニャがオーブンの準備をしてくれる。準備を終えたターニャはお母様と一緒に夕飯の準備を始めた。
「ターニャ、お母様、これからオーブンを使いますね」
私は二人に一声かけてパンを焼き始める。オーブンの温度がわからないし、どうやら温度調整も細かくはできないようで、ここでも私はオーブンの前でじっとパンの仕上がりを注意深く見守った。
「あら、美味しそうな匂いがしてきたわね」
そろそろかという頃、お母様が近づいてきた。少し焦げ目がついたところでパンをオーブンから出してちょっと冷ます。
「できましたよ、お母様。味見なさいますか?」
私はパンを一つ、半分に割ってお母様に渡す。
「上手にできたじゃないの。きっとお父様も喜ぶわ。あら?ずいぶん柔らかいのね」
パンを手に取ったお母様が不思議そうに首を傾げた。
「柔らかいパンなのです。ふわふわして美味しいと思いますよ」
私も残った半分を味見してみる。
うん!これだ、これ!これがパンだ。まだまだ改良の余地はあるけれど久しぶりに食べた堅くないパンはとても美味しかった。
「んっ!………」
私が顔を上げるとお母様が難しい顔をして固まっている。あれ?美味しくなかった?もしかしてこちらの世界の人はあの堅いパンのほうが好きなのかしら…
「お母様?…お母様!どうです、美味しくなかったでしょうか?」
はっ!とお母様が我に返った様子で応える。
「美味しいわ。…こんな美味しいパンは初めて食べたわよ。いえ、これはパンなの?…アイン、もう一ついただいていいかしら?」
どうやらお母様も気に入ってくれたらしい。
「どうぞ、ターニャにも半分あげて下さい。一緒に作ってくれましたから。後はお父様が帰ったら夕ご飯の時に一緒に食べましょう」
そう言って私はもうパンを一つお母様に渡した。
「ターニャ、これ物凄く美味しいわよ、どうやって作ったの?一緒に作ったんでしょ?」
「!!!、本当に美味しいですね!…いえ特別に何もしていないような…そういえば小麦粉を振るったり、出来たパン生地を放置したり…」
お母様とターニャの話し声を聞きながら私は部屋に戻った。