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第7章

 閉じた瞼を指先できゅっと押さえると、腫れぼったい。二日連続の寝不足。休憩時間にはデスクに突っ伏してうとうとしていた。

 思い出すと顔が上げられない。考えないようにして一日を過ごした。

 ───諒介はもう大阪へ帰っただろうか。

 残業を終えて帰る支度をしている時に、バッグの中のPHSに着信の記録を見つけて、今日何度も考えた事をまた考えた。もう大阪へ帰っただろうか。そして、それ以上は考えるのがつらかった。

 開発部の前を通りかかると、マシンに向かう古田さんが目だけ上げて「おつかれ」と私に声をかけた。お先に、と答えて奥の澤田さんを見ると、彼は帰り支度を済ませてコートを羽織った姿で自分の席の椅子に座っていた。古田さんと私のやりとりに振り向いて、微笑むと鞄を手に立ち上がって古田さんに「お先」と言った。古田さんは澤田さんの顔も見ないで「おつかれ」と言いながらキーを叩いていた。

 駅までの道を澤田さんと並んで歩く。諒介の事を訊かれると思っていたが、彼は何も言わなかった。新大橋通りまで、私達は無言で歩いて、ようやく澤田さんが「またな」と静かに言った。「…おつかれさまでした」と答えると、彼は微笑で頷き、背を向けて歩き出した。

 部屋に戻って上着を脱ぎ捨てバッグを投げ出して、ベッドの縁に背を凭れて膝を抱えた。キッチンの明かりがわずかに差す部屋。明かりの代わりにテレビを点けて、ビデオデッキにテープを入れる。元の位置に戻って、抱えた膝に顎を載せた。静かな映画が観たかった。淡々とただ時が過ぎるような。山々の遠く深い緑と人々の素朴な表情をぼんやりと目に映す───静寂を破って電話のベルが鳴った。

 私はすぐに動く事も出来ずに、暫し電話を見つめていた。のろのろと床を這って受話器を取る。……諒介からだと判っていた。はい、と出る声が掠れた。間を置いて「和泉です」と遠い声がした。

「あ…」と言いかけて黙り込む。自分の事となると口下手な諒介。

 言葉を探る彼の沈黙には慣れている……テレビの画面が放つ淡い光がゆっくりと瞬いて色を変える。じっと待つ間に、これがいつもと同じ沈黙である事を願っていた。

「…その、…昨日は…ごめん」

 電話の向こうで頭を下げるのが見えるような声だった。再び沈黙。

 部屋からかけているのだろう、何の音もしない、静かな部屋で、諒介が眼鏡を外して目をこする時のわずかな空気の流れまで聞こえそうだった。

「由加、…僕は───」

「謝らないで」

 彼の言葉を遮った。涙が出そうになるのを堪えると唇が震えて語尾が掠れた。

「……何にも…気にしてない…から……。何にも……」

 何もなかった事にして。

 ───これまで通り変わらずにいて。


 『誰かにとって変わらないものがあるような』


 抑えきれなくなった涙が落ちて、口を手で覆った。声を殺すと、テレビが笑った。

 画面では、少年と少女が屋根に登ってふざけあっていた。暗い夜空の下で、危ない足元に笑いながら、それぞれの心を隠して───変わらない二人でいるために。

「……忘れる、から」

 声を振り絞ってようやくそれだけを言った。こんな言葉が諒介を傷つけているのは判っている。


 『大事な友達なの』


 ───大切な人だから。

 失いたくない。ずっと友達のままでいたい。

 長い沈黙の果てに向こうから小さく「うん」と聞こえて、心臓がぎゅうっと痛んだ。背を丸めて堪えていると、「それじゃ」と掠れた声がしてプツッと切れた。ゆっくりと受話器を戻す。床に寝転がって見たテレビは、軽トラックに家具や荷物を積んで、少女と母親が街へと引っ越してゆく場面だった。

 兄妹のようないとこのままで。家族のようなおばと甥のままで……

 大切に思いながら別れてゆく。

 心が擦れ違ってもずっと友達でいられたら───

 ベッドから毛布を引きずり下ろした。テレビから隠れて泣いた。





 映画のように、日々が淡々と過ぎていった。秋が深まってゆく。

 あれから───

 何事もなかったように過ごした。日毎に冷たさを増してゆく風。

 その中で、澤田さんの側はあたたかかった。

 諒介からの電話の後の週末、あの日と同じように、澤田さんは私の仕事が終わるのを待っていた。「飲みに行かへんか」との誘いを断ったが、新大橋通りまで一緒に歩いて帰った。

 もう何度も、こうして一緒に歩いた道。

「泉さん」と大きな声で呼び止められた、初めて会った時。早足で歩く諒介を二人で追いかけた事。大阪へ戻る諒介を見送りに行く澤田さんを追って走った事もあった。私が怪我をした時に見せた怒った顔。「東京と一緒、大阪も一緒」と歌った澤田さん。

 同じ道を、季節を越えて、並んで歩いている。

 聖路加看護学校の交差点を渡って築地川公園を横切る時、まだ出逢ったばかりの諒介が、そこでぺろりと舌を出して私をからかったのを思い出した。

 ───もう、あの頃の諒介じゃない。

 駅に向かって黙々と歩く。おそらく澤田さんも……諒介と擦れ違ってしまったのだろう。何も訊ねないから、そんな気がした。右手の怪我の事も何も訊かなかったのと同じように。ただ黙って側にいる。それがとてもありがたかった。

 それでも───澤田さんも、同じではない。

 いつのまに二人は変わってしまったのだろう。……私だけを残して。

 小さく溜息をもらすと、「寒くなったなあ」と肩を抱き寄せられ、どきっとした。彼は足を止めて私を見下ろし、軽くフッと笑った。新大橋通りの交差点だった。「明日、暇か」と訊かれて頷くと「映画でも観に行こか」と言う。

「…うん」

「観たいの考えとけ」

と彼は手を放した。大雑把に待ち合わせの時間と場所を決めて「おつかれさん」と別れた。

 ───以来、週末は澤田さんとそんなふうに過ごしている。

 映画を観たり本屋を覗いたり、食事をしたり。この前言った『一人の男性として』の観察期間と思って構わない、と彼は言った。

「観察日記でもつけるか」

「ヘチマみたい」

「俺はあんな長い顔か」

 澤田さんが構えずにいるので、ほっとする。……構えているのは私の方だと思い至って、少しずつ、澤田さんとの将来を考え始めていた。





 霧のような冷たい雨が降っていた。昼休みに佐々木さんと二人でパンを買いに出て戻る。エレベーターが一階に降りて来るのを待っていると、傘もなく雨に濡れてエントランスホールに飛び込んで来た人があった。

「…あ、おつかれさまです」

 その声に振り向く。

 諒介はこちらに軽く会釈して、外した眼鏡をハンカチで拭った。スーツの肩や髪に雨粒が小さく光る。それを見ないように俯いた。

「おーっ、和泉さん久しぶりー。出張?」

「そりゃもう」

と答えて苦笑するフッという吐息。佐々木さんが彼の肩に提げた大きな鞄に目を留めて、「見たまんまね」と笑って頷いた。エレベーターの開いたドアを諒介が手で押さえる。私達が先に乗り込み、彼は後に続いた。五階のボタンを押す。開発部に来たのだろう。

「今度はいつまでいるんですか」

「明日」

「あ、じゃあ今夜また飲みに行きませんか。せっかく来たんだし。ねえ?」

と私に話を振られて、肩を竦めて頷いた。……諒介を直視できない。最後に見た彼の顔が、驚いたように目を見はった困惑の顔である事を思い出した。あれからひと月にもなる。

「残念だけど、この後もう一社行って、夜は接待されないといけない」

「ほう、接待される身分になりましたか」

「そういうの苦手なんだけど」

 その語尾に溜息が混じって、私はようやく顔を上げて彼を見た。真っ直ぐにドアを見つめる横顔。エレベーターが停まってドアが開いた。「お先に」と彼は早足で歩き、開発部の人達が出払っているのを見るとそのままマシン室へと入っていった。

「…何かあったの?和泉さんと」

「………」

 佐々木さんの鋭さにうなだれるしかなかった。

「…何で判っちゃうの」

「だって二人とも目を合わせないようにしてるんだもん」

 それは佐々木さんでなくとも一目瞭然、とがっくりした。彼女は私の腕を取って、誰も居ない休憩所へと引っ張った。自販機でコーヒーを買って隅のテーブルに着いた。

「余計な事だし無理に訊ねるつもりもないけどさ」

と、パンの袋を開けながら言う。

「泉ちゃんの怪我も治って、精神的にも落ち着いたじゃん。こう、ふらふらっと居なくなっちゃうようなさ、…言い方悪かったらごめんね、…病的…と私は受けとめていたんだけども…精神的に追いつめられていたせいでね」

 彼女は言い難そうにゆっくりと話した。その解釈は…どの程度か判らないけど、正しい。私は黙って頷いた。

「そういう泉ちゃんが発作的に居なくなったりした時に、どうするかを和泉さんが決めるって言ってたじゃん。和泉さんがこっちに居た頃からなんでしょ?つまり初めて会った頃からって事だよね。…それが、治って。それはいい事なんだけどさ」

 熱いコーヒーを啜って顔をしかめた彼女は、大きな目を私に向けた。

「そうしたら、今度はどういう関係でいたらいいのか判らなくなっちゃったんじゃない?」

「……え?」

「だってもう泉ちゃんは自分の事は自分で決められるんだからさ」

「………」

 どういう関係でいたらいいのか───今までのようにはいられない。

 それならどうしたらいいんだろう。

「…多分、和泉さんもそれが判らないんじゃないかな…。でなきゃもっとしゃんとしてる人だよ、和泉さんは」

 諒介も判らない───?

「喧嘩してるんなら話をしておいでよ。今ならマシン室にも誰もいないだろうしさ」

と言われて、私は「うん」と立った。佐々木さんはにっこりと笑った。

「はい、いってらっしゃい」

「うん。…あ、ありがと」

 慌てて礼を言ってマシン室へ向かう。昼休みは残り十五分。

 早足でマシン室に入っていったのだから、急ぎの仕事があるかもしれない。仕事中なら、声を掛けるのは後にしよう……と思いながら、そっとドアを開けた。長テーブルにマシンを並べた部屋。諒介は、いちばん奥の隅で、こちらに背を向け壁に凭れて立ち、窓の外を見ているようだった。戸口から大声で呼ぶのも気が引けて歩み寄ろうとした時、彼は右手をすっと動かした。

 頭が下を向く。俯いて、下ろした手に眼鏡。わずかに肩が下がった。

 その姿に、胸がぎゅっとつまった。

 諒介、と呼ぼうとしたその瞬間───

 下ろしていた手が素早く動いた。ドン、と大きな音に背筋が固くなって動けなくなった。

 壁に突いた右の拳。

 諒介は背を向けて俯いたまま、じっと動かなかった。

 ───諒介が怒っている。壁を殴りつけるほど。

 一歩後ずさると、背中に細く開けたままだったドアがぶつかってギイと鳴った。その音に諒介はゆっくりと振り返った。よく見えないのか、彼は眉を寄せて目を細めた。

「…由加?」

 彼は───いつものように……

 いつものように、頼りなく笑った。「ああ」と何かに納得したように言って頷き、壁から手を離す。かつん、と眼鏡が床に落ちた。

 彼は左手で掻き上げた前髪を押さえて目を凝らし、足元に落ちた眼鏡と右手に残った眼鏡の弦を交互に見た。

「…ああっ、眼鏡折れちゃった!」

 慌ててしゃがみ込んで眼鏡を拾おうとして、テーブルの端に頭をぶつけた。「イテッ」と頭を押さえ、「じーん」と自分で擬音語を発し、顔を上げて……私を見た。

「はは…まいったな」

 テーブルに手を掛けて立ち上がった諒介は、いつもより背が高く……大きく見えた。

 眼鏡の折れた所に目を近づけて「まずいな…」と呟く。ふいにクスッと笑って、眼鏡を目にあてて「ウルトラセブン」と言った。

「…判らないよ」


 『本当の僕を知らないんだろう』


「セブン見てなかった?」

「ごまかさないでよ」

 私の知っている諒介は───

 じわりと涙が滲んで諒介の姿がかすんだ。

 私が知っているのは……仕事が好きで、お節介焼きで、何でもおいしそうに食べて、時々とぼけていて、へなちょこな顔で笑って、……でも、頼りになって。

 あれは───ずっと私には見せずに来た、顔。

 今も、見せまいとして……いつもの顔を見せている。

 ここに居るのは───いつもの諒介は……

 膝ががくがくと震えて壁に寄るとくにゃりと曲がった。

 落ちる───


 『理由が判れば由加はそれを止められる』



 『僕を信用して』



 真っ暗だ。何も見えない……


 『落ちるな!───』


 ───落ちるな。……落ちるな。落ちるな……


 がくんと床に膝を突いた。痛い……額がひやりとした。諒介が……近づいてくる。

 吐き気に背を丸めると頭がぐらぐらと揺れた。落ちるな、落ちるなと繰り返すうちに意識が遠退いた。

 ───目を開けるとそこに片膝を突いた諒介の革靴があった。ゆっくりと頭を動かす。膝の上の大きな手、赤茶系のネクタイ、眼鏡のない顔。諒介は、ふうと息を吐いた。

「…落ちなかったね」

「うん…」

「入力の人を呼んで来る」

 気を失っていたのはわずかな時間だったらしい。諒介がマシン室を出て行き、私はだるい体を起こした。


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