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第6章

 昨夜はよく眠れなかった。

 あれから一時間程で諒介から電話があった。落ちた私を捜しに出たのだそうで、「戻っているならいい」と言った。何も言えずにいると彼は暫しの沈黙の後で、静かに「おやすみ」と電話を切った。

 ベッドに潜り込んで頭まで布団を被る。全身包み込まれてようやく安堵した。

 お正月を思い出す。あの時も私は───

 ぎゅっと目をつぶった。目頭に涙がじわりと滲む。

 ───諒介を、気持ち悪いと思ったのだ。

 澤田さんの部屋。明け方に目を覚ますと、こたつに潜り込んで体を丸めて寝ていた二人。背中を向けていた澤田さん。眼鏡を外して眠っていた……諒介。

 見た事のないような顔。

 私の知らない大阪の話。仕事の話。言い淀む自分の事。───私の知らない諒介。

 近づくと姿の見えなくなる富士のように、懐に入り込んだ時に、その大きさをただ漠然と感じる。得体の知れなさ……それでいて、子供のような穏やかな寝顔で眠っている。

 諒介は、男の人だった。

 思い知らされる。超えられない壁がある事を。私にはない、力、心。

 そして諒介のそれは───計り知れなかった。

 ぐるぐると考えてはうつらうつらと眠りに落ち、また目覚めるのを繰り返した。がんがんと鐘を鳴らしているように痛む頭で出社する。仕事をしている方が気が楽だった。

 昼休みに澤田さんの誘いで昼食を採りに外へ出た。会社を出るなり「昨夜、和泉と話は出来たのか」と訊かれ、どうやら二人の間では了承済みだったらしいと思うと気が滅入った。澤田さんは私の顔色を読み取ってか、

「何の話かまでは知らんけどな?『ちゃんと話しておきたい事があるから』言うて、『由加を借りるよ』てな」

「…借りるって何?人をレンタルビデオみたいに!」

「…何苛ついとんねん」

 コーヒースタンドのドアを押す手を止めて澤田さんが振り返った。私の顔を見て苦笑し、「まあ、聞けや」と先に入る。コーヒーとバケットサンドを載せたトレイを持って奥のカウンター席に並んで座った。ガラス越しに通りを眺めながら話を聞く。

「『借りる』言うたのは…はは、俺が由加に申し込んだの判ってんのやろ。奴も気ィ使てんねん。由加、おまえならそんくらい判ると思うけどな」

「…うん」

 ……判らなかった訳ではない。判ったから、腹が立ったのだ。見透かされている感じや、知らない所で交わされる会話。

「『借りる』と言う以上、俺も、ああ奴は決着つけるつもりなんやな、と」

「決着?」

「和泉は『待ってろ』言うたやんか」


 『ちゃんと話ができるような時が来るまで、待って欲しい』


「…うん」

 諒介が何を話そうとしているのか、私は知らない。胸にもやもやと広がっていく暗い雲。目を伏せてコーヒーを啜った。

「その顔やと話出来なかったな。何やっとんねんあいつ」

 笑いながら言うその語尾に溜息が混じった。違う、と思うが言えない。諒介が話しに来たのは特異体質の事だなんて、言えない。


 『なぜ僕が呼ばれたのか』


 それは多分、私の特異体質の事を知っているのが彼ただ一人だからだろう。そしてこれまで幾度か、私が落ちるのを止めている。

 誰にも言えない。……澤田さんにも。

 私の沈黙をどう解釈したのか、彼は「しゃあないな」と言って頬杖を突き、黙り込んだ。

 それが私の事なのか諒介の事なのか判らなかった。

 カップの底に砂糖が沈んでいた。溶けきらない思いを残して席を立った。





 仕事を終えて帰る足取りが重い。地下鉄のドアの横の手摺に凭れて、ガラスに映る自分をぼんやりと見た。───昨夜は話の途中だった、きっと諒介はどこかで待っている。それとも、もう大阪へ帰ってしまっただろうか。

 ……こんな気持ちのまま、別れてしまうのはいやだ。

 駅から部屋へと向かう途中、坂を上らず通り過ぎて坂道横の公園に入る。部屋のベランダから見下ろせる『二階建ての公園』。前にも諒介はここで待っていた。……ほら。

 諒介は、いつかここで話した時のように、ブランコの柵に腰掛けて煙草をくわえていた。黒いハイネックの上に昨日と同じニットジャケットを着て、横を向いている。携帯灰皿に煙草の灰を落とし、ふと振り向く。私に気づくと会釈するかのように首を横に傾けて、ニコッと笑った。


 『やっぱりここを通ったね』

 『ここに居ると思ったから』


「おつかれ」

 歩み寄った私に彼はそう言うと、煙草の火を消して灰皿をポケットにしまった。横に並んで柵に寄り掛かる。部屋で話すとまた落ちてしまいそうな気がした。正面の外灯が辺りを白く照らし、公園の周囲の家々の明かりが穏やかだった。彼が「ここは好きだ」と言ったのを思い出した。

「明日帰るよ」

「…うん」

 そう答えるのがやっとだった。互いに言葉を探して沈黙する。澤田さんの言った通りなら彼は何か言おうとしている───今。

 ふいに彼はフッと苦笑して、「昨夜はどこに落ちた?」と訊ねた。私は公園の二階部分へと続く階段を指差して「そこの上」と答えた。

「何だ、こんな近くだったのか」

「…捜した、って、どの辺り?」

「いや、見当もつかなくて…この辺り一帯をマラソンしてしまった」

「…ごめん」

「静岡まで走らなきゃならないかと思った」

「はあ?」

 諒介は体ごと横に傾いてくつくつ笑った。

「いや、落ちていちばん遠くなら実家かな、と…。でもそれもちょっと考え難かった」

「どうして?」

「由加が静岡まで落ちていた…と思われる時は大抵、無自覚だったから。『夢をよく見る』と言っていたしね。つまり落ち方が違うんだ。『落ちる』…という言い方も的確ではないかな、こう、」

 話しながらジャケットのポケットから煙草を一本抜き出して、指に挟んだ煙草の先でスッと横に直線を引いた。

「自然に移動している。僕が『落ちた』時もそうだったし」

 何となく俯くと、足元に黒いナイロンの鞄があった。何が入っているのか、中身の少ない鞄はくたっと傾げて、力を抜いているように見えた。

 ───昨夜の緊張がほぐれてゆく。

 こうして風を感じながら話していると、昨夜自分がいかに緊張していたかが判る。諒介の言う『空間の歪み』での事を意識してしまって、その緊張が彼にも伝わっていたのだろう。こうしていると───いつもの諒介だ。

「なぜ『落ち方』が違うのかは…僕には判らないけど、由加には判る筈だ。そして、それが判れば、落ちなくなる」

「…私に?」

「うん」と、彼は例の頼りなく眉を下げた笑みを見せて頷いた。ライターの火を手で包むようにして風を避けると、俯いた横顔がぽうっとオレンジ色に照らされて浮かび上がった。

 知らない間に落ちていた時。

 静岡に帰りたかった。───諒介に会いたかった。

 赤面するのが判ってまた俯いた。

「これまでの特異体質の症例…って言うのかな」とくすっと笑う。「まあ、経験からみて、由加が自分の心の中に原因を見つける事が出来れば症状は治まる。…今回、また『落ち』てしまったのは、この前の不審者が怖かったから。でしょう?」

「…うん」

「それはもう判った、『落ちる』原因はそれで断てる。問題は新しい症状…『呼ぶ』とでも言うかな」

 彼は首を傾げて目を細めた。くわえた煙草が上を向く。口をへの字に曲げたのだ。

「前回は呼ばれたのが僕だったから良かったけど、今後を考えると怖いのは由加が何を呼ぶか判らない事だ」

「………」

「前回は『不審者』と『落ちる現象』との恐怖のセットで、『滑り止め』の僕が呼ばれたと判る。……恐怖のセットか。ランチメニューみたいだな」

 声もなく肩を震わせて笑う諒介の横で私は脱力した。

「何を呼ぶか判らない…そう、澤田を呼ぶか、おまわりさんを呼ぶか、ウルトラマンを呼ぶか」

「何言ってるのよ」

「でもまあ、彼らはそれぞれ、澤田の部屋、交番、M78星雲と帰る所が判っているからいいんだ。僕もあんな所から無事に戻れたのは多分そのせいだろうと思う。問題はゴジラなんかを呼んでしまった場合だ」

「呼ぶわけないでしょう!」

 諒介の腕をひっぱたくと彼は体を折って「ははは」と笑った。おかしくて私も笑う。

「…諒介、相変わらずの謎の思考回路」

「そうかな。ちゃんと筋道立てて考えてるつもりだけど」

「じゃあ、謎の言語センス」

「何を言う。こんな分かり易い例えはないじゃないか」と言った途端、煙草の灰がぽろりと落ちた。

「呼ばれる方は自分の意思ではどうにもならない。『呼んだ物あるいは人』の出所を、由加が知っているか否か、それだけで事後に差が出る。つまりちゃんと元の場所に戻れるかどうかだ。怖いと言ったのはそこだ」

「………」

 ぞくりとした。背筋が固くなって、……全身が、痛い。

 何もない暗闇───

 諒介は小さく溜息を吐いた。

「…でも、それも原因を断つ事が出来る。現象としては『落ちる』のと同じだから、さっき言った事を理解していればもう起きない」

「…同じ?」

「そう。何かを『呼ぶ』にしても由加自身が『落ちる』にしても、『空間の歪み』が必要になる。だから由加が『空間の歪み』を作らなければいいんだ」

「作る……私が?」

 私があんなものを作っている?

 真っ暗で、どろどろして───怖い。

「由加」

 諒介は二本目の煙草を消して携帯灰皿に落とした。伏し目がちに微笑んで、小さく頷きながら言った。

「大丈夫だよ」

 ゆっくりと目を上げて私を見た。静かな眼差しと声。

「あそこには何もない。……闇と……静寂、それだけだ。けれどここには」

と、彼は前を向いた。視線の先の外灯をじっと見つめている。私もつられて見た。

「光がある……」

「………」

 ふいに諒介は俯いてふっと笑うと「澤田みたいな事言っちゃった」と肩を揺らした。私は思わずあははと笑った。

「そんな事言ってたっけ?」

「ほら、中嶋の結婚式の引き出物に入ってた『おもひで』ですか、澤田が『もっと光を』って書いてたでしょう」

「ああ、あれね…」

 諒介が足元の鞄を拾い上げて携帯灰皿を中に入れ、ビデオカメラを取り出した。

「変なところで前のテープが切れたから、随分残ってるんだよな」

と言いながらテープを巻き戻す。液晶パネルを開いて再生ボタンを押した。

 雪枝さんが、ご両親への手紙を読み上げるところだった。私は「ほんとに最後の方だね」と頷いた。


 『───これからは、誠二さんとずっと一緒に、手を取り合い力を合わせて……』


 雪枝さんの声。穏やかな、けれどとても確かな声だった。

 お父さんの目に光る涙。

「…これ見ると、めぐむが嫁に行く日の事を思って、もう」

「あはは」

 横目でちらりと諒介を見ると、彼は本当に姪のめぐむちゃんの花嫁姿でも想像しているのか、なさけない笑みで液晶画面を見つめていた。そして花束贈呈、新郎の父の挨拶───披露宴の映像が終わって、風景ががらりと変わった。

 どこかの部屋で、壁に寄り掛かって脚を投げ出して座る諒介。傍らに積み上げられた洋書と、額装された絵。

「これは?」

「友達が撮った」

 彼は象の形をした黄色いギターを手にしてぽろぽろと弾いている。

「結構上手いんだね」

「うん、まあ、それなりに…長い事やってるし」

「ふうん…」

 画面の中の諒介が苦笑する。


 『弾き難い』


 諒介が言うと、撮影している人のものらしいフッという小さな笑いが聞こえ、そこで映像はぷっつりと切れて液晶画面が青一色に変わった。停止ボタンを押すと画面は暗くなった。と、諒介はカメラをこちらに向けて構えた。

「…え?」

「やっぱり、テープが余ったからといって、この際撮るのは何でもいいというのはあまりに創造性がないな」

「どういう意味よ」

 何でもいい、と言われて睨むと諒介はクスッと笑った。

「動きがないとつまらないな…。由加、動いてみて」

「こう?」と両手を動かす。彼は「何だ、その不思議な踊りは」と笑い転げるように、座っていた柵から降りてそこに顔を伏せた。そうして周囲を見回した彼は「ああ、あれがいい」と指差した。地球儀の形をしたのりものに、彼はカメラを手にして歩み寄り、入口に頭を差し入れて「狭い」と笑った。

「子供の頃はよく遊んだものだけど」

「うん、私も」

 手を掛けるとギイと音を立てて軋んだ。……昔と変わらない、懐かしい音。

「由加なら乗れるだろう、チビだから」

「むっ」

 身を屈めて鉄の棒の入口をくぐる。こんなに狭かったろうか。私が大人になったのだと、こんな事で実感する。頭がつかえそう、と座り込んだ。「撮ってごらん」とビデオカメラを渡され、膝の上で液晶パネルを開いた。録画ボタンを押す。両手で持って正面に向けて構え、「こう?」と彼を振り向いた。

 両腕を広げて地球儀の鉄の棒を掴んだ諒介が首を傾け微笑んだ。そうして、きゅっと口を結び、横を向いてゆっくりと歩き出した。

 地球儀が回り出す。

 液晶画面に映る風景が横に流れていった。だんだん速さを増してゆく。遠くに見えるビルの明かりや近くの木々の影が、何度も何度も巡っては画面から消える。「目が回りそう」と言うと、諒介が笑った。私はカメラを横に向けた。

 画面に諒介が現れた。

 向けられたカメラから目をそらし、こちらに横顔を見せて走る。彼の後ろの景色がどんどん流れてゆく。外灯の光の下をくぐってはまた影に隠れ……昼と夜を繰り返す地球の自転のように。ふいに彼が足を止め、勢いをつけて地球儀を押した手を放した。

 画面から諒介が流れて消えた。ぐるりと回ってまた現れては消える。

 ガシャンと音を立てて地球儀が止まる。体がぐらりと揺れて後ろの鉄の棒に寄り掛かった。目の中の景色がまだ回っているような気がして目を伏せると、私の膝の上から諒介がカメラを取り上げた。

 鉄の棒が交差する所にカメラを寄せて固定して持ち、レンズをこちらに向けてゆっくりと回り出す。撮られていると思うと恥ずかしくて顔を伏せた。スピードが上がって横に手を突いた。顎を引いて上目遣いの諒介がカメラと私を交互に見ている。照れくさくて笑った。

 景色のせいか眩暈なのか判らない。体がゆらゆらと揺れて、空を見上げると頭の上の月がくるくると回っていた。

 ゆっくりと、地球儀が止まった。

 目が回るよ、と言って私は目を閉じた。諒介の笑い声。

「鳥かごみたいだな」

 鳥かご?と答えて声の方を振り向いた。動かした頭の奥の芯がじーんとして、開いた目をまた閉じる。

 ……そうかもしれない。丸い小さな世界。閉じた瞼の裏で光が揺れていた。月の残像。丸い大きな鳥かごを思い浮かべると、知らずふっと笑みがこぼれた。諒介の静かな声。

「青い卵の白い───」

 いつか諒介の部屋で見た、青い石を卵に見立てた≪鳥の巣≫を思い出した。きっとあの石の事を言っているのだろう。

 何かが軽く唇に触れた。

 わずかに触れた柔らかな弾力の唇が一瞬そっと私の唇を吸って離れた。

 ───ぎゅうっと胸がつまって、閉じた瞼に力を入れた。眉が寄って唇を噛んだ。身を竦めながらおそるおそる目を開ける。

 ゆっくりと上体を起こした諒介が目を見開いて私を見下ろしていた。

 驚いたような、呆然とした顔をしていた。その足元で、ゴトッという音。彼は、ぱっと右手を口にあてて顔を横に向けた。

「……ごめん」

 掠れた声でそう言うと彼はくるりと背を向け、駆け出した。私は身動きもできずに、彼が走って公園を出ていくのを見ていた。彼のいた場所に落ちたビデオカメラに手を伸ばして拾い上げる。周囲が涙でぼやけて見えなくなった。

 ───諒介。

 俯くと膝の上のカメラに涙がぽとっと落ちた。


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