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第4章

 月も改まった最初の日曜日。中嶋さんと飯塚さんの結婚式の日。

 車窓を流れる秋の始まりの景色は懐かしく優しい彩りだ。私は駅に降り立って、招待状に書かれた式場を目指して電車を乗り換えた。少し早く着けそうだ。緊張感も手伝って早起きも苦ではなかった。午前中に髪を切りに行って頭が軽くなった。天気も良くて気分がいい。

 ところが、招待状の地図の通りに歩いた筈なのに道に迷ってしまった。気が付いて引き返し、途中で人に訊ねたりして、ようやく式場にたどり着く。駅のすぐ近くだったのにはがっくり。ロビーで辺りを見回すと、頭の上から「泉ちゃーん」と声が降ってきた。

「こっちだよー」

 ディズニー映画の『シンデレラ』に出て来たお城のような、カーブした大きな階段の上、佐々木さんと大河内さんが二階の手摺に凭れてこちらに手を振っている。私はふかふかした絨毯を敷き詰めた階段を上った。大河内さんが佐々木さんを振り向いて言う。

「ほらやっぱり、ね?」

「いやあ、期待通りというか期待外れというか」

「何が?」

「いいから、いいから」と背中を押された。佐々木さんが『中嶋家控室』と書かれた半紙を貼ったドアを軽くノックして開く。

「…飯塚さんの方じゃないの?」

「第二レース結果発表でーす」

 え、と思う間もなく控え室に居た皆が私を振り向いて「おおー」とどよめいた。

「ベージュ系膝丈ワンピースに賭けた人、いる?」

「確実に大本命の黒パンツスーツで来ると思ったのに」

 ……まさか、これは……

「サンキュー泉ちゃん。やったね、十六倍」

と市川チーフが近づいて来た。その向こうで、澤田さんが後ろを向いて壁にはりつき、肩を震わせて笑っているのが見えた。チーフが持っていた紙を横から覗き込む。

 ……『築地競馬』?

 コピーで作った競馬新聞だった。問題の第二レースは、『泉由加の服装』。

 胸の下で生地を切り替えたベージュのワンピースとジャケットのスーツは急遽里美に借りたのだけど、こんな事ならパンツスーツで来れば良かった。いや、期待通りとも期待外れとも言われたのだから、どちらにしても同じだったのだろうけど。

 こんな事をする人は、と見回すと、やはり部屋の奥で古田さんが胴元をしていた。そしてこんな凝った新聞を作る人は、と隣を睨む。佐々木さんは「ただいま第五レース受け付けてるよ。矢島部長のスピーチ時間」と言ってニヤリと笑った。

「俺は大当たりしてんねん」

 澤田さんはやっと笑いがおさまってこちらを向いた。

「何もこんな日に賭なんてしなくても」

「本日のレースの収益はすべて中嶋夫妻へ贈られます。ちなみに元のお金は会社から中嶋君へのお祝い金を、中嶋君が提供してくれたものです。お祝い増やす気とは奴もギャンブラーだねえ」

 私はがっくりとうなだれた。つくづく、お祭り好きの人達だ。

「それじゃ私も一口乗る」

「本命馬は三分二十秒台だよ。私は対抗馬の三分台を勧めるね」

「俺はそれにするわ」と澤田さん。

「うーんと」と『築地競馬』を睨んでいると、後ろから「二分四十秒台」とやわらかい声がした。

 振り返ると目の前にいきなりダークグリーンの小紋のネクタイの結び目があってびっくりした。入口でとおせんぼをするように腕を広げて両手を突いている。私の手の『築地競馬』を首を傾げて覗き込んで、「八倍か」と諒介は言った。今着いたところらしく、肩には鞄を提げていた。

「旦那、いきなり勝負に出ますね」と佐々木さんはもう手を出している。諒介は財布から五百円玉を出して彼女の手に載せた。

「私もそれにする」

「何でや」

「八倍だから」

 はい、と五百円を渡すと「まいどあり」と言われた。馬券を二枚渡されて、一枚を諒介に渡した。八倍なら四千円だ。私達は顔を見合わせて笑った。

「名物の三人が揃ったね」と矢島部長に言われて、私達は揃って「え?」と部長を振り向いた。大河内さんが「こっち向いて」と言い、また「え?」と声を揃えてそちらを向くとカメラを向けられていた。

「はい、漁夫のー」

「りー」

 パッ、とフラッシュした。漁夫の、と言われて『利』とすぐに答えられたのは諒介と澤田さんだけ。そもそも写真を撮る時は「チーズ」か「一足す一は二」だろう。私は驚いた顔のまま撮られてしまった。相変わらずの謎のノリ。

 受付を済ませて披露宴会場へ入る人達の列に並ぶ。金屏風の前の新郎新婦とご両親。真っ白のウエディングドレスの雪枝さんは───輝くばかりにきれいだ。

「本日はおめでとうございます。…雪枝さん、すっごくきれい」

「ありがとう。泉ちゃんも、きれいになったね」

 目を細めて雪枝さんが言った。えっ、と思わず赤面した。

「最近めっきり女らしくなったですよ、スカートはくし」と佐々木さんが横から言って笑った。照れくさくて「スカートのおかげでそう見えるかも」と言うと、雪枝さんは「ううん」と微笑んだ。

 披露宴が始まる。中嶋さんは緊張しているのか、無表情だ。彼より年上の雪枝さんの方がずっと落ち着いて見える。テーブル席の間を歩く二人をスポットライトが追って、向こうで諒介がビデオカメラを構えて撮影しているのが見えた。

 来賓の祝辞───いよいよ第五レース、矢島部長のスピーチ。不謹慎とは知りつつも、俯きがちに笑いをこらえる五階の人々……。部長は涼しい顔でマイクの前に立つとコホンと小さく咳払いした。それがスタートの合図だったらしい。佐々木さんはテーブルの下に手を隠して、控え室で私に見せてくれたストップウォッチをスタートさせた。何となく周りを見る。新郎側の招待客のテーブルを見ると、時々、会社の人達の視線が下がるのがおかしかった。皆ちらりと腕時計を見ているのだ。矢島部長は中嶋さんの直属の上司だから長く喋るかも、とふと思ったが、部長が「本日はおめでとうございました」と頭を下げた瞬間、佐々木さんの左腕がぴくっとした。彼女と額を近づけて時間を見ると、二分四十二秒。「やった」と小声で言うと佐々木さんは「長くはないと思ったけどここまでとは」と苦笑した。離れたテーブルの諒介を見ると私を見てニコッと笑った。その隣の澤田さんは左手で首の後ろをさすって「ヤラレタ」という顔だ。その後のスピーチはやたらと長く感じた。

 お色直しで新郎新婦が退場すると、披露宴の前に別室の教会で行われた結婚式のビデオが大きなスクリーンに映し出された。飲んだり食べたり喋ったり、皆すっかりリラックスしている。

 向こうでは澤田さんと古田さんが何か話し込んでおり、諒介は黙々と料理を食べていた。私の居るテーブルの隣には、この春に人事部に異動になった森さんの居るテーブル。森さんと目が合って笑みを交わした。彼女と一緒の人達を私は知らないが、やはり会社の人なのだろう。

 お色直しを済ませて戻った二人は、中嶋さんはシルバーグレーのタキシードで、雪枝さんはピンクのドレスだった。また佐々木さんと額を近づけて囁く。

「可愛いね」

「うん」

「似合ってるね」

「泉ちゃんもあんなの着る?」

 全然、と首を振ると彼女は肩を竦めて笑った。





 披露宴が終わった後も、私はラウンジに残ってソファに座っていた。他にも残っている人はたくさん居た。久しぶりに顔を合わせた人達が積もる話などしているのだろう。私と森さんは花束贈呈の時の雪枝さんからお母さんへの手紙で、澤田さん曰く「滝のように」泣いてしまい、すぐに帰れるような状況ではなかったのだ。トイレから戻った澤田さんは「まだ泣いとったんか」と呆れたように笑い、私の隣に座るとティッシュを差し出した。私はそれを受け取って、びーっと鼻をかんだ。

「泣きますよ、やっぱり。『誠二さんとずっと一緒に』なんて言われたら。思い出しちゃいますよね」

と森さんも澤田さんのティッシュで鼻をかんで言った。

 私も思い出して泣いた。

 雪枝さんと中嶋さんが婚約した時、会社の五階の給湯室には社員の皆からのお祝いのメッセージの紙が壁一杯に貼られた。その時に私が書いたのが『ずうっと一緒』の一言だったのだ。しかし私の紙は誰かに捨てられてしまい、屑カゴにそれを見つけた時にとても悲しかった事も思い出した。

 けれどこうして……こんなふうに、雪枝さんが同じ言葉を使ってくれたのが嬉しかった。

 だから、もういい。

 諒介は私の正面に座って、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出して吸い始めた。伏し目がちで何も言わない。私は彼の前でこの話はあまりしたくなかった。私の貼り紙が捨てられた事は彼も知っている。その理由ははっきりしないのだが、会社の皆が諒介に関係のある事と言うので、本人の耳には入れたくなかった。

 澤田さんはいつもの気配りか「ええ手紙やったな」と話を披露宴に戻した。森さんの横に、先刻彼女と一緒のテーブルだった人達が飾られていた花をたくさん貰ってやって来た。「貰っていいの?」と彼女が向こうを向くと、澤田さんは私の顔を覗き込んで声を落とした。

「由加は花束贈呈やらん方がええな。泣いて見られん顔になるわ」

「別に、式も披露宴もしたくないもの」

「俺もや。意見の一致を見たなァ。後は合意するだけや」

「………」

 俯くと澤田さんはフフンと笑って目線を外した。その先に居る諒介は森さんの連れと話をしていて、今の会話は聞いていなかったようだった。

「誰、それ!」

 いきなり森さんが大声を出したので私達はびっくりして彼女を見た。「私も直接は知らないんだけど」と答えたのは森さんの横の、こちらを向いている紺のワンピースの女の子だった。

「給湯室の神様の御利益だって」

「御利益?」

 そう訊ねたのは諒介だった。「神様って何」と煙草を口にくわえたまま言う。

「そういえば和泉君は知らないんだよね」と、彼と話していた女性が頷いた。中嶋さんが五階の給湯室でプロポーズしたのがきっかけで、そこが縁結びの神様のように扱われた事や、お祝いの言葉と一緒に願掛けの貼り紙がたくさんあった事を説明した。

「それで御利益て、縁結ばった奴らでもおったんか」と澤田さん。彼を振り向くと笑顔が作り物なのが判った。給湯室の貼り紙の話を避けたいのは彼も同じなのだろう。横目で見ると、諒介は真顔だ。

「一ヶ月くらいして、和泉さん達が大阪から来たじゃないですか。あの時に『本当に効き目があった』って言った人が居たらしいんですよ」

「どこの誰や」

 後ろから聞こえた声が低かったので私は身を固くした。

「だから私は知らないんですよ。人づてに聞いて」

「僕らが来たって?」

 今度は諒介が静かに訊いた。私はひやりとした。

「和泉さん帰って来て、って願掛けた人が居たんですよ」

「えっ」

 諒介は目を丸くして、ゆっくりと私達を振り向いた。澤田さんと顔を見合わせ、諒介を横目で見ると、彼はむうっとして、隠してたな、と言いたげな顔になっていた。澤田さんは言いにくそうにゆっくりと訊いた。

「…そんで、その人は…女の人なんか」

 がくん、と諒介が頭を下げた。「男の人だったら怖いよ」と諒介の隣の人が大笑いした。「何言い出すのよ澤田君」

「フフフ、和泉と縁結びたいような感覚が判らないよねえ」

 いつから聞いていたのか、澤田さんの後ろに古田さんが立っていた。

「和泉、澤田。ちょっといいかな。泉ちゃんもおいで」と手で二人に立ち上がるように指示した。私達は森さん達から離れた所まで移動した。古田さんがソファに沈むように深々と座り、私達は膝の高さの丸テーブルを囲んで座った。

「そろそろ潮時でしょ。白状して楽になりましょうよ澤田。どうせこれ見れば判っちゃうよ」

 そう言って、古田さんは引き出物の袋から何か取り出した。映画のパンフレットような冊子。表紙に『おもひで』と印刷されていて、諒介と澤田さんががくりと脱力した。

「中嶋も面白い事を考えるねえ。あの時の貼り紙を本にしちゃうんだから。フフ」

 表紙を開くと、いつのまに写真を撮ったのか、ピンクにデコレーションされた給湯室や、『ご神体』の湯沸かし器とその周りの『お供え物』の写真が載っていた。諒介は左目を細めて苦笑し、「ああこれか、全社員一丸となったお祝いというのは」と言った。

「さて和泉が気に懸けていた捨てられた泉ちゃんの貼り紙は」とページをめくった。「これだよ」


 ずうっと一緒。 入力 泉


 ノートから破り取った紙一枚、下の方には印刷されたピングーに佐々木さんがいたずら描きした花嫁と花婿だ。眼鏡をかけた中嶋さんと、ベールを被ってブーケを持ったガールフレンドは雪枝さん。

「…これが?」

「さっきの東山さんの話と総合して考えてごらん、勇者」

 紺のワンピースの女の子は東山さんと言うらしかった。知ってるの?と訊くと「人事の子だよ。和泉の隣は岩井さん」と古田さんは答えた。

 勇者、の一言ですぐに判ったらしい諒介は本から顔を上げて私を見た。呆然とした顔だった。

「…その、つまり、」

「佐々木さんの落書きを誤解されたみたいなの」

 正確に言えば、誤解したのは私だ。佐々木さんは諒介のつもりでピングーの顔に眼鏡を描いたのだが、私が中嶋さんと勘違いしてお祝いの紙に使ってしまったのだ。ところがそれを見た誰か───和泉さん帰って来て、と書いた人───が、私が「諒介とずっと一緒に居たい」という願を掛けたと勘違いしてやきもち妬いて捨ててしまった、というのが五階の皆の一致した意見なのである。

「中嶋だよね、これ」

「そう。中嶋さん」

 の、つもりだったんだけど本当は違った。とは言わないでおく。古田さんはニヤニヤと笑った。澤田さんは腕組みしてそっぽを向いている。本を受け取った諒介は、ぱらぱらとページを繰ると『和泉諒介さん帰って来てください。』の紙も見つけた。口をへの字に曲げてそれを眺め、「…まいったな…」と呟いた。

「こんなくだらない事、いちいち言いたくないでしょ。泉ちゃんの気持ちも汲んでやってよ」と古田さんは煙草に火を点けた。私は恥ずかしくて居たたまれなくなり、「トイレ」と立ち上がった。泣いて化粧もすっかり落ちてしまった。

 『化粧室』の表示を探して広い廊下をうろうろした。戻る時に迷いそうだ、と思いながら奥へと進み、トイレを見つけた。

 個室に入って溜息を吐く。トイレってどうしてこんなに落ち着くのだろう。私は貼り紙の話をしている古田さん達の所に早く戻らなければ、居ない間に怪我の話になったらどうしよう、という気持ちと、戻りたくない、という気持ちとに挟まれて、のろのろと動いた。

 ドアの外に足音と、「いずみさんって」と森さんの声。「近くで見るの初めてだったんですけど」と続いたので、諒介の事だと判った。

「物静かな人ですねえ」

「口を開くと面白いんだよ」と答えた声は、確か岩井さんという人だ。

「和泉君が大阪から築地に来た時、人事ではもういずれ今の会社に行くのが判っていて、密かな注目株だったんだよ。そこへ社員旅行があって、結構面白くて優しい人だって、二階では人気が出たんだな。将来有望だしね」

 それは知らなかった。森さんも同様の感想をもらした。五階では面白すぎて『のび太』扱いだったけど。皆に好かれていたのは同じだなと感心した。

「大阪本社からはよからぬ噂も流れて来たけど」

 よからぬ噂?

「どうせ本社の誰かがやっかんで流して来たんだろうけどね。…何か事件を起こしてこっちに飛ばされたんだとかね」

「事件?」と森さん。

「ただの噂よ?刺したの刺されたの」

 ───え?

 頭の後ろがどくんと鳴ったような気がした。

 話の合間に化粧ポーチを探る音がして、口紅を引いているのか岩井さんは黙った。

「そんなの事実だったらすぐに判るし、それこそクビになってるって。第一、あの和泉君がそんな事するわけないでしょう」

「…そうですよねえ…」

 森さんの声が低い。

 ……これじゃ盗み聞きだ。私は急いで水を流して自分が居るという事を二人に知らせた。ドアの鍵を開ける手が震える。「あ、」という岩井さんの声と一緒に、バッグを閉める止め金のパチンという音やゴソゴソという音がして、カツカツと足音二人分が化粧室を出て行った。個室を出ると、もう誰も居なかった。

 頭の芯がじーんと痺れて、気分が悪くなってきた。鏡の前でバッグを開けて化粧を直す。口紅のキャップを開けて、鏡の中の自分の目に涙が溜まっているのを見て、今直したばかりなのに、とハンカチで目頭を押さえた。

 私は、諒介の左手を思い出していた。


 『隠したい事だってあるのよ』


 彼の左手首の傷跡の事を訊ねた時……彼は、私が貼り紙の事を隠してそう言ったのを真似して……笑っていた。

 まさか……いや、岩井さんの言う通りだ。それが事実なら、本社に戻ったり今の会社に移れる筈もない。

 ……そうだ、諒介がそんな事をする筈がない。

 ようやく落ち着いて化粧室を出ると、前の廊下に澤田さんが壁に寄り掛かって立っていたので、私は「わあっ」と叫んでしまった。彼は「長かったな」と呆れ顔だ。

「…居づらかったんやろ。俺もや」

 澤田さんは顔をしかめた。

「でもまあ、ああ話を締め括っといたら、その先の話にはならんやろ。先手必勝。古田らしいわ」

 その先の話、とは私が右手を怪我した時の話だ。怪我をしたのも五階の給湯室であり、いつもは居ない他のフロアの女の人達で給湯室が狭くなっていた時に怪我をしたのだ。

「…あ、澤田さん。ひょっとして御利益があった人は女の人かって訊いたのは、怪我の時に居合わせた人じゃないかって思ったから?」

「うーん。まあな。…ほんまはあんなアホな質問するつもりやなくて…でも東山さんは知らへんて言うてるし、和泉の前で細かい事よう訊けんわ」

 そう言って彼は体を折って、廊下のもと来た方を見た。「澤田さん」と呼ぶと「あ?」と振り返った。目の高さが私と同じだ。いつも見上げている切れ長の目がすぐ近くにあって驚いた。

「…諒介と喧嘩してる?」

「何でや」

「今日、全然口利いてないでしょ」

 澤田さんは苦笑して「しとらんで」と答えた。

 今年に入ってから二人は何だか妙なのだ。二人が顔を合わせた時は必ず喧嘩になっている。と言っても、私の知る限りの事なので喧嘩をしていない時もあったかもしれないが、今日も諒介が控え室に現れてから今まで二人は直接口を利いていない。やはり何かあったのだと思う。私は顎を引いて、上目で睨み付けてみた。

「ほんまやって」彼はフッと笑って困った顔をし、「ちょっと気まずいだけやねん」

「気まずいって?」

「確かに俺も悪いが、和泉の態度も好かんわ。お互い様や。だから奴もあんなやねん。由加は気にする事ないで」

「やっぱり喧嘩したんじゃない。何があったのよ」

 ふむ、と澤田さんは一人で納得するように軽く何度も頷いて、突然顔を近づけた。

 一瞬のキスだった。

「こんな事や」

 お先、と廊下を戻って行くのを呆然と見た。何があったのか理解するのに時間がかかった。縺れた思考回路というのはこういうのを言うのだろうかと後に思った。向こうからやって来た諒介がちらりと澤田さんを見た。多分、澤田さんも諒介をちらりと見ただろう。

 ───二人は何も言わずに擦れ違った。

 近づいた諒介が「由加、どうしたの」と私に声をかけた。

 カチッ、と頭の中で音を立てて、やっと今の状況を理解した感じだった。

「…諒介、澤田さんとキスしたの?」

「はあ?」

 諒介の目が点になって、今し方擦れ違った澤田さんを振り向く。私もつられてそちらを見ると、廊下の先で澤田さんが床に果てていた。





 式場を出るとすっかり日も落ちていた。諒介が腕時計を見る。

 ───その下に、傷跡がある……

「これから大阪まで戻るんか」

「いや、休みを取ってる。…こっちに用もあって」諒介はふっと苦笑した。「心配しなくても、澤田の所に転がり込まないよ」

「別に俺はかまへんで」

「澤田が寂しいなら行くけど」

「アホ」

「はは、人と会う約束があるんだ。二、三日居るから…、」

と、諒介は首を傾げて微笑み、皆をぐるりと見回した。

「飲みに行くなら誘ってください」

「はーい。明日か明後日?連絡するから澤田君が」

 市川チーフが言うのへ、諒介は頷いて「それじゃ」と軽く片手を挙げるときびすを返して横断歩道を早足で渡っていった。


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