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第3章

 澤田さんの誘いで、一緒に昼食を採った。食欲がない、と言うと強引に外に連れ出された。「ひやむぎでも食っとけ」と言われてそば屋に入ったら、夏のメニューはもう終わっていて、澤田さんは「そーか。そーいやそーやな」と脱力していた。

「…由加んちの近く、何や変質者が出るて?」

 カツ丼が運ばれて、澤田さんは割り箸をぱちんと割りながら言った。私もざるそばのつゆをそば猪口に注いで「何で知ってるの」と聞き返した。

「新聞に載ってた。昨夜もあったらしいな」

「………」

 ぞくっと寒気がした。手からぽろりと箸が落ちて、「どうした?」と訊かれた。私は昨夜のエレベーターでの出来事を話した。

「危ないやろ!」と澤田さんが叫んで、店内の客が一斉に彼に注目した。彼はそちらへ向かって「すんません」と苦笑いで頭を下げ、私を振り返ると真顔になった。

「気ィつけや。まだ捕まってへん言うやんか」

「…だって向こうはエレベーターの中で待機してるんだもの」

「階段使えや」彼はがくんと頭を下げた。

「…階段も怖いよ。内階段で薄暗くて…。エレベーターの方が確実に一人になれるし、早く部屋に着けるし」

「古いからな、あのマンション」

 澤田さんはそう言って、カツをぱくんと口に入れ、もぐもぐ噛んでいる間に何か考えていた。一人頷いてごくんと飲み込むと「由加、携帯持てや」といきなり言った。

「携帯?」

「すぐに通報できるやろ。怪しい奴おったら近づかんとすぐ警察呼べ」

「そうだね…」

 私は山口さんが退社前に携帯電話でお父さんに電話して「何時頃駅に着くから迎えに来て」と言っているのを思い出した。そう言うと、澤田さんは「そうせえ」と頷いた。

 そこで、食べ終わってすぐ、二人で近くの携帯ショップに寄ってPHSの電話機を買い、契約をした。

「お金ないのに…」

「ハハハ、しゃあないやろ。そんな悲観的にならへんでも、今時みんな持ってるし、楽しく使う事を考えたらええやんか。メールもできるし、里美さんとの待ち合わせにも便利やろ」

 会社へ向かって歩きながら、澤田さんは私のPHSに自分の部屋と携帯の電話番号を登録して「ほら」と見せた。『澤田智彦』と表示されているのを見て、ふっと笑みがこぼれた。

 本当に、この人にはかなわないのだ。

 その夜はマンション付近に不審者も見かけなかった。部屋に戻ってPHSを手に、説明書を読む。いろんな機能があるようだが、全部使うとは思えない。途中まで読んで、私は説明書を放り出した。

 諒介には番号を教えておいた方がいいだろう。

 部屋の電話の受話器を取って壁に寄り掛かって座り込み、諒介の部屋に電話をかけた。

「はい、和泉です」

「…泉です」

 由加です、とは言えなかった。少しの間が空いて、向こうから「こんばんは」といつも通りの声がしてほっとした。

「PHS持つ事にしたから、番号教えておこうと思って」

「ああ。ちょっと待って。…いいよ」

 契約書を見ながら番号を言うと、「ん、登録しました」と返事。

 また、間が空いた。

 昨日の今日で恥ずかしい。用件は済んだのだからこれで切ってしまおうか、それとも昨夜の事を尋ねようか迷っていると、諒介がフッと笑ったのが判った。

「写真見たよ」

「写真?何の?」

「古田がメールで送ってきた」

 会社で撮った写真の事だろう。彼は「みんな元気そうで何より」と言った。

「諒介は…元気?」

「うん」

 私は、この前会った時に彼が見せた顔を思い出した。頼りなく力の抜けた、悲しげな表情。今にも泣きそうに潤んだ瞳。

「───大丈夫?」

 ふいに訊かれてどきっとした。


 『大丈夫。大丈夫…』


 まざまざと思い出して、かあっと熱くなった顔を抱えた膝に埋めた。

「仕事。順調にいってる?」

「…ああ、その事…」

 私は苦笑して顔を上げた。

「うん。何とか…。このところ予定が混んでいて残業続いてるけど…かえって何も考えなくて済むから…手も…動くみたい」

 おかしくはないけど、ふっと笑う。諒介は「そうか」と答えた。カチッという音。煙草に火を点けたのだろう。

「もうすぐ、中嶋の結婚式だね」

「うん」

 暫しの沈黙。

 彼が何か言おうとしているような気がする。黙って待った。……それとも、私から何か言うべきだろうか。気になっている事はいくつかあった。

「…うん」

 諒介はなぜかそう言って、またフッと笑った。

「それじゃあ、また」

「…うん」

「おやすみ」

 囁くような声の後にほんの少しの間があって、プツッと切れた。

 私は受話器を戻しながら、やっぱり自分から尋ねれば良かったと思った。口下手のび太くんは、結局自分の事をたった一言「うん」としか言っていないと気づいたのだ。

 ───気になっているのは。

 昨夜の出来事が夢ではなく実際にあった事として、私はどこに落ちたのか、という事だった。何度となく諒介の前に落ちている事を考えれば、おそらく彼の部屋と思われるが、もう一つ気になる事がある。

 周囲が真っ暗で何も見えなかった事だ。

 気が付いた時、私の部屋は明かりを全て消していた。けれどもわずかに外の光……月や街の光がカーテン越しにもあって、決して何も見えなくなる程ではなかったのだ。

 そう考えると、あれが彼の部屋であるとも思えなくなってくる。疑問がふりだしに戻ってしまう。そう、あれはどこなのかという疑問を保留にしても。

 ───そんな暗闇で、彼は一体何をしていたのだろう。





 金曜日。今日のために今週は少々無理して残業したとも言える。来週も残業は続くけど。

 五時に上がって銀座へ向かった。古びた佇まいのレストランで大テーブルを囲む。入力室のメンバーと、開発部からは澤田さん、古田さん、中嶋さん。森さんと飯塚さんも来てくれて、ずいぶん賑やかになった。

 私の快気祝いという事で、乾杯の前に挨拶。とても緊張した。

「えー…。おかげさまをもちまして、どうにかこうにか、帰ってまいりました」

 皆笑った。何で笑うんだろう。

「またよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げて、それで終わりにした。これ以上、何を言えばいいのか判らない。拍手を浴びて、私は赤面して俯いた。幹事の杉田さんが乾杯の音頭をとって、料理が運ばれて来ると、皆それぞれ席の近い人とお喋りを始めた。私の右には森さん。左には澤田さん、その向こうに古田さん。杉田さんは私の対面の席で、いちばん遠い。後でお礼を言わなくちゃ…と気になった。

 実のところ、こうして端から皆が楽しそうにしているのを見ているのが好きで、話を聞くのが好きで、いわゆる『お誕生日席』の上座に置かれるのは苦手だ。先刻の挨拶も澤田さんに「日本語がさりげなく壊れとったで」と笑われた。

 三時間程その店に居て、おひらきの後に、澤田さんと佐々木さんと私の三人でもう一軒寄ろうという事になった。昭和モダンを彷彿させる、小さくて感じのいいバー。十人もいれば満席だ。

「澤田さん、一人でよく飲みに来るの?」

と佐々木さんがカウンターに組んだ腕を載せて、澤田さんを見る丸い目をくるんとさせた。

「いや?俺は久しぶりに来た。和泉がおった頃、たまに二人で来てん」

「ああ、そんな感じ。和泉さんの趣味でしょ、ここ」

「俺は日本酒の方が好きやねん。和泉に連れて来られなんだら知らんままやな」

 間に挟まれて、二人の話を聞く。諒介が好きだったのか、と店内を見回した。

 諒介の撮影したビデオにあった、古い建物や、懐かしいような景色を思い出した。ほっと安らぐ空気を好んで彼は撮る。うん、判る、と黙って頷いた。

「和泉さん最近どうしてる?」

「この前の写真を古田がメールで送って、返事来てたで。『皆さん息災で何より』て、一言やって」

「ほー、一応生きてはいらっしゃるようですな」

「一応な」

 二人は頷き合った。

「泉ちゃんのスカート姿を見ても何とも思わないのかね、和泉さんは」

 思わずカクテルをこぼしそうになった。

「わからへんで?むっつりすけべやからあいつは」

 二人はあははと笑った。佐々木さんが私の背中をトンと叩いて、

「嘘だよ。照れてんだよ和泉さん。気にすんな」

「……私は別に何も」

 私はスカートの膝を撫でてひっぱった。脚を隠したい気分だ。耳まで熱いが、お酒のせいという事にしておこう。

 皆が「似合う」と誉めてくれるのは嬉しいけど、何も言われない方がほっとする。

 そう考えて、諒介は私のそういう気持ちを判っているのかもしれない、と思った。

 だから、やはり何も訊かなくていいのだと思う。それで彼が安堵するなら。何も話してくれない諒介は遠い人のようだけれど、それでいいと思える近い存在感。

 遠くて近い、不思議な友達。

 最近読んだ推理小説の事などを熱心に話し込んでいた二人がふいに私を振り向いて「酔ったかな」「ほんまに酒弱いな」と言った。そう言われても頭がぼーっとする。「うん」と頷くと「出よか」と澤田さんが腕時計を見た。





 遅くなったからと澤田さんが送ってくれた。マンションの前で「ここでいいよ」と言うと、「アホ。エレベーターが危ないんやろ」と睨まれた。周囲を窺ってからエレベーターに乗る。沈黙。天井の明かりに蛾が一匹、ぱしん、ぱしん、と音を立ててぶつかっている。

 四階に着いて、二人でまた誰もいないか見回した。不審者の姿はなく、澤田さんと顔を見合わせ、安堵の笑みを交わす。

「何やコソコソして、俺らの方が怪しいやんか」

「あはは」

 何となく判る。澤田さんは、照れているのだ。

 私が築地の会社に派遣で赴いてから一年半が経つ。その間、私と入れ替わりに諒介が大阪の会社に移り、私が今の会社の社員になり、怪我をして休み───いろいろあった中で、いつも身近に居たのが澤田さんだ。

 だから彼がどんな時にどう感じているのか、少し判る。横にいると伝わってくる。

 今は互いに緊張が伝染し合って、沈黙した。

 部屋のドアの前で、私は「ありがとう」と軽く頭を下げたまま、俯いた。頷く澤田さんの靴を見ていた。

 ふいに彼が鞄を脇に抱えて背を丸め、目の前をネクタイが揺れた。耳元に顔を寄せて、小声で言う。

「今晩泊まってってええか?」

 背筋が硬直した。顔が真っ赤になったのが自分で判る。体を起こした澤田さんを上目で見ると、彼は苦笑して「冗談や」と言った。

「でもな、……俺もいつまでも『ええ人』でおられへんよ。由加が和泉を待ってるのは判ってるし、俺も由加の気持ちが固まるまで待つつもりやけどな。……もしも和泉がいつまでもはっきりせんとおまえを泣かせてるんやったら」

 そこで言葉を切って彼はきゅっと唇を噛んだ。

「……そん時はかっさらうつもりやから」

 困ったように微笑んで澤田さんはそう言った。「おやすみ」と歩き出す背中を見た。

 ───和泉を待ってるって……そうだけど、でも……

「…待って、澤田さん」

 彼は立ち止まって振り返った。私は首を小さく横に振った。

「諒介は……違うの、そんなんじゃないの」

 涙が出そうだ。

「諒介が私を……泣かせてるんじゃないし、待っているのは……そういう意味じゃなくて」

 ただ、首を振るしかない。

「……大事な友達なの。大事だから諒介を解ってあげたいの。それだけ……」

 ───たった一人、私をわかっている諒介。

 大事、と言った途端に涙がぽろっと出た。───大事だから。

「だから、澤田さんやみんなが言うような…のとは違うの」

 立ち止まって聞いていた澤田さんが早足で戻ってきて、いきなり片手で私を抱き寄せた。

「アホ。そんな事言われたら、帰れなくなるやろ」

「……放して」

 ───『居なくならないから、放して』───

 すっと手が離れた。私は「ごめん」と俯いた。澤田さんの言う通りだ。……こんなふうに引き留めてはいけなかった。

「…ちょっと寄ってええか。話しておきたい事あるから。すぐ帰る」

 部屋に入って明かりを点ける。澤田さんは「ここでええ」とキッチンのテーブルに鞄を置いて、私に「座れや」と横目で椅子を見て促した。椅子は一脚しかない。彼が床に正座したので、私も彼と向かい合って正座した。

 彼は両手を腿の上に載せ、「そういや、ちゃんと言うてへんかったな」と横を向いて少し考えてから、くるっとこちらを向いた。

「俺はおまえが好きだ。結婚を前提につきあってほしい」

 棒読みだった。

 言われるような気はしていたけど、……判っていたけど、こう、正面切って言われると呆然とするしかなかった。暫し、互いにまじまじと顔を見合っていたが、澤田さんは突然右手でぱっと口を覆って横を向いた。そうして「……うわー……めっちゃ恥ずかしい……」と、左手を床に突いて背を丸めた。耳まで真っ赤だ。彼はふてくされた顔で私を睨んだ。

「大体おまえが鈍いから、こんな直接的に言わなアカンねん」

「間接的に言われる方が恥ずかしいよ」

「俺かてバラ持ってクサイ台詞、よう言わんわ。せやけど手順とか段階とかあるやんか」

「何の手順よ、何の」

「いきなり台ドコでこんなして言うのがプロポーズでええんか、おまえ」

 プロポーズ。

 具体的な単語が飛び出して、私達はそれぞれ床に果てた。

「…いや、前提に、言うたから…無効やな…」

 澤田さんがそう言って、私達は気を取り直して起き上がった。彼は胡座をかいて苦笑しつつ私を見た。

「でも俺はそのつもりやから」

 こうして緊張がほぐれると、澤田さんがいつのまにかとても身近な存在になっている事がよく判る。彼が諒介の親友である事や一緒に仕事をした事から始まって、いつのまにか。

 軽口で結婚の話をしている。

「ん、以上。ほんなら帰るわ」と澤田さんは立ち上がって鞄を手にした。私も立って、玄関で靴を履く彼の顔を、何をどう言っていいのか判らないまま見上げた。

「由加。…俺を友達の一人やなくて、一人の男として見てくれへんか」

 澤田さんを……一人の男性として。

 私が黙って頷くと、「おやすみ」と照れ笑いして出ていった。

 澤田さんの大きな靴がなくなると、玄関がやけに広く見えた。


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