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第2章

 それから一週間、離れていた仕事に慣れるまで、気持ちにゆとりがなかった。毎朝、前日のストローク表を見る。どうしても怪我をする前の成績と比較してしまう。休んでいる間にも家のワープロのキーを打って手を動かしていたが、それと仕事とはやはり別だ。焦るなと思えば思う程、右手が震える事も屡々あった。週末にのんびり眠って過ごして、ようやく落ち着いて現状を振り返られるようになった気がする。

 復帰して二週目も半分過ぎた。もう少し、手が動いてもいいように思う。

 午後の休憩時間に休憩室で緑茶を飲みながら雑誌をめくっていると、先日試着したスカートに似た物が載っていた。羽根のようにふわふわした毛足の長いノースリーブニットとコーディネートされている。こういうのも可愛いな、などと思っていると、山口さんが「昨日のニュース見ました?女子大生が刺されたの、あれうちの近くなんですよ」と言うのが聞こえて私は顔を上げた。

「あ、あれそうなの?」

「もう、すぐ近くですよ。現場、うちのベランダから見えますもん」

「やだ、怖い。山ちゃんも気をつけなよ」

「最近物騒だよね。そんな事件ばっかり」

 市川チーフはそう言って真顔になり、腕組みをした。

 私は、マンションの一階の掲示板の貼り紙を思い出していた。

 『不審者に注意』

 それによると、最近、エレベーターを備えた近隣のマンションで事件が多発しているらしい。エレベーター内で、他に誰もいないところを狙って暴力をふるい、お金を奪っていく学生、わいせつ行為を働く変質者。警官が巡回している事が大きな字で目につくように書いてあり、「不審者を見かけたらすぐに警察に通報してください」とあった。

「なるべく遅くならないようにするけど、みんなも気をつけて」

 チーフが言った。今週は残業が続いていて、それが気になったのだろう。給料日だった事もあって、一時間程の残業で済んだ。

 池袋で有楽町線を降りて改札を出る。デパートの前を通りかかって、ちょっと寄って行こうかな、と足を向けた。お総菜でも買って帰ろう。金曜の飲み会…私の快気祝いは銀座でやると言っていたから、ブラウスくらい新調しようかな、とエスカレーターに乗った。

 この前スカートを試着した店の前を通ると、ディスプレイのボディにあのスカートが着せられていた。思わず足を止めて見る。革コートのインにはラメの混じった黒いセーター。傍らに『レザーコレクション』と書かれたボードが置かれている。どうりで、革の服ばかり目に着くと思った。

 店員は私を覚えていて、ディスプレイの主役のコートではなくスカートの方を私に勧めた。もっとも私は背が低いので、重たげな革コートは似合わない。

 今日はトップを見に来ました、と言うと、店員は新しく入荷したというブラウスやニットを広げて見せてくれた。二度目のせいか、口調も親しくなっていた。

 そうして、私は紙バッグを提げて帰宅した。暗い玄関で手探りをして明かりを点け、奥の間のベッドに腰掛けて袋の口を下に向けて、ばさばさと中身を出した。

 先週、里美が私に似合うと言ったオフホワイトの半袖セーター。

 そして、ディスプレイされていたスカート。

 私はベッドに横に倒れ「ああもうお金ないー」と独りごちた。すっかり店員さんの口車に乗せられちゃった、と暫し反省した。床に転がるスカートをベッドからぼんやり見下ろした。

 私はスカートを一枚も持っていない。

 二年前に、みんな処分してしまった。あの時の気持ちを忘れた訳ではないけれど。

 遠くなったな、と思う。涙が出そうに目がじんとするのは、あの時の悲しさではなくて、もう悲しくない自分が悲しいせいだ。

 里美も新しい人生を始めるための準備をしている。きっと、忘れてはいないだろうに。

 今、誰が、あの人を思っているだろう。

 忘れそうな程、遠くへ行ってしまった人。

 私は冷たいのかもしれない。

 そう考えて、瞼を閉じると目の端から耳の方へ、涙がつうっと流れた。





 翌朝、出社して開発部の前を通ると、いつものように古田さんが一人、デスクのマシンに向かっていた。おはようございますと声を掛けて通り過ぎようとすると呼び止められた。「泉ちゃん、それ昨日買ったの?」とスカートを見る。頷くと、

「タグついてるよ」

「えっ!」

 腰を見ると本当についていた。値段も載っている。これで電車に乗って来たのか、と私は顔から火が出そうになった。

「どうしていつもこうなんだろ…」

と俯くと、古田さんは「はい」と鋏を差し出した。私はそれを受け取って、タグの糸を切った。

「フフ、似合ってるよ、タグがなければ。真紀子さんもそういうの欲しいって言ってたなあ。どこで買ったの」

 店の名を言うと、古田さんは「それなら大宮にもあるね」と頷きながらカチカチとマウスをクリックした。私はロッカー越しにモニタを覗き込んだ。

「あ、勇くんだ。大きくなったね」

 モニタいっぱいに、古田さんの子供のまなかちゃんと勇くんの写真が映し出された。マシンにデジカメが繋がっている。「昨日まなかの誕生日だったから写真撮ったの。デスクトップにしようと思って」と古田さんは目尻を下げた。

「古田さんって、いいパパだね」

「でしょう?」

 クリックするだけで、写真が次々と現れた。ろうそくに火を点したケーキを前に、大きな目をくりくりさせたまなかちゃん。「真紀子さん似でしょう」と言うと、「僕に似なくて本当に良かった」とパパはにっこりした。勇くんはまだ一歳で、写真を見せてもらうたびにどんどん大きくなっていて驚かされる。

 古田さんはデジカメを手にして何か操作し、「もう全部取り込んだから消しちゃおう」と言った。

「消すって?」

「データ削除。こうするとまた撮れるの」

「消しちゃっていいの?せっかく撮ったのに」

「うちのパソコンにも残してあるから大丈夫だよ。撮ってあげるよ。浜崎さんとかもう来てるから、呼んでおいで。今だと入力室じゃ逆光になるから」

 うん、と私は入力室へと駆けて行き、掃除を終えるところだった杉田さんと山口さん、奥で休んでいた浜崎さんに声を掛けた。

 デジカメが欲しいという山口さんは古田さんにいろいろと質問していた。みんなで一枚。そこへ出社してきた佐々木さんも加わって一枚。中嶋さんもやって来て、古田さんと私を撮った。

 撮ったばかりの写真を液晶画面で見る。山口さんは「わあ、すごい」としきりに感心し、既にデジカメを持っている中嶋さんや佐々木さんにも質問した。浜崎さんが「泉さん、そのスカート可愛い」と私に言って腕をからめたところを、古田さんが撮ってくれた。

「澤田も来たね」

と、古田さんが廊下の方を見遣った。

 澤田さんは鞄を小脇に抱えて現れ、こちらの集団を見て足を止めた。真顔で目を見張っていたかと思うと、彼は突然ぱっと片手で口と鼻を覆い、くるりと回れ右してすたすたと廊下を戻っていった。

「何、あれ」

「悪いもんでも食ったんじゃないの」

 古田さんはニコッとして言った。

 トイレにでも行って来たのか、しばらくして戻った澤田さんは「何やっとんねん」と皆を見回した。古田さんが「撮影会」と言って澤田さんの顔をアップで液晶画面に収めてボタンを押した。

 市川チーフや開発部の人達も次々と出社してきて、たくさん撮った。最後には全員で集合写真。まもなく始業の時間となって、皆ぞろぞろと入力室へ戻っていった。私も行こうとすると、ロッカー越しに澤田さんが「由加」と呼んだ。

「なあに?」

「………」

 澤田さんは軽く俯いて、きゅっと唇を噛んで何やら考え込んでいたが、ふっと目を細めて私を見て言った。

「よう似合うわ、それ」

 その横でそれを聞いた古田さんが小さくぷっと吹いて俯いた。何も言っていないのに、澤田さんは「やかまし」と古田さんを振り返った。私は「どうも…」と下を向いて、急いで入力室へ戻った。恥ずかしかった。去年の今頃、風の強い日に、澤田さんに「どうしてスカートはかないのか」と言われて彼を殴った事を思い出した。





 四時頃に急ぎの仕事が入った。予定はそこで狂い、残業で消化しなければならない分と合わせて、すっかり遅くなってしまった。途中、コンビニでお弁当を買い、私がマンションに戻った時には十時半をまわっていた。

 お腹空いた…とぼんやり思いながらエレベーターのボタンを押す。

 一階で停まっていたエレベーターは、すぐにドアを開いた。

 どきっとした。

 人が乗っていた。

 黒っぽい服の男性だった。

 まさか人が乗っていると思っていなかった私はどきどきしながら、降りる人が先という当たり前の感覚で、乗らずにその人が降りるのを待った。その人は顔を背けて急いでエレベーターを降り、走ってマンションを出て行った。

 ───停まったエレベーターの中で、何をしていたのだろう……

 私は急いで、乗ったエレベーターのドアを閉めた。一階の貼り紙の『暴行』という文字が頭の中でぐるぐると廻る。心臓がどんどん速く脈打って、くらくらと眩暈がした。四階で降りる。震える手で部屋の鍵を開けた。

 飛び込んだ部屋は、真っ暗だった。

 どうしてこんなに暗いの……

 ドアがバタンと大きな音を立てて閉じ、何も見えなくなった。

 ……誰かがいるような気がして、悪寒が走った。

 明かりのスイッチを探して左手を突いた壁が、ぐにゃりとへこんだ。

「ああっ」

 バサリとコンビニの袋が落ちる音が遠くに聞こえ、私は柔らかい床───床と呼んでいいのか判らない───に転んだ。

 ───落ちる。

「いや……いや、いや」

 流砂の上を這うようだった。前に進んでいるのか判らない。手を伸ばしてどこかに掴まろうとした。

 ───何もない───どこにも───

 私は宙に浮いた。

 突然、誰かの大きな手が私の二の腕を掴んだ。

 悲鳴を上げようとするのに、声が出ない。首を横に振ると気が遠くなった。

「由加」

 ───抑えた、けれど焦りを隠せない声だった。

 私の腕を掴んでいた手がするりと滑り降りて手首を掴んでひっぱり、何かに触らせた。

 床……

 掌に、固い床の感触があった。いつのまにか、私はどこかに座り込んでいた。

 目の前に、手の主がいる……その気配があった。

 空いた右手で闇を探る。

 布……シャツだ。指を這わせると、ボタンらしき物に当たった。

 真っ暗で顔も見えない。私は、闇に溶けた姿のない人にすがりついた。

 体ががくがくと震えているのが自分でも判った。喋ろうとするのに顎が震えて喋れない。

 シャツを通して頬に感じる体温。聞こえてくる心臓の音───

 目の中で、闇が闇を混ぜて渦巻いた。吐き気がして目を閉じる。静かな声で「どうした」と尋ねられて、私はようやく声を出して……「気持ち悪い」と答えた。

「エレベーターに……中に人が……。動いてないのに……ドアが開いたら人がいたの……」

 息が詰まりそうだ。肩で大きく息をすると、左の手首を掴んでいた手が離れて、私はまた落ちるような気がして「いや」と言った。

 するとその手は、私の背中に腕を回して肩をぎゅっと掴んだ。もう片方の手が現れて───だが見えない───私の頭を後ろから押さえた。

 私は強い力で抱きしめられていた。

 耳にかすかな息がかかる。掠れて消えそうな声だ。

「大丈夫だ」

 それはもう何度も聞いた響きだった。

「大丈夫。大丈夫…」

 耳元で唇が動くのが判るくらいの距離で、声は繰り返した。「大丈夫」と何度も何度も繰り返すたびに、声は私の耳から広がって、全身に染み渡るようだった。閉じた瞼から涙が滲んだ。

 そうして、眠りに落ちるように意識が遠のいた。





 気が付くと私は玄関に倒れていた。奥の間のカーテンに月明かりが滲んで、部屋は薄青く見える。のろのろと起き上がって明かりを点けると眩しくて目がくらんだ。───誰もいない。

 どのくらい気を失っていたんだろう……時計を見ると十一時を過ぎていた。

 脱いだ靴の横にコンビニの袋が落ちていた。逆さまにひっくり返ったお弁当はすっかり冷めていた。もう食欲もない。お弁当を冷蔵庫に入れた。

 落ち───たんだろうか……

 『落ちる』。それは、私が引き起こす不思議な現象の一つだ。私が恐怖や不安に陥ると、周囲の空間がねじ曲がるらしい───物が溶けるように柔らかくなり、私はどこかへ飛ばされ移動してしまうのである。過去に経験したのはそれだけではないが、共通して言えるのは、原因は私の心にありながら、私の意思ではどうにもならない、という事だ。

 それらの奇妙な現象……それを起こすのが私の『特異体質』。

 私の他に唯一それを知るのが諒介だ。

 彼と友人としての現在があるのは、この特異体質のためと言ってもいい。

 彼はその冷静さや判断力によって、幾度となく私を救ってくれている。何よりも、彼がこの気持ちの悪い『私』という存在を認めてくれている事に救われている……

 ぽろぽろと涙が出てきた。

 キッチンの椅子に腰を下ろし、しばらく泣いた。───どうして、こんなふうになってしまったのだろう。

 怖い。

 諒介に電話をしようかと思って、躊躇った。

 先刻の声……大きな手……

 あれは諒介だ。

 少しずつ冷静になるうち、私は恥ずかしくなってテーブルに突っ伏した。思わず胸にしがみついてしまった事や抱きしめられた事を思い出して、一人で「わーっ、わーっ」と叫んだ。

 とてもじゃないけど、……確かめられない。

 どうか夢でありますように。


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