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第1章

 昨夜はあまりよく眠れなかったのに、目覚まし時計が鳴るより先に目覚めた。時刻を確かめて、私はベッドから起き出し、カーテンを開けた。

 青空に薄い雲。窓を開けるとひんやりとした空気が部屋一杯に流れ込んだ。ベランダから見下ろす公園には鳥達が集まり、さえずっていた。朝の光が淡く斜めに差している中を飛び交う影。

 気持ちいい。うん、と言って伸びをした。

 今日から、仕事に復帰する。





 通勤電車の混雑さえ嬉しく感じられた。新大橋通りから、ビルの間にセントルークスタワーが見えると、我知らず頬がゆるむ。早足で会社に向かった。

 我が社は大阪に本社を構えるコンピューター機器メーカーだ。いわゆるパソコン、個人向けの物ではなく、企業や研究機関を対象としており、業務内容に合わせた製品開発をしている会社である。だから一般に名を知られている訳ではないが、大手企業グループに属する中堅の会社だ。

 ここ築地にある東京支社では、そうした自社の製品に対応するシステムやソフトウエアの開発を行っている。そして、私は系列会社の情報処理を担当する部署の一つ、入力室に所属している。正面入口の自動ドアをくぐり抜けて、奥の守衛室の窓からこちらを窺う守衛さんに「おはようございます」と声を掛けながらエレベーターのボタンを押した。

 五階に着くと少し緊張する。廊下を突っ切って角を曲がると、開発部には一人、席に着いた古田さんが眼鏡をクロスで拭いていた。

 開発部。

 営業部が会社の顔だとすると、開発部は我が社の頭脳。

 若手頭脳集団の頭目である古田さんは、ふっくらした顔に細い目が地蔵のような人だ。丸眼鏡をひょいとかけて私を見つけると「おはよう」と言ってニコッと笑った。

「おはようございます」

「今日からか。良かったね」

 うん、と答えて開発部の前を通り過ぎる。その奥に入力室はある。

 入力室にも、まだ誰も来ていなかった。明かりを点けて、『泉由加』と判の押されたタイムカードを手にして出社時間を打刻する。四ヶ月ぶりのガシャンという手応えに心臓がどきんとした。

 デスクの間を通って奥の休憩室へ行き、空っぽだった私のロッカーにバッグを置いた。ソファに腰掛けて、何となく居心地が悪くなる。当番じゃないけど掃除でもしよう……と、休憩室を出て加湿器のタンクを外した。

 給湯室は先刻通った廊下を戻った所にある。タンクをすすいで水を溜めていると、エレベーターのドアが開く音がして、誰かが給湯室の前を通りかかった。何気なく振り向いた。

「あ、泉さん!」

 浜崎さんだった。今年の春に入社した彼女は「お久しぶりです」と深く頭を下げ、私も「あ、どうも」とお辞儀を返した。浜崎さんは早足でやって来ると加湿器のタンクを見て「すみません、私、当番なんですよ」と言った。

「いいよ、私が持って行くから」

「悪いですよそんな」

 水を止めてタンクの栓を閉めた。ちゃんと閉まったかしら、と少し気になった。

 タンクを持ち上げようとした。

 ……重い。

 シンクの上で、ガタンと大きな音を立ててタンクが横になった。

「やっぱり、私が持って行きますね」

 浜崎さんが、肩に掛けたバッグを背中に回してタンクを抱え、先に給湯室を出ていった。

 私は一人、給湯室に残ってぼんやりと立ち尽くした。かすかに震える右手を左手でぎゅっと握った。





 始業と同時にミーティング。市川チーフが一日の予定を皆に伝えた後、「今日から泉さんが復帰です」と私を振り向いた。私が「またよろしくお願いします」とお辞儀すると、拍手が起こってびっくりした。

「泉ちゃん、おかえりー」

「良かったね」

 私は頭を下げたまま、上げられなくなってしまった。

 仕事を続けたい。この会社に戻りたい。ずっとそう思っていた。

 ───帰って来たんだ。

 おかえり、の言葉が嬉しくて、涙が出そうになった。

 チーフが「はいはい、積もる話は後でね。それじゃよろしくお願いしまーす」と手を打って、皆を促した。佐々木さんが私の背中に手を添えて、私はようやく席に着いた。

 キーを叩くカタタタという音しかしない部屋。

 うるさいようでいて、静かだ。

 原稿を睨んでキーを叩く。モニタは見ない。私の叩くキーのカタカタという音が、皆のそれについてゆけない。

 ───右手が震えだした。

 ここしばらくなかったのに……と思いながら、右手をデスクの下で軽く振った。

 緊張しているんだ。

 大丈夫、焦っちゃだめ。

 自分に言い聞かせて手をキーボードの上に戻した。

 半年前に怪我をした。

 右の掌に、割れた湯呑み茶碗の破片が突き刺さり、細かな破片で指を切って───

 ぎゅっと目をつぶった。

 神経が切れてしまったために右手が思うように動かなくなり、仕事を休む事になった。リハビリを経て、ようやく復帰できたのだ。

「手の震えは精神的なものから来てるから」

 医師の言う通りだと思う。落ち着けばちゃんと動く筈……

 一つ一つ丁寧にキーを叩こう。深呼吸。目を開けて。

 目を開けると、横にチーフが立っていた。

「先に人事部に挨拶に行っておいで。今日からよろしくって」

「…あ。はい」

 マシンをサスペンドして席を立ち、入力室を後にした。

 二階へ降りて人事部長に挨拶を済ませると、戻りしなに森さんが私に声をかけた。

「泉さん、おかえりなさい」

 両手できゅっと私の手を握る。森さんはこの春まで入力室に所属していたのだ。私はまた照れくさくなって「うん」と頷くしか出来なかった。

「快気祝いやるって聞いたけど、いつですか?私も行っていいですか?」

「え、聞いてない」思わず赤面する。

「前に飯塚さんからちらっと聞きましたよ。…飯塚さんもいられれば良かったのに」

 飯塚さんは入力室の人で、来月に控えた結婚式のために、既に退職している。

「うん。私も会いたかったな」

「あ、そしたら飯塚さんにも声かけてもらいましょうよ。私も行きたいし」

「判った。じゃあ、その話が本当だったらね」

と答えると、森さんは「本当ですって」と笑った。

 その後は少し気が楽になったのか、手は震えなかった。バッチを終了してモニタを見ると、入力していた時間とその間にキーを叩いた回数、それによって割り出される入力の速度が表示される。まだまだ遅い。

 『新人?』

 怪我をした後、私の仕事を見て他社の人にそう言われた事を思い出した。

 ───そう。新人なんだ。初心に帰って仕事をするんだ。そう決めたんだから。

 そう考えると集中できた。バッチを一つこなすごとにストローク数が上がっていく。

 ───ほら、慣れてきた。だから大丈夫。

 今、やりたい事。出来る事。それを一つずつ。


 『今は先が見えなくってもさあ、そこから開けていくから、絶対』


 里美が言った言葉だ。

 こうして一つずつ確かなものにしていけば、未来が開ける。





 昼休み、一人で食事を採ろうと思って入力室を出た。開発部の前を通りかかると澤田さんが「由加」と呼び止めた。通路で立ち止まると彼は席を立って歩み寄り、私の胸の高さまでのロッカーに両腕を載せて凭れた。

「メシか」

「うん」

「今夜、復帰祝いに飲みに行かへんか」

 澤田さんはニコッとした。真顔だと切れ長の目が厳しい印象の顔立ちだが、関西弁と笑顔の八重歯がアンバランス。背を丸めてリラックスした姿勢は、180センチ以上もある背を屈めて私と目線を合わせているのだ。気配りと思いやりの人。

 ロッカー脇の席に座る古田さんが口を挟んだ。

「澤田のおごりだよ」

「うん。おごったるわ」

「ありがとうねえフフ」

「古田は復帰したのと違うやろ。ついて来るんやったら自腹切れ」

「それがもう小遣いないのよ。デジカメ買ってからピーピーで」

「なら来んでええ」

 久々に聞く二人の会話がおかしかった。

「ごめん。今日は里美と約束してるの」

 復帰して最初のお祝いは、親友と。

 澤田さんは微笑んで「そーか」と頷いた。

「あ、今度、入力室のみんなが快気祝いしてくれるって…何か照れちゃうな。良かったら澤田さんも古田さんも一緒に…ね。そうそう、飯塚さんにも声かけてもらうから、中嶋さんも」

 私は窓際の席で欠伸をしていた中嶋さんを目でちらっと示した。中嶋さんは飯塚さんの婚約者だ。

「いいの?僕ら押しかけて」と言う古田さんに「わかんない」と答えると、澤田さんは天井を仰いでアハハと笑った。

「いつ」

「来週の金曜とか言ってた」

「ああ、給料出た後ね。それなら僕も行きたいな。市川さんに聞いておくよ」

「うん」

 それじゃ、と手を振って別れた。

 昼食をコーヒースタンドで簡単に済ませ、外に出る。一人で会社を出て来たのには、理由があった。

 築地川公園の舗道をのんびり歩いて、本願寺の裏手を通って、晴海通りに出る。

 勝鬨橋が見えた。

 私は後ろ手に組んで、橋に向かって歩いていった。

 お久しぶりです。

 橋の上から川縁の遊歩道を見下ろし、ゆっくりと橋を渡る。

 行き交う車が足元を揺らした。船が一隻、川を遡ってゆく。遠くの岸に工事中のビルが見えていた。

 かつては稼働していた跳ね橋の中央で足を止めた。鳩が数羽、寄ってきて欄干に留まった。この橋が開いて船が通るところは見た事がないけれど。

 長い時間の中で、橋はゆったりと構えて渡る人々を迎え、その下に流れ続ける川を抱いている。

 人は、流れる時を越えて、どこへ行くのだろう。


 『僕は橋の向こうを見る』


 諒介の目には何が映っているのだろう。

 会社で───築地の街で出逢い、今は大阪にいる諒介は、おそらく私をもっとも理解している人間だ。けれど、私には彼が時々判らない。照れ屋で、自分の事を語るのが苦手な諒介。

 黒縁眼鏡のレンズ越しに、彼はここから何を見ていたのだろう。

 その目は、いつものように穏やかだったろうか。時折見せる厳しい眼差しだったろうか。それとも───

 私はそこから、橋を引き返して築地に戻った。





 五時に退社して、池袋で里美と落ち合った。

 食事の前にデパートに寄る。「そろそろ秋物が欲しいな、って」と言う里美の後について行った。

 買い物は楽しい。女友達と一緒ならなおさらだ。「あれは?」「これは?」と言い合って、迷う。迷っている時がいちばん楽しい。

 里美は一枚のスカートをようやく選び出し、試着室に入った。待っている間に、ディスプレイのスーツを触ってみた。ウール混の柔らかな手触りが気持ちいい。店員が「よろしかったらお試しください」と言うのを、視線を逸らして聞き流した。四ヶ月も仕事を休んでいたから、とてもじゃないけど、買えない。

「由加、どう?」

 大きな鏡の扉が開いて、里美が出て来た。ベージュの革の膝丈スカート。ウエストではなく腰ではくシルエット。鏡の前で、横を向いたり後ろ姿を確認したりする彼女に「うん、似合う」と答えた。店員がそれに似合いそうなニットを二、三枚手にして近づき、里美の胸に合わせて鏡越しに「こんな感じで」と話した。

「あ、そのニット可愛いね」

「んー、でも今日はスカートだけ」

 そう言いながら彼女は色違いのスカートを手にした。

「こっちの色はどうかな」

「そちらでしたら、こんなお色が合いますよ」と店員が淡いブルーのノースリーブニットを合わせる。

「うーん。スカートには合うけど顔色が悪く見えるかな…。由加、似合いそうじゃない」

「えっ?」

 里美は強引に私を鏡の前に立たせると、焦茶のスカートを私の腰に合わせ、背後から店員もニットを私の肩でちょんと合わせて持った。

「すっごい可愛いよ由加」

「お似合いですよ」

 二人に畳み掛けられて赤面した。

「試着してみなよ。私はこっちの色にする。手持ちの服にも合うし」

「でも」と言ったが、「ご試着だけでも」「そうそう」と二人掛かりで試着室に押し込まれてしまった。お金ないのにな、と思いながら、試着室の中の鏡でもう一度スカートを合わせてみた。

 もう、二年くらい、スカートをはいていない。脚を出すのは恥ずかしかった。

「由加、着れたー?」と声を掛けられて、私は「ちょっと待って」と急いでスカートにはきかえた。柔らかい革を使っている。わずかな傾斜の台形シルエットがすっきりしていて、丈は私には膝下だったが見た目にも軽く、嫌な印象はなかった。扉を細く開けて目だけで外を見ると、店員が「どうぞ」と扉を大きく開いた。私は思わず俯いてしまった。

「いいじゃない、可愛いよ」

 里美は先刻店員がしたように、オフホワイトの半袖セーターを背後から私に合わせた。

「これもいいね」

 呆然と鏡を見た。里美は私の肩の上に顔を寄せてニコニコしていた。

「私、こういう微妙な色って似合わないんだ。由加はこういう優しい色が似合うね」

「そうかな。私は里美みたいに、はっきりした色の似合うのがうらやましいけど」

「そういうもんよねー。だってどっちも着たいじゃない?」

 彼女はクスッと笑った。なるほど、と私は頷いた。

 結局、里美はベージュのスカートを買った。私は店員に丁重にお断りした。とても素敵なスカートだったけど。本当に似合うか自信もなかったし、何より、先立つ物がない。

 今日はいつものイタリア料理の店ではなく、和風の居酒屋に入った。日本酒で乾杯して、里美の結婚の話を聞く。式は来年の二月に決まったそうで、昨日は新婚旅行をどこにするかで彼と喧嘩したと言った。

「こんな喧嘩ばっかりして、上手くいくのかねえ」

「本音で話せるんだから、きっと相性いいんだよ」

「そうかなあ?」

と言いながらも、里美は笑顔だ。彼を信頼している証だ。私も嬉しくなる。

 変わらずに迎えてくれた会社の人達、変わらずに友達でいられる里美。

 こうしてずっとそばにいてくれる人のいる喜び。

 里美と同じ幸せを、私も噛みしめていた。


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