黒猫堂、万引きに遭う3
「すみません。遅くなりました」
神谷が黒猫堂に帰ってきたのは、正午を少しまわったころだった。昨日も持ち歩いていたショルダーバッグを肩から提げている。
「急に店番を頼むことになってしまって申し訳ありません。なにか変わったことはありませんでしたか?」
ありました、とは正直に言えなかった。茜は嘘をついているということを表に出さないように、必死に平静を装って話した。
「大丈夫でしたよ。というか、あまりお客さんもこなかったです。一人だけ本を買われていったので、ついていた値札のお金をもらっておきましたけど、よかったですか?」
「ええ。すみません。いろいろと説明不足で困りましたよね」
「あと、そういえば、近所のおばさんからさつまいもをもらいましたよ。母屋のほうに置いてあります」
「ああ、飯田さんですね。あとで見ておきます。というか、よかったら松坂さんも持っていってください。どうせ、僕一人では使い切れないと思いますので」
「いいんですか? じゃあ、遠慮なく帰りにいただいていきます」
茜は神谷のその申し出に、思わず笑顔を浮かべた。そして、始めに思っていたよりも神谷が親切であることに驚いた。
お互い様かもしれないが、最初の出会いでは彼にあまりいい印象を持てなかった。本をすぐには譲ってくれなかったことから、茜は彼のことを強情で偏屈な人間だと思っていた。けれど、それが嘘のように目の前にいる彼はいい人のように思える。
どちらが本当の彼なのか、茜は判断に困っていた。
そんな茜の気持ちを知ってか知らずか、神谷は穏やかな声で再び言葉を発した。
「他にはなにもありませんでしたか?」
茜はその質問に一瞬どきりとしたが、あくまでも平静を装ってこう答えた。
「はい。それくらいです」
嘘をつくのが心苦しい。茜は先程万引きのあった棚の本を、とりあえず差し直しておいた。ばらまかれたおかげで、なんの本が盗られたのか茜にはまるでわからなかった。しかしそれは、神谷にとってもぱっと見て万引きがあったことはわからないということになるはずだ。今のところ、それは好都合なことになるのだろう。
花屋の主人にも万引きのことは口止めをしておいた。花屋の主人は最初は訝しそうにしていたが、茜がバイト初日から万引きに遭ったことを知られるとクビになるかもしれないからということを話すと、しぶしぶながら了承してくれた。
「それじゃあ、とりあえず松坂さんはお昼の休憩に行ってください。それか母屋のほう使ってくださっても構いません。冷蔵庫になにかあるかもしれませんし、カップ麺くらいなら食べてくださってもかまいませんよ」
「あ、大丈夫ですよお昼は。外で済ませてきます」
「そうですか。では、一時間後くらいには戻ってきてください。いろいろ、説明をさせていただきますので」
神谷は、長い前髪の間から見える目を細めてみせた。
茜は店を出ると、ほっと息をついた。なんとかごまかせたようだ。
しかし、神谷という男のことがますますわからなくなってしまった。本をダシにして弱みを握るような嫌な奴だとばかり思っていたのに、先程話していたときはとても感じがよかった。
そんな考えを振り払うように、茜は頭をぶんぶんと横に振った。
いけない。信用してはいけない。まだあの人がどんな人かわかっていないのだ。他人と深く関わってはいけない。
茜は心の底が次第に冷たくなっていくのを感じていた。
あの本さえ手に入ればいいのだ。あの本が自分の手に戻ってきさえすれば、それでいい。
そう自分に言い聞かせながら、茜は商店街の通りを歩き出した。