黒猫堂、万引きに遭う2
さつまいもを置いて茜が母屋から店のほうへと戻ると、そこに少年がいるのが目に入った。小学校高学年くらいの少年だ。
しかし、茜と目があった瞬間、少年は前にあった棚の本をものすごい勢いでばらまいた。そして脱兎の如くその場から逃げ去っていった。何事が起きたのかわからず目を白黒させて少し考えたあと、あっと茜は声をあげた。
少年はその場に本をばらまきながらも、手には一冊の本をしっかりと持っていた。それを棚に戻したところを見てはいない。ということは、これはつまりアレだ。
「こら! ちょっと待ちなさい!」
茜はばらまかれた本に気を取られ、少し出遅れる形となった。店から飛び出して少年が逃げていった先を見たが、時すでに遅く、その姿はどこにも見当たらなくなっていた。
「おや、どうしたのかね」
ちょうどそのとき、向かいの花屋の主人が店から出てくるところだった。手に持っていた切り花の入ったバケツをその場に置き、こちらへと近づいてきた。
「万引きです。小学生くらいの男の子が本持って走っていっちゃったんです」
「ありゃあ。そりゃあ困ったね」
花屋の主人は、前川生花店と胸に書かれたグリーンのエプロンをつけていた。彼はひとつため息をつくと、およそ花屋には似つかわしくないたくましい腕を、そのエプロンの前で組んでみせた。
「どうしたらいいんでしょう。こういう場合」
「そりゃあ、交番に届けるかするしかないんじゃないのかい。で、どれだけの被害だったの?」
「えっと、たぶん漫画本一冊だけです。値段のほうはちょっとよくはわからないです。なんの本だったかもよくわからないので。でも、たぶんそんなに高いものではないと思います」
少年の見ていた棚は、比較的近年に発行されたコミックの単行本が並べられている棚だった。希少価値の高いようなものはそこにはなさそうに思えたのでそう言ってみたが、実際のところはやはり店主の神谷に訊いてみないとわからない。
「そうかね。そのくらいならあきらめもつく範囲かもしれないね。悔しいだろうけど」
五十から六十がらみに見える花屋の主人は、眉間の皺を深くしてそう言った。小売業をやっている人にとって、万引きは死活問題だ。この人にとってもこういう話は他人事ではないのかもしれない。まあ、花屋で万引きという話はあまり聞かないけれど。
「そういえば、今日月曜なのに小学生が午前中からこんなところ歩いてるのもおかしいですよね」
「ああ、じゃあたぶん文月小学校の子じゃないかな? 昨日運動会だったって近所の小学生の子供のいる奥さんが言ってたから。ああいうの、次の日振り替えで休みになるだろ?」
なるほど、これは有力な情報だ。文月小学校の児童。
「ところであんた、了輔くんのところで働いてるの?」
「あ、はい。今日からです。毎日じゃないですけど」
「そうなの」
花屋の主人はそう言うと、先程の渋面を和らげて笑顔を見せた。
「そうか。それはいい。そうか。了輔くんもアルバイトを雇うことにしたのか」
花屋の主人はうんうんと、頷いて満足そうである。
「了輔くんは苦労人だからねぇ。あんた、助けてやっておくれよ」
「はあ、まあ……はい」
茜は返事に困り、曖昧な表情を浮かべた。とそのとき、花屋の店のほうから奥さんらしき人が主人のことを呼ぶ声が聞こえてきた。それに花屋の主人は「今行くー!」と大声で返事をした。
「それじゃわたしは店に戻ることにするよ。万引きのことは了輔くんが帰ってきたら相談しなさい」
花屋の主人はそう言うと、自分の店のほうへと戻っていった。
「はあー。どうしようー」
茜は店の奥へと戻ると、思わずそんな声を漏らした。
(最悪だ。バイト初日から万引きに遭うなんて)
あのとき茜は、掃除のために店の扉を開け放ってそのままにしていた。ドアベルがついている扉なので、本来なら客が来店したときはベルが鳴り響く音がするはずだった。けれど、今回それがなかったせいもあって、少年の存在に気づくのが遅れてしまった。そして、結果的に万引き犯を取り逃がす形となってしまった。
花屋の主人はああ言っていたが、やはり神谷にこのことを相談するのは気が重かった。
取られた本は、たぶんたいした額のものではないだろう。しかし、これはそういう問題ではない。茜の信用問題に関わることだ。
絶対に取り返さなくてはいけない。ただの店番すらろくにできないなどと思われたら、神谷は考えを翻し、やはりあの本は渡せないなんて言い出すかもしれない。
黙って知らないふりをしているという選択肢もあるが、それはやはり良心が痛む。それに、向かいの花屋の主人に訊けばすぐにばれてしまうことだ。
やはり、取り返すのが一番いい。あの子供を捜し出し、とっつかまえて盗んだ本を返してもらう。
しかし、それを実行するのはたやすくはないだろうことは、すぐに想像がついた。文月小学校の児童だということがわかっても、それだけの情報であの少年を特定できるとは思えない。目印といっても、特には思い当たらなかった。どこにでもいるような普通の小学生の男の子のように思えた。あえて特徴を言うならば、被っていた赤い帽子がどこかの少年野球チームのものらしかったということだけだ。
「野球少年……?」
茜はその手がかりに、一縷の望みをかけてみることにした。