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黒猫堂古書店物語  作者: 美汐
第六話 はるかなる物語
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はるかなる物語5

 神谷の父親が亡くなったのは、その翌日のことだった。神谷はその後、通夜や葬儀の手配などでいろいろと忙しく、茜は代わりにミケの世話や店のことなどを手伝った。しかしそれも茜が本業である派遣の事務の仕事がある日はなかなかきちんとはできず、店のほうが通常の営業に戻るまでには少し日にちがかかってしまった。

 そうしていろいろが落ち着いたころ、黒猫堂古書店はようやく本格的に営業を再開した。カレンダーの日付はすでに三月に入っていた。


 茜がその日、黒猫堂古書店に行ってみると、店内にはなにやら慌ただしい空気が満ちていた。大きな段ボールの箱が店内のあちこちに積まれ、ファックスを送信する音が忙しく聞こえている。茜がレジカウンターのほうへと近づいていくと、そこでは神谷が忙しそうになにかの作業をしていた。茜が入ってきたことにも気がついていないようである。

 ちょっと驚かせてやろうと茜がそちらに忍び足で近づいていくと、いきなり目の前になにかが飛びかかってきた。


「ぎゃあ!」


 茜はそのまま床に尻餅をついた。その衝撃に、目の前を覆っていたそれは茜から飛び退いていった。見ればその犯人は黒猫のミケである。驚かそうとしていたのに、逆に自分がびっくりする羽目になるとはなんともまぬけだ。


「もうっ。ミケ! 急に飛びかかってくるなんて危ないでしょ!」


 茜のその台詞にもミケは知らんぷりといった様子で、悠然と神谷のほうへと歩いていった。


「ああ。松坂さん。おはようございます。来てくださったんですね」


 神谷は笑顔でそう声をかけてきた。茜は慌てて立ちあがり、お尻の部分のほこりを手で払った。


「おはようございます。いきなり忙しそうですね」


「はい。やっぱり長いこと休んでいたせいで、通販やらファックスの問い合わせが溜まってしまってまして。買い取りした本の整理も進まずそこに置きっぱなしになってしまっています。今日は急にアルバイトを頼んでしまって申し訳ありませんが、手伝っていただけると助かります」


「はい。頑張ります」


 茜はそんな神谷の様子に、少しほっとしていた。父親の四十九日も過ぎた今、残された遺族はこれからは前を向いて生きていかなければならない。神谷としてはこの店を護っていくこと。それが亡き父親に誓った彼のこれからの生き方なのだ。

 こんなとき、忙しいということはありがたい。やるべきことがあるほうが、余計なことを考えずに済むはずだ。


 神谷の指示で仕事を手伝っていくと、あっという間に時間は過ぎていった。昼を挟んで再び仕事の続きに戻り、ようやく少しずつ仕事が片付いていった。

 入り口のドアベルがチリリンと鳴り、同時に「こんにちはー」という元気な声が聞こえてきた。そこから姿を現したのは、赤い野球帽を被った少年だった。あの露木少年である。手には紙袋を提げていた。


「露木くん。久しぶりだね!」


 茜はカウンターの中から少年に声をかけた。この少年とは最初こそいろいろあったが、今では彼も常連客の一人である。


「あ、姉ちゃん。またバイトに来てんの?」


「うん。とりあえず今日だけね。久しぶりに通常営業に戻ったはいいけど、いろいろ仕事が溜まってて」


「ふうん。で、兄ちゃんは? 借りてた漫画返しにきたんだけど」


 露木少年は、店内をきょろきょろと見回した。


「ああ。今ちょっとだけ出かけてて。またすぐ戻ってくるからちょっと待っててくれる?」


「そっか。んじゃ、そうするよ」


 彼はそう言うと、漫画本の棚のほうへと歩いていった。少年はさっそくそこにある漫画本を一冊手に取って読み始めた。

 そんな姿を見て、茜は自分がアルバイトに来た初めのころのことを思い出した。あのころは、自分がこんなふうにこの店のことを好きになるなんて思っていなかった。ただ一時的にアルバイトに来て、契約期間が過ぎれば去っていく。それだけのところだと思っていたのだ。


 けれど、今は違う。この場所が好きで、なくなって欲しくない。ずっと続いていって欲しいと思う。ここは茜にとっても特別な場所なのだ。

 そして、できることならばずっとこの場所に関わっていたい。アルバイトの契約期間が終わった今、それが可能かどうかはわからない。けれど、今日このあとで神谷にそれを交渉しようと思っていた。

 ドアベルの音が響き、神谷が店に戻ってきた。


「兄ちゃん」


 露木少年が、すかさず神谷の元へと近づいていった。


「おや。露木くんではないですか。お久しぶりです」


「うん。店のほうやっと開けるようになったんだね。俺、ここが開くのずっと待ってたんだぜ」


「そうでしたか。お待たせしてしまったようで申し訳ありません」


 神谷は少年に対して、律儀にそう言った。きっとこういうところは癖なのだろう。


「また借りてた本返しにきたんだ」


「そうですか。でももうこの漫画の続きは新刊が出ないとありませんから、貸せるのはこれで最後ですよ」


「うん。だからさ。今度は兄ちゃんおすすめの本でも教えてもらおうかと思って」


 露木少年の口から出たその意外な言葉に、茜はカウンター内で聞き耳を立てた。


「俺、漫画は読むけど普通の本ってあんまり読まなくてさ。どんな本がいいのかとかよくわかんないんだ。なんか、この店に通ってたら他の本にも興味が沸いてきたからさ」


 茜のいる場所からは神谷の表情は見えなかったが、茜にはそれが想像できた。きっと彼はとても嬉しそうな顔をしていることだろう。茜にとってもそれは同じだった。本を好きになってくれる人が、一人でも増えることは喜ばしい。


「そうでしたか。それならいい本はたくさんあります。なにがいいか、見繕ってみましょう」


 神谷はそう言って、茜のいるカウンターのほうへと近づいてきた。予想通り、神谷は満面に笑みをたたえている。


「お帰りなさい。神谷さん」


「ただいま帰りました。松坂さん」


 神谷はそう言ってから、少年を母屋のほうへと招いていった。少年は喜んでそのあとに続いて入っていく。なんだかそんな二人の様子は、歳の離れた仲の良い兄弟のようにも見えた。






 露木少年が本を借りて帰ったあと、神谷は入り口の扉を閉めに行った。そうして戻ってきた神谷に、茜はカウンター内から話しかけた。


「そういえばもうすぐ、ある人の結婚式に行くことになっているんです」


「そうですか。それはいいですね」


「はい。とても大事な人の結婚式なので、今から楽しみです。すごく綺麗な人だから、ウエディングドレス姿もきっと似合うだろうなと思ってて」


「女性というのは、やはりそういうドレスというものにあこがれというものがあるのでしょうか?」


「それはそうですよ。ドレスといえば、お姫様の象徴ですから」


「なるほど、結婚式というのは女性が物語の主人公になれる日というわけですね」


「そうです。結婚式はあまねく女性の夢の舞台なんです!」


 そう言って、茜は神谷と顔を見合わせると、どちらからともなく笑いあった。


「神谷さん。もうアルバイトを雇うつもりはないんですか? 今ならすごくお買い得な人材が一人いるんですけど」


 茜は少し目を逸らしてから、冗談めかしてそう言った。そんなふうにしたのは、あらたまって言うのが少しだけ怖かったから。断られるのが怖かったから。


「その人は、もしかしてとても本の好きな人ですか?」


 茜が神谷の顔に再び目を向けると、彼はとても真剣な顔をしていた。


「はい。とても」


「そして、意外と手芸が得意だったりする人ですか?」


「意外とっていうのは余計ですよ」


 茜がそう言うと、神谷は柔らかく微笑んだ。


「どうします? 採用ですか? それとも不採用?」


 茜はもう答えはわかっていたが、そう訊ねてみた。


「もちろん」


 と神谷が続きを言おうとすると、ミケがどこからか現れてカウンターの上に飛び乗った。そして、ニャーとひと鳴きした。

 神谷がそれを見て、目をぱちくりとさせた。


「これは……ミケのお墨付きも貰えたようですね」


「……はい。そうみたい、ですね」


 茜はそう言ってミケを見た。ミケは茜を見つめ返し、見間違いでなければそのときウインクをしたのだった。

 茜は嬉しくなって、思わずミケをぎゅっと両手で抱き締めた。ミケはそれにちょっとびっくりしたみたいだったが、嫌がることはなかった。


「あ、でもひとつだけお願いしてもいいですか?」


 茜はあることを思い出して、それを言うことにした。


「はい。なんでしょう?」


「神谷さん。お願いですから、携帯電話を持ってもらえないでしょうか。また連絡が取れなくなるのは困りますので」


 茜がそう言うと、神谷は困ったように頭を掻いていた。






 茜はアルバイトが終わると、そのまま車で実家のある隣町へと向かった。助手席には、神谷から受け取ったもう一冊の『はるかなる物語』が置かれてある。

 きっと大丈夫。この本を葵はきっと受け取ってくれる。

 茜はそれを想像した。もしかしたら、その場ではいらないと突き返されるかもしれない。余計な真似をするなと怒ってくるかもしれない。けれど、それでもいい。そのときは何度でもこれを渡しに行けばいいのだ。


(――葵。いつかあなたと二人でこの本の感想を話し合える日がくるかもしれない。一緒に笑って、好きな本の話をしあえる日がくるかもしれない。そんな日は、きっとどこかにあるはずだ)


 茜ははるか遠くまで続く夕焼けの空を、車のフロントガラスを通して見つめた。


(きっとあるよ。だってわたしたちの物語は、この空のようにどこまでも続いているのだから)





次でラストです。

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