はるかなる物語4
店のほうの雑用などを茜も手伝い、それが済んでから二人は病院に向かった。病院に着くと、一人の女性が神谷と茜のほうへと近づいてきた。
「了輔」
歳は五十代くらいだろう。しかしすらっとした美人である。誰だろうと思っていると、神谷の口から意外な言葉が飛び出した。
「母さん……」
神谷の母親は、驚いている息子の腕をそっと掴んだ。
「もっと早く知っていたら、わたしも手伝ったのに。本当にあなたって子は……」
神谷の母親はそう言いながら、目の端を潤ませていた。
「でも母さんには母さんの家族が……」
「馬鹿ね。あなただってわたしの家族よ。あなたの父親も、離婚したとはいえまったくの他人になったわけじゃない。あなたがつらいときについててあげるのが母親でしょう。いろいろとあなたには迷惑をかけてきたんだから、こんなときくらいは母親に頼りなさいよ」
「うん……」
神谷は声を詰まらせて、そうひとことだけ口にした。息子のそんな姿に、母親は堪えかねたように涙をこぼした。そして手に持っていたハンカチでそれをぬぐった。
それからずっと近くに立っていた茜の姿に気づいた彼女は、息子に訊ねた。
「こちらのお嬢さんは?」
「ああ。こちらは松坂茜さん。店でアルバイトをしてもらってたんだ」
神谷の紹介に、茜はぺこりとおじぎをした。
「そうでしたか。お世話になっています。神谷了輔の母親です」
神谷の母親は、深々と茜に頭をさげた。茜も慌てて同じようにした。
それから三人で、神谷の父親のいる病室へと向かった。
神谷の父親は、とても痩せていた。その姿を目の当たりにして、茜は思わず立ちすくんだ。自分でついてくると言っておきながら、怖じ気づいてしまった。茜はそんな自分が情けなかった。
「お父さん……!」
神谷の母親は、別れた元夫のことをそう呼んだ。そしてその枕元へと駆けつけていった。神谷は母親とは反対側に回って父親の傍についた。茜は部屋の入り口のところで立ち止まったまま、動けずにいた。
神谷の父親は眠ったまま、ただ浅い呼吸を繰り返していた。もう長くはないと神谷の言っていた言葉を、茜は現実の言葉としてそのとき本当の意味で理解した。死がそこに迫っている。生と死の狭間が、そこに厳然たる事実として存在していた。
「ごめんね……。もっと早くに来てあげられたらよかったのにね……」
神谷の母親は元夫の手を握り、涙を流していた。
「父さん。この前話してた松坂さんが会いに来てくれたよ」
神谷がそう言って、茜のほうを振り向いた。神谷が促すのに従って、茜は神谷の父親が眠るベッドへと近づいていった。
「父さんの大切にしていたあの店を、彼女が手伝ってくれていたんだよ。そのおかげでなんとか店を続けてこられたんだ」
茜はそんな大層なことをした覚えはなかった。ただなりゆきでアルバイトをしていただけだ。しかし、神谷はなおも続けた。
「もうあの店をやっていく自信をなくしかけていたときに彼女が来てくれて、どんなにか助かったんだ。彼女はあの店の救世主なんだよ」
茜は、神谷と初めて会った日のことを思い出していた。神谷からアルバイトの話を切り出されたとき、とても驚いた。しかしそのときは、神谷がそのことを持ちかけた背景のことなど、なにも考えなかった。そんなふうな切実な思いが彼にあったことなど、思ってもみなかったのだ。
茜は神谷の父親の前に立ったが、なにも言葉にならなかった。死を目の前にした本人や家族に、自分がなにを言えるだろうか。胸苦しくなり、鼻の奥がつんと痛んだ。
「父さん。僕があの店をこれからも護っていくから。……だから安心していいからね……」
神谷が父親の手を取り、つぶやくようにそう言った。その目からは、一粒の涙がこぼれ落ちていた。
それを見て、茜の頬にも熱いものが伝い落ちていった。




