はるかなる物語3
正月休みも終わり、燈月通り商店街の店もちらほらと営業が再開していた。黒猫堂古書店の前まできて、相変わらず扉が閉まっていることを確認した茜は、重いため息を漏らした。
今日も無駄足だったかとあきらめかけたそのとき、視界の端でなにか黒いものが動いたのが見えた。すぐにそちらを振り向くと、そこにはミケがいた。
「ミケ!」
思わず茜がそう声をあげると、ミケはその場にちょこんと座った。まるで茜が近づいてくるのを待っているようにも見える。
茜がミケの近くまで寄っていくと、ミケはつと立ちあがり、商店街の通りの真ん中を西側に向かって歩き始めた。その悠然と歩く姿は、まるで茜についてこいとでも言っているように思えた。
「ついてこいって……? まさかね」
そうつぶやいて、茜はけれどもそれに従うことにした。どうせ他にすることもないのだ。猫のきまぐれにつきあってみるのもたまにはいいだろう。
ミケはとことこと前を歩いていた。この寒空の中、外で出歩く猫も珍しい。しかし今日は最近では珍しく、空は晴れていた。
頭上を見あげると、突き抜けるような青空がどこまでも続いていた。それを見て、茜は昔よく想像したことを思い出していた。
この空のはるか遠くには、実は別の世界が広がっているのかもしれない。物語に出てくる遠い国の不思議な世界。魔法や不思議な動物や、そこで暮らす人々は実はどこかに本当にいて、その世界は今もこの空と繋がっているのだ。
そんな夢想に心を躍らせていたあの少女は、今も胸のうちに眠っている。
物語を読むということは、たくさんの人生をそこで疑似体験するということだ。平凡なつまらない少女は、そこでは大冒険をして活躍したり、国を救ったり、大恋愛をしたりする。事件を解決したり、ときにはピンチに陥って、九死に一生の目に遭うこともある。
ドキドキしたりハラハラしたり、怒ったり涙を流したり。実際にはそんなにいろいろな出来事が目の前で起こったりしたら、パニックになってしまうだろう。だけど、本の中でなら許される。本の中でなら、すべてはありうることなのだ。
本の中の登場人物は、みんななにかに一生懸命だ。目の前の出来事に、必死に立ち向かっている。自分もそんなふうになれたらと思う。なんのとりえもない、自慢できることなんてなにもない自分だけれど、一生懸命になることだけなら、真似できそうな気がする。
本を愛していると言ったあの人に、伝えたいことがある。
茜が抱いているこの気持ちを、あの人だったらわかってくれるだろう。
目の前を歩いていた猫は、歩いていたと思ったら急に走り始めた。
「あ、ミケ。ちょっと待って!」
茜は慌ててそんなミケを追いかけた。黒い小さな塊は、しなやかに伸び縮みを繰り返して走っている。どうやらなにかを見つけたようだ。
前方に目をやると、そこに人影が見えた。ミケはその人に向かって走っていた。その人は黒猫の姿に気がつくと、すっとその場でしゃがみこんだ。そしてミケは、そのままその人の腕の中へと飛び込んでいった。
「ミケ。迎えに来てくれたんだね」
そう言いながら、黒猫を抱いてその人は立ちあがった。少しやつれて、赤い目をしている。
茜はその人の正面まで近づいていった。
「遅すぎますよ。現れるの」
「え? あ、松坂さん? なんでここに? というか、もしかしてなにか怒ってます?」
神谷はそう言うと、困ったように頭を掻いた。
「連絡のひとつくらいくれたっていいじゃないですか。てゆうか、今までどうしてなにも教えてくれなかったんです? お父さんのこと」
「ああ、やはりばれてしまったんですね」
「神谷さん」
茜がじろりと睨むように見ると、神谷は観念したように口を開いた。
「ええと、それはやはりシリアスな話題ですし……」
「だけど、三ヶ月近くも店で一緒にいたんですよ。わたしだけなにも知らないなんて、納得いきません」
「あ、そうですか。……そうですよね。すみませんでした」
神谷はそう素直に謝罪した。茜はふるふると頭を振った。
「いえ。神谷さんが謝ることではないんですけど。でも、やっぱりわたしにもなにか手伝えたんじゃないかって。そう思うと言わずにいられなくて」
茜がそう言うと、神谷は疲れた表情ながらも、少しだけ口元をほころばせた。
「……それで、どうなんですか? お父さんの具合のほう」
茜の言葉に、神谷は口を結んで俯いた。そして、しばらくしてから言った。
「……もう、あまり残された時間はないようです。今は一旦帰ってきましたが、またすぐ病院へと戻るつもりです」
神谷は気丈にそう言ったが、その肩はかすかに震えていた。茜はなんと声をかければいいのか一瞬迷ったが、すぐに意を決してはっきりとした声で言った。
「わたしも病院に付き添わせてもらえませんか?」
「え?」
「神谷さん。本当はあなたも心細いはずです。こんなときにたった一人でお父さんに付き添うなんて、つらすぎますよ」
「だ、駄目ですよ。そんなのは」
「家族じゃないから駄目だって言うんですか?」
「いえ。そういうわけでは……」
「それならいいですよね。一度ご挨拶に行かなければいけないと思っていたんです。お父様のやっていらした黒猫堂古書店に勤めるものとしては」
神谷は茜の言葉に目を丸くした。そして、少しだけ笑って頷いた。




