はるかなる物語2
先日のことだ。店が開いていないのはどうしてなのかが知りたくて、茜は燈月通り商店街に出向いていた。黒猫堂古書店の近所の人に訊いてみようと思っていたが、ちょうど新年の休暇を取っている店が多く、頼みの中川生花店も閉まっていた。どうしようかと思っていると、ちょうどそこにバイト初日に出会った飯田というおばさんが通りかかったので、話を訊いてみることにした。
「こんにちは」
「あら、あなたは確か了輔ちゃんのところでアルバイトしてた子ね」
「はい。あのときはおいしいさつまいもをありがとうございました。わたしも何本かいただいたんです」
「あら。いいのよ。もうさすがに時期が過ぎてるから今はあげられないけど」
「そういえばお訊ねしたいんですけど、このお店、どうして最近閉まったままなんですか? 電話しても通じなくて困ってるんですけど」
茜がそう言うと、おばさんは目を大きく見開いた。
「それは仕方ないわよ。だって、今はお店どころじゃないもの」
「え? それってどういうことですか」
茜は思わず身を乗り出した。
「あら、やだ。あなた知らなかったの? 了輔ちゃんのお父さん、実はもう長くないみたいなの。長いこと入院していらしたけど、このところ急激に容態が悪くなったらしくて」
初耳だった。神谷からはそんなこと、ひとことも聞いていない。
「あの、どうされたんですか? 神谷さんのお父さん」
「大きな病気を患ってるみたいよ。まだ五十代の若さなのに、本当に気の毒よね」
周囲を気にしながら、おばさんは声をひそめてそう言った。
「了輔ちゃん。両親が離婚して、今まで父一人と子一人だったわけでしょ。だからお父さんが病気で倒れてから、今までほとんど一人で看病やらなんやらしてたみたいよ。別れた母親のほうにはもう他に家庭もあるとかみたいで、了輔ちゃんも頼らなかったみたい。本当、了輔ちゃんはよくやってると思うわ。お店のほうもやめたくないって、あの子一人で頑張ってて。だから、あなたがアルバイトに入ったって聞いて少し安心してたのよ。でもさすがに今はお父さんにつきっきりでいるみたい」
茜はそれを聞いて、胸が締め付けられるように苦しくなった。
(知らなかった。なんてことだろう。そんなに大変な状況だったなんて。知っていれば、もっとわたしにもなにか手伝うことができたはずなのに)
「また落ち着いたら、あなたのところにも連絡がいくと思うわよ。それじゃあ、あたしもこれから行くところがあるから」
「あ、はい。……ありがとうございました」
そう返事をするのが精一杯だった。
神谷はどうしてなにも言ってくれなかったのだろう。
いや、違う。言わなかったのだ。言う必要のないことだったからだ。たまたまアルバイトに来ている自分に、そのような自らのプライベートを話す必要はない。あの人のことだ。余計な心配をかけまいとしていたに違いない。
茜はそう考え、それでもと首を振った。
なぜ気づけなかったのだろう。言われてみれば、それと気づけるようなことはいくつもあった。茜がアルバイトに行くと、神谷はいつも大きなショルダーバッグを肩から提げてどこかへと出かけていっていた。あれはきっと病院へ行っていたのだ。あのバッグには、入院中の父親の着替えやら必要なものなどが入っていたのではないだろうか。
そして、髪を切ることも忘れてしまうくらい忙しかったということも、きっとそれが原因だ。父親の病気のことでいっぱいいっぱいで、自分の身の回りのことにまで気が回らなかったのに違いない。
中川と話しているときに急に怒りをあらわにしたのも、あのとき中川が店のことを馬鹿にするような発言をしたからだ。神谷にしてみれば、父親を馬鹿にされたような気持ちだったのかもしれない。
外出先でたまに店にかかってくる神谷からの電話は、いつも公衆電話からだった。携帯電話を持たない神谷なら公衆電話を使うのは当然だが、ここ最近はあまりそれを目にすることはない。けれど、大きな病院には必ずそれは設置されている。
考えてみれば、すべてがその事実と符合する。三ヶ月近くも一緒に仕事をしてきたというのに、どうして自分は気づいてあげられなかったのだろう。自分のことばかりを考えて、彼が大変なときに、どうしてなにもしてあげられなかったのだろう。
彼はあの店を護ろうと必死だった。過酷な状況で、店の経営もままならないほどの苦しい状態にありながら、それでもあきらめようとはしていなかった。
今だからわかる。
本当にあの人はあの店を愛していた。あの店を誇りに思っていたのだ。
神谷から受け取った二冊の本を眺めていたら、居ても立ってもいられない気持ちになり、茜はもう一度あの店に行ってみることにした。




