招待状14
翌週のその日は、クリスマス前、最後の日曜日だった。黒猫堂古書店では、そんなクリスマスムードとは無縁の、いつもと変わらない空気が漂っていた。
カウンターテーブルの上で、通販用の送り状に宛名を書いていた松坂茜は、ふと今朝テレビで見た天気予報のことを思い出していた。
「今日は予報では雪が降るらしいですよ。神谷さん」
棚の整理をしている神谷に、茜はそう声をかける。
「そうですか。どうりで冷え込むはずです。もし積もるようなら、松坂さん今日は早めにあがってもらってもかまいませんよ」
「はい。でも一応車のタイヤ、スタッドレスにこの前履き替えましたし、多少の雪なら大丈夫だと思います」
茜はここのアルバイトには車で通っている。店の裏手に一台だけ駐車できるスペースがあり、そこに駐めさせてもらっているのだ。
「この冷え込みが続くと、もしかするとクリスマスも雪になるかもしれませんね」
神谷が窓の外を見て、そんなことを言った。その窓ガラスには、茜が貼ったセロファンのサンタクロースがそりに乗って笑っている。この人でもそんなことを気にするのかと、茜は少し意外に思った。
そういえば、と茜は思い出したように訊ねた。
「この間の葵とわたしが入れ替わっていたとき、どうして携帯電話に出たのが葵ではなくわたしだと気がついたんですか? わたしたち、声もよく似ていると言われててそれだけでは区別がつかないと思うんです。店にいる葵が電話に出ているとは思わなかったんですか?」
神谷はそれにこう答えた。
「それはあなたの反応ですぐにわかりました。僕がそうして電話をかけてきたことに、あなたは少し驚かれていたようですが、すぐに声だけで僕だとわかってくれました。それで僕は確信したんです」
茜にはまだ理解ができなかった。どうしてそれだけで確信できたというのだろう。
「茜さん。僕はあなたの携帯電話に電話する前に、一件違うところに電話をかけているんですよ」
「え?」
「それはこの店の電話にです」
茜はぱちくりと瞬きをした。
「店に公衆電話から電話をかけると、それにその人が出ました。けれどその人は、僕の声が誰かはわかっていないようでした。僕は他人のふりをして、店主が戻ったら電話をもらえるようにと言付けて、適当に電話を切りました」
ああ、そうかと茜は納得した。神谷に初めて会った葵には、神谷の声の判別ができなかった。茜だから電話の声が神谷のものだと気づけたのだ。
「それに、もしあなただったらそんな電話が店にかかってきていたなら、僕から再び電話を受けたときにそのことを言うはずです。それを言わなかったということからも、店にいる人物と携帯電話で話している人物が同一人物でないことはわかりました」
なるほど。やはりこの人は容易には騙せない。茜の考えるよりも一枚も二枚もうわてだ。
それから再びそれぞれの仕事に戻り、茜は送り状の続きを書き始めた。しばらく静かな時間が流れたあと、神谷が不意に口を開いた。
「やっぱり降ってきましたね」
その言葉に、茜は神谷の後ろ姿の向こうに見える窓のほうを眺めた。ここからではよくは見えないが、かすかにちらちらとしたものが降っているように見える。これは神谷の言うとおり、クリスマスは雪になるかもしれない。
「本当ですね。天気予報当たりました」
「そうですね」
ふと興味が沸いて、茜は神谷に質問をした。
「ところで神谷さん。毎年クリスマスはどう過ごされているんですか?」
その質問に、神谷は再び茜のほうを向き直って答えた。
「クリスマス、ですか? 特にいつもと変わりませんけど」
「え? いつもと変わらないって、誰かと食事をしたりとかしないんですか? そうでなくても、ケーキとかチキンとか食べたりとかはしますよね?」
「いえ。そういうこともしません。子供のころはそういったものを食べてはいましたけれど、そういえば最近はそういうことはしなくなりましたね」
神谷の言葉に茜は耳を疑った。
「ええ? クリスマスですよ? なんでケーキ食べないんですか? 一年のうちにどうどうとケーキが食べられるのって、誕生日かクリスマスしかないんですよっ」
「いや、そう言われましても……」
神谷はいつものように、困ったふうに頭を指で掻いている。
そうだった。この人には本さえあればいいのだ。世間で勝手に騒がれて、特別な日のように思わされているクリスマスなどというものは、結局もとをただせばイエス・キリストの誕生日であり、もともと日本にはなかったはずのイベントなのだ。世間ずれして老成した感の漂う神谷という人物には、まったく興味の沸かないイベントなのだろう。
「あ、でも今年は少し違う過ごし方になる予定なんです。前川さんにレストランの食事券を二人分いただきましたので」
「え? あ、そうなんですか」
ということは、誰か食事を一緒にする人でもいるのだろう。少し変わっているとはいえ、彼も年相応の男性なのだ。恋人でも誘って、クリスマスディナーにでも出かけるのかもしれない。そう考えたところで、なぜかとてもがっかりした。
「でも、その予定が実際になるかどうかはまだ決まっていません」
「え? それじゃあ早く相手のかたを誘ったほうがいいんじゃないですか? もうクリスマスまで日にちありませんよ」
「そうですね。僕も今そう思っていました」
なんて悠長な人なんだろう。その相手とは、よほど懐の大きい人なのに違いない。
「では、正式にそのかたを誘ってみることにします」
神谷はそう言うと、茜のいるカウンターのところへと近づいてきた。なぜそのタイミングでこちらにやってきたのか茜は不思議に思っていたが、次の言葉を聞いて唖然としてしまった。
「松坂茜さん。今度のクリスマスイブの夜はご予定は空いてますでしょうか」
なにを言われたのか、一瞬理解ができなかった。そしてしばらく、その言葉の意味を考えてみた。
「……え? えええーーーっっ!」
思わず座っていた椅子ごと後ろにひっくり返るところだった。間一髪、カウンターの天板の端を手で掴んでそうなるのをまぬがれた。
「わたし? もしかしてわたしを食事に誘っているんですか?」
「はい」
にこりと神谷は笑って答えている。
読めない。この人のことはいまだによくわからない。
けれど。ひとつだけはっきりしたことがある。
「駄目でしょうか? 前川さんにも後押しされたんですけど」
茜はそれを聞いて、思わず吹き出した。
「神谷さん。駄目ですよ。そういうことはここで言っちゃ」
「ああ。やっぱり駄目ですか。そうですよね。それならこの食事券は前川さんにお返ししたほうがいいですね」
神谷はこころなしか哀しそうな顔になった。茜は慌てて言い直した。
「違います違います。そうじゃなくてっ」
まったくこの人は、どうしてこうなのだろうか。
「行きますよ。行かせてください」
「え?」
「クリスマスイブの夜、一緒に食事に行きましょう」
茜がそう言うと、神谷はぱっと明るく顔を輝かせた。そんな表情は、なんだか少年のように幼く見える。
この人のことは嫌いじゃない。
それだけは茜の中ではっきりしていた。
これが恋愛感情なのかどうかはまだ自分にもよくわからない。けれど確実に言えることは、神谷は男嫌いであるはずの茜が心を許せる、数少ない男性の一人だった。




