黒猫堂、万引きに遭う1
黒猫堂古書店。それがこの古本屋の名前らしい。最初こそ気がつかなかったが、店の屋号はきちんと入り口の上部分に記されていた。
ひと昔前はよくあったような一般的な古本屋で、漫画や雑誌や小説、美術書や専門書など、なんでも取り扱っているらしい。どちらかというと、小学生でも気軽に立ち寄れるような庶民的な店のようだ。
しかし、実際は気軽に立ち寄れるような雰囲気ではない。今時の子供たちというのは、いつでも明るいコンビニのような店に慣れている。この窮屈で照明も薄暗い得体の知れない雰囲気は、あまり子供向きではないのかもしれない。
茜自身は、そんな独特の雰囲気が割と気に入っている。昔通った古本屋もこんな感じだった。どこか懐かしい気分にさえなってくる。しかし、時代のニーズは変わってしまった。大型古書店のような、明るく広々とした店が台頭してきたのは、やはりそれなりの理由があるわけだ。
長く続いた不景気で、街の昔からあった小売り店舗はどんどん少なくなっているという。古本屋も、以前はこうした小さなところもあちらこちらにあったのに、大型店舗が増えてきたころからそれらの店も次々と閉まっていった。表の様子から察するに、この店も経営はあまりかんばしくはなさそうだ。
松坂茜は男に店の手伝いを頼まれた日の翌日が休みということもあって、早速黒猫堂にやってきていた。とりあえず、三ヶ月だけという契約で働くことになり、例の本はその契約期間終了後に渡してくれるのだという。給料ももらえるし、それであの本を譲ってもらえるというのなら、茜としても特に不満はなかった。
店主である男の名前は神谷了輔。年齢は二十五歳。茜よりひとつだけ年上だ。他にはとにかく本が好きということ以外は、依然として謎のままである。
茜は店番を頼まれて奥のレジカウンターの中で座っていた。神谷は茜が来てすぐに、「すみません。店番お願いします」と言ったままどこかへ飛び出していってしまった。それを見送ってから、茜ははたと気がついた。
この店のことなどなにも知らないのだ。もし神谷が留守の間に誰かがやってきたら、どうすればいいというのだろう。
とにかく言われたとおりに店の奥で番をすることにした。幸い、というべきか開店から今まで客は入ってこなかった。入り口の扉の下部分に作られている猫用の扉から、黒猫のミケが入ってきたのを見たくらいだ。
暇を持てあましていた茜は、ひとまず店内の掃除をすることにした。店の奥の住居スペースとの境辺りにはたきが置かれてあったので、とりあえずそれを使って本棚の埃を払うことにした。
「ん? 古本屋にはたき? これはなんともベタな……」
古本屋というのは置いてあるもののせいなのか、なんとなく埃っぽいようなカビくさいような印象がある。特に年代物の古書なんかが置かれてある辺りは、セピア色の幕が目の前にかかっているような気さえしてくる。そういうのが好きな人にはたまらないのだろうが、若い人たちにはちょっと入りにくい雰囲気ではあるのだろう。
「せっかくここで働くんだから、もうちょっと店内を明るい感じにしてみたいな。ねえ、ミケ?」
足元を悠然と歩いていくミケにそう話しかけてみるが、反応はそっけないもので振り向きもしなかった。どうやらまだ茜のことを認めてはいないようである。
茜は店の扉と窓を開け放った。とりあえず、どんな仕事も掃除が基本だ。茜はさっそくはたきで本棚の埃をはたき始めた。
掃除を始めてしばらくすると、どこかのおばさんが店をのぞき込んできた。
「あら、珍しいわね。アルバイトさん?」
近所の人なのだろう。エプロン姿で手にはビニールの袋を提げている。入り口付近の本棚を掃除していた茜は、その人に会釈してから答えた。
「はい。今日からここで働かせてもらっています」
「そうなの。偉いのねえ」
たいして偉くもないし、なりゆきで働くことになってしまった事情もあるので内心は複雑だったが、茜は愛想笑いを浮かべておいた。
「あ、そうそう。これ、うちの畑で採れたさつまいもなんだけどね。了輔ちゃんに渡しておいてもらえるかしら」
了輔ちゃんという呼び名に、少し戸惑った。おばさんにとっては神谷も子供のようなものなのだろう。おばさんの持っているビニール袋をちらりとのぞくと、大きなさつまいもがいくつも入っていた。
「はあ。さつまいもですか」
「そうよ。自慢じゃないけど、うちのさつまいも評判がいいのよ。とても甘くておいしいって」
「そうですか」
「だから、いつものおすそわけよ。遠慮せずにもらっておいてね」
おばさんはにこにこしながら、強引ともいえる感じでさつまいもの入ったビニール袋を茜の手に押しつけていった。
この場合、断るのは失礼なことになるのだろう。受け取っていいものかどうか判断はつきかねたが、結局茜はおばさんの笑顔の圧力に屈することにした。
「ありがとうございます。あとで店主に言っておきますので」
「いいのよ。それじゃ、了輔ちゃんによろしくね」
おばさんはそう言って去っていった。茜は持たされたさつまいもの入った袋を見て思った。
(おいしそうだな)
そんなことを思いながら、茜はさつまいもの袋を店の奥の母屋のほうへと運んでいった。