招待状5
松坂茜の言動は神谷にとっても予想外のことだった。一番始めに驚いたのが、その本が自分が持っていた本だということを言い当てたことだった。あのハートの形のシールを貼ったのは自分だとも言っていた。その本に余程思い入れのある人間でなければ、それを言い当てることなどできるはずがない。
そして松坂茜は、その本を譲って欲しいと神谷に迫った。神谷としては、そのときそうすることも考えなくはなかったが、口を突いて出た言葉はそれとは正反対の言葉だった。その本の矛盾が抱える謎を知りたかった。そして本のもともとの持ち主だったという、松坂茜という人物に興味が沸いたのだ。
神谷はそれを知るために、なんとか松坂茜を引き留めようと考えた。そのために多少不可解な言動を取ってしまったかもしれない。ストレートに疑問を口にすることも考えたが、もし彼女がそれを言いたくないと口を閉ざしてしまったらそれでおしまいになってしまう。そしていろいろと考えた結果、彼女のひととなりを見極めることで、その謎を推理することを思いついた。
彼女がその本にどこまで思い入れを持っているのか知りたい一心で、神谷は彼女に条件を提示した。それを断る程度ならば、彼女の本への思い入れはそこまでだったということだ。けれど、松坂茜はその条件を快諾した。彼女の本への思い入れは本物だ。そのとき神谷はそう感じた。
しかし神谷には気になることがあった。彼女がその本にこだわる理由としてあげたのは、「大好きだった先輩からもらったもの」だからだというものだった。それはつまり、大事なのはその先輩であって、本自体ではないということになるのではないだろうか。もしそうだとするならば、その先輩への印象次第で本への対応が変わるということになりはしないだろうか。
あの本の傷んだ部分を思い出す。あれは偶然できてしまったものなのか。それとも彼女自身がやったことなのか。もし彼女自身がそれをした張本人であるのなら、本を彼女に返すのは危険だ。本を粗末に扱う人物を、神谷は許せなかった。だからこそ彼女のことを見極めて、そのうえであの本の処遇を考えるつもりだった。
もちろん彼女をアルバイトとして雇ったのはそれだけの理由からではないが、結果的に彼女のことを知るいい機会となった。
これまで彼女のひととなり、言動を見てきたが、神谷は何度も驚かされてきた。松坂茜という人物を知れば知るほど、神谷は自分の愚かさを思い知った。彼女は神谷の知る女性のうちの、誰よりもすばらしい人だった。
仕事には真摯に向き合い、真面目に取り組む。自らの行いに過ちがあれば、それを認める素直さも持ち合わせている。他人が困っていれば心配し、相手のことを思い遣る。頼まれたことには最後までつきあい、相手が喜ぶ姿を見ればそれを自分のことのように喜べる。たまに失敗することもあるが、それを補ってあまりあるくらいの人のよさを、彼女は持っていた。松坂茜とは、そういう人物だった。
神谷はレジカウンターの上に置いてある、猫の箸置きを手に取り見つめた。彼女は自分のことをどう思っているのだろうか。最近、そんなことをよく考えるようになった。彼女からすれば、自分は単なる雇い主であり、それ以上に嫌な人物であるはずだ。本を取引の材料にして、試すようなやり方をした自分は、こんなふうに彼女からなにかをもらうような資格のない人間だ。
今となっては制服として定着してしまったこのエプロンも、本当なら自分は身につけるべきものではない。彼女が作り直したホームページもお客さんからは好評で、おかげで注文も以前より増していた。
この間外から帰ってきて店を見たとき、どれほど驚いたことか。店のガラス窓にはクリスマスツリーやそりを引くトナカイ。サンタクロースやらの絵が出現していた。プレゼントの乗ったそりの上には小さな黒猫まで一緒に乗っている。どうなっているのかと近づいて見てみると、色のついたセロファンを形に切り抜いて、ガラスに貼ってあるようだった。
さらに入り口の扉部分には、木の枝や葉っぱと木の実でできたリースが飾られてあった。よくよく見れば、ドーナツ状に切り抜かれた段ボールの紙に木の枝や葉がくっつけられているだけだったが、なかなかどうしてよくできていた。
中で出迎えてくれた彼女に、感謝の意を述べたことは言うまでもない。
彼女には、この短い期間にいろんなものをもらっている。
自分はなにを返せているだろう。なにも、なにひとつ返せてはいない。返せるものなどなにもない。
そう考えたところで、そうではなかったことに気がついた。
あるじゃないか。返すもの。返さなければならないもの。彼女がなによりも一番に欲しがっているものが。
あの本を彼女に返そう。
猫の箸置きをカウンターに戻しながら、神谷はそう決めていた。
契約期間いっぱいまで彼女を縛る理由はない。松坂茜はあの本を大切にできる人物だ。それはなによりも自分自身がわかっている。あの傷んだ箇所は、きっと思いがけない事故によりつけられたものに違いない。
自分が彼女にしてあげられることはそれしかなかった。なぜ電話の向こうの彼女に元気がなかったのか。今日という日に休みを取ったのか。気にはなったが、明日あの本を彼女に渡すことで元気を取り戻してくれればいい。そして、この店のアルバイトを終了することで、彼女の拘束を解くのだ。
自分の出した馬鹿げた条件につきあってくれた彼女には、本当に申し訳ないことをしたと思う。アルバイトを入れることで順調に店を回していけるようになったが、それはこちらのほうの都合で彼女には関係ない。幸い、今の生活にもだいぶ慣れてきたところだ。一人でもどうにか店もやっていけるだろう。どうしても以前のように仕事が滞るようになるなら、そのときは張り紙でも出して、また違う人を雇うまでだ。
そのときミケが母屋から店へと移動してきた。神谷はミケを抱きあげると、その艶やかな毛並みを撫でた。
「また、お前と二人きりになるな」
そのつぶやきは虚しく宙に漂って、やがてどこかに消えていった。




