招待状4
「あの、松坂ですけど」
そう言った彼女の声は、とてもか細かった。
「松坂さん? どうされたんですか?」
「……すみません。今日のバイト休ませてもらえますか?」
「はい。お休みされるんですね。大丈夫ですよ」
「急にごめんなさい。明日は行くつもりですから」
松坂茜の声は、いつになく元気がない。萎れてしまった花のように生気を失ってしまっている。
「どうされたんですか? どこか体調でも崩されたのでしょうか?」
心配になって神谷はそう訊ねたが、彼女は沈黙したままだった。
「松坂さん?」
「あ、すみません。はい。ちょっと、調子があまりよくないので。でも、今日休めばたぶん明日は行けると思います」
「そうですか。それならゆっくりと今日は静養されるといいですね。明日のこともご無理なさらずに。店のことは大丈夫ですから」
神谷がそう言うと、受話器の向こう側にいる松坂茜は「それじゃあお願いします」と言って通話を切った。
神谷は受話器を本体に戻すと、胸に暗いもやがかかったような気分になった。なんだろう。彼女がアルバイトに来るようになって、こんなふうに突然休むのは初めてのことだった。体調を崩したと話していたが、あまりに元気がない声音が気になった。
彼女は一人暮らしをしていると言っていた。そんな状態で一人でいて、大丈夫だろうか。しかしだからといって、自分がお見舞いに行っても迷惑なだけだろう。そんなことを考え、神谷はゆっくりと息を吐いた。
神谷が彼女に興味を抱いたのは、彼女があの本の持ち主だったからに他ならない。ミヒャエル・エンデ作『はてしない物語』は、神谷にとっても思い出深い作品だった。
幼い少年時代から本に囲まれて育った神谷だったが、特に神谷を本の虜にした作品がそれだった。本の世界というのは、こんなに楽しくておもしろくて夢中になれるものなのかと純粋に感動した。その本に出会って以来、神谷は貪るように本を読んだ。小学校低学年にして、児童書のみならず、一般書や各種の専門書まで幅広く読みあさるようになった。そんな神谷は当然のなりゆきで老成した子供に育ち、変わり者というレッテルは彼の代名詞にもなっていった。
膨大な数の本を読んできた神谷だったが、やはり彼をそこまでの本好きの道へと誘うきっかけを作った『はてしない物語』は特別な本だった。折に触れては何度も読み返し、そのたびに感じ方が変わっているのが不思議だった。好きな本、というだけでは足りない。自分の人生を変えた、決定づけた本。神谷にとってはそういう本だった。
だからいつも、他の新刊書店や古書店でその本を見かけるとつい手に取ってしまう。自分の蔵書にも、もう何冊もそれと同じ本がある。茜の本を買ってしまったのも、そういう理由からだった。
しかし、松坂茜が他の古書店に売ってしまったという『はてしない物語』は、手に取った瞬間から不思議な感じがしていた。外箱は大事に取ってあったようで、割と綺麗だったにも関わらず、本体の表紙の角はへこんでいて、中のページも折れや破れといった箇所があった。なんて乱暴な扱いを前の持ち主はしていたのかと、それを見た瞬間に怒りが込みあげたが、あるページを見て混乱した。
そのページには少し破れている箇所があったが、そこにはその破れを補修するためだろう、ハートの形をした小さなシールが貼られてあった。
その矛盾に満ちたシールが、神谷の心を掴んだ。その本の元の持ち主の意図が知りたかった。本を傷めたにも関わらず、こんなふうに破れを丁寧に直していたりしている。その不思議な本を、神谷はすぐに購入した。
そして数ヶ月後、神谷は松坂茜と出会ったのだった。




