黒猫と古書店4
古い本の匂い。色褪せた背表紙。数え切れないほどの本の山。
茜は一瞬でその世界の虜になった。ここは茜にとって、夢の世界だった。本に囲まれる至福。紙と字の洪水。めくるめく知識と物語の世界。
茜が恍惚と店内を眺め回していると、目の前を急に黒い物体が横切っていった。
「きゃっ」
思わずそう叫ぶと、店の奥から男が顔をのぞかせた。
「大丈夫ですか?」
「今なにか黒いものがわたしの目の前を……」
「ああ。ミケですよ」
男はそう言うと、茜の足元に向かって手を差し出した。
「ミケ。おいで」
茜は振り向いて自分の足元に目をやると、そこには真っ黒な猫がいた。黒猫はニャーとひと鳴きすると、とことこと男に近づいていって男の肩に飛び乗った。赤い首輪をつけているところを見ると、この家の飼い猫らしい。
「ミケ? 黒猫なのに」
「ええ。猫の名前が他に思いつかなかったもので」
いや。それでも黒猫にミケはおかしい。
茜はそう思ったが、そのことは言わずにおくことにした。ミケと呼ばれた黒猫はとても男に懐いているようで、肩からおろされたあとは男の腕にすんなりと抱かれていた。
「この古本屋はあなたの家なんですか?」
「ええ、まあ。自宅はこの奥と二階になります」
「古本屋が自宅ということはつまり、ここはあなたの店?」
「ええ。もともとは祖父が開業した店で、祖父が他界したあとは父が営んできました。そして今は僕が店主を勤めているんです」
「そうなんですか。店主なんて、なんかすごいですね」
茜がそう言うと、男はなぜか困惑した表情を浮かべていた。
茜はあらためて店内を見渡した。どちらかというと、ひと昔前の古本屋といった感じのお店だった。老舗といえば聞こえはいいが、時代遅れと言われればそうともいえるかもしれない。
「でも閉まっていたということは、今日は定休日だったんですか?」
「いえ。本当は店を開くはずだったのですが、今日は急用ができてしまいまして、やむなく閉めさせていただいてました。今のところ僕以外に店を開けられる者がいませんので」
「そうだったんですか」
急用というのがなんだったのかはよくわからないが、それで店を閉めなければいけなくなるということは、今この店を切り盛りしているのはこの男一人のようである。まあ、表の人通りの少なさを見ても、少しくらい店を閉めていたところであまり支障はないのかもしれないが。
しかし、今はそれよりもあの本のことだ。男がなぜここに茜を連れてきたのかはわからないが、どうにかして譲ってもらわなければ。
「あのですね……」
「この店、どう思います?」
茜が口を開くと同時に、男がそんなことを言った。
「……え? どう、って……」
「ぱっと思いついたこととかでいいんですけど」
男の思惑がなんなのかはよくわからなかったが、茜はとりあえず男の言うとおりこの店の印象について話すことにした。
「わたしは古本屋さん好きなのであれなんですけど、どうなんですかね。やっぱり普通の人からみたら古くさい、下手すると陰気くさい印象なんじゃないですか?」
「……そうですか。他にはなにか気づいたこととかありませんか? なんだったら店内を見て回ってくださっても構いませんよ」
「ええと、そうですね」
男の声はなんとなく真剣味を帯びているように感じられた。ここでいい回答をしなければ、あの本が手元に帰ってこないかもしれない。茜はざっと店内を見て回り、同じ場所に戻ってくると、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「値打ちのある本とかそういう類のもののことはよくはわかりませんけど、品揃えは悪くはないと思います。わたしのようなごく一般の人間でも充分楽しめる店だと思います。ただ欲を言えば、最近の売れすじのものがあまりないように見えます。それでもわたしの好きな作家さんの本はたくさんありますし、仕入れのセンスがないわけではないと思います。これはわたしの予想なんですけど、最近本を仕入れしていないんじゃないですか?」
茜がそこまで言うと、男はにこりと微笑んで言った。
「合格です」
「え?」
「ああ、すみません。いきなりこんなことを言われては、気分を悪くしますよね。けれど、僕の目に狂いはなかった。あなた、本はお好きですか?」
「え、ええ。まあ」
「こういう、古本屋に興味はおありですか?」
「それはまあ、それなりに……」
茜がそう言うと、男は深く頷いてからこう言った。
「では、この店を手伝ってはもらえないでしょうか?」
茜は目をぱちくりさせた。この男はなにを言っているのだろう。店を手伝うとは、どういうことなのだろう。
「え、えーと? 店を手伝う? わたしが?」
「そうです。それをこの本を譲る条件にしたいと思っています。もちろん別に給料もお支払いします」
「え。でも、わたし他に仕事もありますし、急にそんなこと言われても……」
「仕事が休みの日の暇なときだけでいいんです。助けが必要なんです。どうか手を貸してはもらえないでしょうか?」
なるほど、そういうことか。この人、バイトを探してたんだ。
「僕はこの店の救世主を探していたんです」
救世主。男の大げさな物言いに、ちょっと吹きかけた。しかし男の表情は真剣そのものだ。茜は男の目を見つめると、首を大きく縦に振っていた。
「やります。やらせてください」
こうして、茜はこの古本屋で働くことになったのだった。
第一話終了です。