茜、陶器市に行く4
倉本先輩と知り合いになったのは、高一の秋を過ぎたころのことだった。ひとつ年上の倉本先輩は、そのころ生徒会長も務めていて、茜にとっては芸能人のような遠いあこがれの存在で、言葉を交わすことなどそのときは想像もしていなかった。
学業もスポーツも万能で、容姿も端麗だった先輩は、生徒からだけでなく先生からの人望も厚かった。そんなすごい人と同じ学校にいるということだけで、茜は鼻が高かった。そんな姿を遠くから見ているだけで満足だったのだ。
ある日のことだった。借りた本を返却するために、学校にある図書館へと茜は足を向けた。
図書館内は静かで、他には誰もいなかった。カウンター内にいるはずの図書委員も、なにかの用事で席をはずしているのか見当たらなかった。茜は仕方なく図書委員が戻ってくるのを待つことにして、なにか借りていく本を選ぶために本棚の間を見て回っていた。
そしてそのときたまたま手に取った本が、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』だったのだ。
本を手にとってまず驚いたのが、本の装丁の豪華さだった。外箱から本を取り出すと、中から現れた鮮やかなあかがね色の表紙に目を奪われた。中も二色刷になっていて、なにか不思議な印象を持った。興味をひかれて中身を読んでみると、茜はすぐに物語の泉へと沈み込んでいった。
それは不思議な体験だった。外から聞こえるざわめきも、目に入る光や本の色なども、目や耳は感知しているはずなのに、茜はそれを感じることはなかった。茜の体はそこにあったが意識はそこにはいなかったのだ。茜はバスチアンと同じものを見て、同じものを感じていた。ファンタージエンの不思議な世界は、茜の心を躍らせ弾ませていた。
なぜもっと早くこの物語に出会わなかったのだろう。もっと幼いころに読んでいれば、また違った純粋さでこの物語を楽しめたはずなのに。しかしそれでも、高校生の茜の心をその物語は掴んで離さなかった。茜は夢中になって文字を追い続けた。
声をかけられるまで気づかなかったのは、そんなふうに本の世界にのめり込んでいたからだ。物語の世界から呼び戻され、その声の主を振り返ったとき、茜は驚きで心臓が止まりそうになった。
そこにいたのは倉本先輩だった。あこがれの先輩が目の前にいる。そして自分に話しかけてきている。自分はまだ物語の世界の中にいるのではないかと疑うほどだった。
倉本先輩は、茜が『はてしない物語』を夢中になって読んでいる姿を見て、興味を持ったらしかった。その本は、倉本先輩にとっても、思い入れのあるとても好きな本なのだと話してくれた。
それから茜と倉本先輩との交流が始まった。放課後や休みの日に、学校や市の図書館で待ち合わせたりして、好きな本の話などをしたりするようになった。
周りの友達にはよく羨ましがられた。あんな素敵な先輩とどうやって仲良くなったのかとさんざん言われた。当時の倉本先輩の人気は本当に絶大だったのだ。そのせいで陰で妬まれて嫌がらせを受けるようなこともあったけれど、それはささいなことだった。
茜はとても幸せだった。あこがれの先輩とそんなふうに親しくなれるなんて、夢のようだった。ふわふわと地に足がついていないような気分で、なんだかとても自分が偉くなったような気さえしていた。今考えたら馬鹿馬鹿しいことだとは思うけれど、その当時は倉本先輩の隣にいられる自分は特別なのだとさえ思っていた。
きっと倉本先輩も茜のその浅はかで幼稚な考えに気づいていたに違いないのに、それでも先輩は自分に優しくしてくれた。けれど、それはやはり表面だけのものだったのだ。先輩は茜から距離を置きたがっていたのに、茜にはそれがわからなかった。無邪気という名の厚顔さで先輩につきまとっていた。いや、そうではなかったのかもしれない。先輩の心の変化にどこかで気づいていたのにも関わらず、それを無視していた。先輩の優しさに甘えてしまっていたのだ。
先輩とは、あの卒業式の日以来会ってはいない。先輩は茜の前から姿を消した。
――あの、思い出の本だけを残して。
あれ以来、茜は人とつきあうことが怖くなってしまった。大切だと思っていた人が突然姿を消してしまうつらさを、嫌というほど味わってしまったからだ。だから茜はあれ以来、人と深くつきあうことを避けてきた。そうすることで自分を護ってきたのだ。
「茜、茜ってばっ」
そう珠恵に声をかけられるまで、茜はぼうっとひとつの皿を見続けていた。
「この店にもなさそうだから次行くよ」
「あ、うん」
「茜大丈夫? なんかぼーっとしてるみたいだけど。やっぱりもう疲れちゃったかな?」
珠恵は心配そうな顔になって、茜を見つめてきた。
「ああ、違うの。ちょっと考え事してただけ。次の店、行こうか」
茜はわざとらしく大きな声を出してから、次の店に向かって歩いていった。
(そうだ。こんなことを今さら考えたって仕方がない。今は目の前のことだけを考えよう。珠恵の探し物を見つけるんだ)
茜は胸によみがえりかけたあの息苦しい感情に、無理やり蓋をした。
(思い出さなくていい。答えなんか知らないほうが幸せなことだってある。先輩とは突然の別れだったけれど、少なくともあのころの思い出は、今でもわたしの中ではかけがえのない宝物なのだから)




