黒猫と古書店3
定食屋を出た茜は、体中が釈然としない気持ちでいっぱいになっていた。目の前を歩く男の後ろ姿を見ながら、眉間に皺を寄せて歩いていた。
定食屋での支払いは、男が自身のお金で支払っていた。どうやら最初から茜に支払わせるつもりはなかったようだ。結局定食屋には本当につきあわされただけに終わった。
なんなのだろう。どうして考える時間が欲しいなどと彼は言い出したのだろう。しかし、一応譲ることを考えてくれたということは、茜の熱意が少しは伝わったと思ってもいいのだろうか。
男はずんずんと先を進んでいく。茜が後ろをついてきていることを、果たしてわかっているのだろうか。先程からまるでこちらを振り向こうとしない。
しかし男は意外と律儀なところがあって、信号は必ず守るし、車が来ていなくても横断歩道のない道は通らなかった。まあ、そのおかげで置いていかれずに済んだので、助かったともいえる。
それにしても、いったいこの男はどこへ行くつもりなのだろう。もっと早くに訊くべきだったが、ついていくのに必死でなかなかそれを訊けずにいた。ちょうど信号で男が止まったところで、それを訊ねてみることにした。
「あの、どこへ向かわれているんですか?」
「ああ。言っていませんでしたっけ。でも、もうすぐですから」
男はそう言うと、青になった歩行者用の信号を確かめてから再び歩き出した。
信号を渡ると、男は正面にあった商店街のアーチの下をくぐっていった。そのアーチには、燈月通り商店街と書かれてあるのが読み取れたが、かなり褪色していて、そこはかとなく寂れていることがうかがえた。中に足を踏み入れても、予想に違わず人通りは少なかった。正確な数はわからないが、両脇にある店の三分の一近くはシャッターが閉まっているか営業をしていなさそうで、開いている店もあるにはあるが、とても繁盛している雰囲気とはいえなかった。
この街に来て一年近くが経つ茜だが、そこを通るのは初めてのことだった。そこは、駅前の大通りと比べ、あまりに静かだった。きっと何十年か前は賑やかだったのだろうが、今はそれを感じさせるところはなにもなかった。
男はしばらくその商店街を歩いていったかと思うと、そのうちのひとつの店の前で立ち止まった。その店もやはり店の扉は閉まっていて、内側から準備中という札がのぞいていた。
「ここです」
男はそう言うと、その扉の鍵を開けた。
「え?」
茜は思わずそう声をあげた。ついてきたはいいが、まさかこのような場所に連れてこられるとは思ってもみなかったのだ。見知らぬ男とこの寂れた商店街にあるこんな建物に入っていくなど、絶対に危険だ。身の危険を感じ、茜は思わず一歩身を引いた。
しかし男は茜のそんな様子になど気づきもしていないようで、扉を開けるとおかまいなしに自分は中へと入っていった。それと同時に、扉についていたらしいドアベルの音が辺りに鳴り響いた。しかし茜はなかなか中へ足を踏み入れることができずにいた。遠目から見ても、薄暗い店内は不気味で恐ろしく見える。どうするべきかと茜はしばらくその場で立ち尽くしていた。
「どうしたんですか? 中へどうぞ。今、電気点けますから」
茜がなかなか入ってこないので不審に思ったのだろう。開け放たれた扉の奥からそう男が声をかけてきた。そしてすぐに、ぱっと店内の灯りがともった。そしてその灯りが照らしだしたものを見て、茜はあっと声をあげた。
そこにはずらりと本が並んでいた。棚がいくつも整然と建ち並び、その中にはひしめくようにたくさんの本が詰めこまれている。
「本屋さん……。違う。古本屋さん?」
なぜそんなところに男は茜を連れてきたのか。なぜこの店の鍵を持っていたのか。いろいろと疑問はあったが、この光景を目の当たりにして、この際そんなことはどうでもよくなった。
茜は歓喜で胸が高鳴るのを押さえ切れなくなり、惹きつけられるように店内に足を踏み入れていった。