神谷、髪を切る9
「東京で有名になってくるなんて大きなことを言って家を出て行ったのに、結局はこっちに帰ってくることになったのが悔しかったんだ。親父になんて言われるか、想像しただけで耐えられなかった。それみたことか。お前なんかがそんな大層なもんになれるわけがねえなんて言われたら、また殴り合いの喧嘩をしちまう。そうなったら、母さんをまた傷つけることになっちまう。だったら帰らないほうがいいって思ってた。俺みたいなどうしようもない息子なんて、いないもんだと思っててくれてたほうが気楽だったから」
中川は目をすがめるようにしていた。自分のことをそんなふうに言うなんて、彼らしくはない。けれど、きっとそれが彼の本心なのだろう。
なにも考えていない。楽しく過ごせればそれでいい。中川の姿はそんなふうに見えていた。彼はきっとわざとそうしてきたのだ。それは、そう振る舞っているほうが楽だったから。見たくもないものと、向き合わなくても済んだから。
けれどそれは逃げだ。すべてから逃げること。なにもかも大切なものを陳腐なもので覆い隠していただけで、なにひとつ解決などしない。陳腐な覆いを取りはずしてしまえば、そこには現実が待っている。
「だけど、近くには帰ってきてくれていた。うちには寄らなくても、昔の友達のところや近所には来てたって話は聞こえてきていた。だから、いつかは帰ってきてくれるんだってわたしは思っていたんだよ」
中川の母親は、自分の両拳を膝の上でぎゅっと握り締めていた。
「お父さんだって、あんたとあんなふうになったことを本当は後悔していたんだ。意地っ張りだけど、ずっとあんたのことを心配してる」
「嘘だ。あの親父が俺のことなんか心配するわけがない」
中川が語調を強くした。彼がここまで言うのには、中川と父親との間で余程のことがあったということだ。だからこそ、これまで頑なに家に帰ろうとしなかった。結婚をしたという、人生における大事な事実さえ言わずにきたのだ。
「そうね。あんたがそう思うのも無理はなかったのかもしれない。随分とわからずやの頑固なお父さんだったから。だけど、心配をしていたのは本当だよ。信じられないかもしれないけど、お父さん、いつだったかインターネットで東京の美容室を検索していたんだ。きっとあんたのことを捜していたんだと思う。言葉では言わないけれど、本心はあんたのことが心配で堪らなかったんだよ」
母親の言葉に、中川は目を剥いた。信じられないとでもいうように。
「親父が……? 俺のことを?」
「そうよ。だから、ね。一度でいい。会ってみて。お嫁さんにも会いたいだろうし、これから生まれる孫にだって……」
中川の母親は、そう言いながらちゃぶ台のお茶に手を伸ばそうとして前傾姿勢になった。しかし、その途中で固まったようになり、結局お茶を取ることはなかった。その動作に茜がなにか違和感を覚えていると、中川がはっとしたように言った。
「母さん。もしかして……」
中川の母親は困ったような、痛みを必死に堪えているような表情で息子を見ていた。
「……腰痛が最近酷くなっちゃってね。ちょっと無理な体勢を取ったりすると、痺れるように痛むんだ。歳をとったせいか、治りも遅くて。実は今、店もしばらく閉めてるんだよ。……あの店も、もうそろそろ潮時なのかもしれないね」
「そんな……。あの店は母さんの生き甲斐じゃないかよ」
中川は苦しげな声を出した。
「まあ、うちはお父さんが外で会社員として働いてくれているからね。あの店がなくなってもなんとかやっていける。だからうちのことはいいんだよ。それよりもあんたたちのことだよ」
中川の母親は小さく肩をすぼめていた。なんだかとても小さくなったみたいに見える。
「……違う。違うだろ! 母さん。なんで怒んないんだよ! 家族を放り出して好き勝手やってきた息子だろ、俺は!」
中川は立ちあがって叫んでいた。
「俺の心配より、自分のことを心配しろよ……っ!」
その頬には涙が伝わっていた。
「光司……」
中川の母親も泣いていた。弥生も手で顔をぬぐっている。
今このとき、長い間凍り付いていたものが溶け落ちていっていた。それは、とても熱くて美しいものであることは茜にも伝わってきた。
「ごめん……。母さん。心配ばかりかけて、こんな息子で……ごめんよ……」
中川は声を詰まらせながらも、そう口にした。顔を伏せ、肩を震わせて泣く男の人の姿を、茜はその日初めて見た。




