神谷、髪を切る8
茜はその日、初めて黒猫堂古書店の母屋のほうへとあがらせてもらっていた。店のほうは今日は早めに閉めることになり、店の入り口には今は準備中の札がかけられている。
店舗部分の奥には和室があり、部屋の中にもたくさんの書物が積まれて置かれてある。その部屋の中心にちゃぶ台が置かれてあり、それを囲むように中川、その母親と弥生がそれぞれ座っていた。その場には、今は沈黙がおりている。
神谷は奥の台所でお茶の用意をしていた。茜も沈黙に耐えられず、神谷を手伝うために台所へと歩いていった。
「客用の湯呑みがどこかにあったはずなのですが……」
神谷が冷蔵庫の横にある古めかしい食器棚を開けて、湯呑みを探していた。茜も後ろからそこをのぞいてみる。
「これでしょうか。随分使っていませんから洗ったほうがいいですね」
「あ、じゃあわたしがそれ洗っておきます」
茜は神谷から人数分の湯呑みを受け取り、流しで洗い始めた。後ろの和室から漂う沈黙の澱がこちらにまでおりてくる。流し台を叩く水の音だけが、辺りに響いていた。
お茶の用意ができると、神谷が丸いお盆にそれを乗せて三人のいるちゃぶ台へと運んでいった。
「あまりいいお茶ではありませんが、よろしければどうぞ」
神谷がそう言うと、中川の母親が「ありがとう」と口にした。中川は下を見つめたままだ。弥生は軽く会釈を返していた。
神谷はお盆から湯呑みをちゃぶ台へと移し終えると、少し離れてその場に座った。茜もそれに倣うようにその横に腰をおろした。そこに座ると、中川の足元に置かれてあるビニール袋から、グレープフルーツがころりとちゃぶ台の下に転がり出ているのが見えた。
再び沈黙が辺りを包む。誰がこの沈黙を破るのだろうと緊張しながら様子を見ていると、弥生が意を決したように口を開いた。
「ごめんなさい。お義母さん。ずっと挨拶にも行かなくて」
彼女は彼女で、胸に秘めたなにかを持っているのか緊張した面持ちをしていた。
「あたしたち、いろいろと順番を間違えちゃってて、だけどやっぱり黙ったままでいるなんておかしいって話をしてて……」
「弥生。待てよ」
「だって!」
どうやら二人は、なにかを中川の母親に伝えるべきかどうかでもめているようだった。
そんな様子を見て、神谷が口を挟んだ。
「光司。お前の問題と、弥生さんたちの問題を合わせて考えるな。これはお前だけの問題ではない。弥生さんたちの、こののちの将来のいろいろなことに関わってくる」
「了輔。お前、気づいていたのか?」
「やはり、そうなんだな」
神谷はそう言って、中川を見つめた。中川はそれで観念したのか、大げさとも思えるくらいに大きなため息をついた。
「あーあ。ったく、ホントにお前はそういうとこ察しがいいというか、あなどれねーよな。いいよ。どうせいつかはばれることなんだもんな」
中川はそう言って、笑った。
「そうだ。お前はこれから親になるんだからな」
「え?」
茜は驚いて中川の顔を見た。そして、弥生のほうを見ると、彼女はお腹に手を当てていた。
「子供ができたんだ」
中川は今度こそ自分の母親に向かいあっていた。そっぽを向いたり、目を逸らしたりなどせず、真っ直ぐに。
中川の母親も茜以上に驚いていた。そして中川と弥生の顔をきょろきょろと見比べるようにしていた。
「結婚したことも報告しなくて、ごめん。いろいろと心配かけたことも」
中川は体を固く覆っていた鎧を、少しずつ脱ぎ落としていっているようだった。頑なに親と向き合うことを避けていた彼も、自分自身が親になるというひとことで、少し大人になったみたいだった。




