神谷、髪を切る7
茜が昼食を終えて黒猫堂古書店に戻ってきたときだった。店の前に見知らぬ女性が立っていた。歳の頃は五十代くらい。茜の母親くらいの年齢に見える。なにやら店の中を窓からちらちらとのぞき見しているようだが、その様子はなんだか挙動不審で怪しい。
どうしたものかと少し離れたところで様子を見ていると、女性は迷った挙げ句になにかをあきらめた様子で、そこから離れて歩き出した。茜はそれを見て、意を決してその女性に話しかけてみることにした。
「あの。すみません」
茜が横から声をかけると、女性はびくりと肩を震わせた。切れ長な目の中の瞳が微かに震えている。その目元は、どことなく誰かに似ているような気がした。
「今そこの古書店をのぞいてましたよね。なにかご用でしたか?」
茜がそう言うと、女性は一瞬躊躇したがあきらめて口を開いた。
「見られてたんですね。もしかして、あなたが最近アルバイトに入ったっていうかた?」
「はい。よくご存じですね」
「わたしもね。この商店街で店を構えているものだから、噂で聞いてたの。そう。あなたが了輔くんのところを手伝ってくださってるのね。いつもありがとう」
「え、あ。はい」
まさかこんな見知らぬ人から感謝の言葉を受けるとは夢にも思わなかったので、返答に詰まってしまった。自分のようなアルバイトが一人入ったというだけで商店街の噂になってしまうとは、この商店街には余程話題が少ないのに違いない。
「ごめんなさいね。お店の中をじろじろとのぞいたりなんかして」
「あの、よかったんですか。中は入らなくても。なにかお探しのものがあったんじゃないんですか?」
「ああ、違うんですよ。店に用があったわけではなくて、中の人に話がしたいと思っていたんです。でも、結局それもあきらめましたけどね」
中の人に用があった? それは神谷のことだろうか。この女性は神谷とどういう関係があるのだろう。しかも、なぜあきらめる必要があったのだろう。
そのときだった。黒猫堂古書店のほうから人の言い争う声が聞こえてきた。
「だから、それが余計なお世話だって言ってるんだよ!」
「そうじゃないだろう。お前は逃げてるだけだ。向き合わなきゃいけないことから!」
店内から二人の男が出てきた。神谷と、もう一人は中川だ。
「俺は、もうあの家には戻れない。戻らないって、そう宣言して出ていったんだから」
吐き捨てるような口調で中川がそう言っていた。そして、踵を返してそこから去ろうと体の向きを変えた。その彼の正面には茜たちが立っている。
「光司……!」
驚いたことに、茜と一緒にいた先程の女性がそう言って中川の元に近づいていった。女性の姿に、中川も驚愕の色を隠せないようだった。
「母さん……」
その言葉を聞いて、茜は納得した。あの女性が店をのぞいていたのは、息子である中川がいたからなのだ。息子と話がしたい。そう思っていたが、なんらかの事情でそれをあきらめようとしていたらしい。
中川の母親は息子の顔を見あげると、優しげな口調で言った。
「久しぶりね。元気だった?」
中川はたじろいで、視線を逸らすようにそっぽを向いた。
「心配してたのよ。いろいろ噂も耳にした。同棲してる彼女もいるのよね」
中川の母親がそう言うと、中川は聞きとがめた様子で言葉を返した。
「……彼女じゃない。もう入籍したんだ」
それを聞いた中川の母親は驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに言った。
「そう。そうだったの。……おめでとう」
茜はそんな二人の様子を眺めながら、そっと神谷の近くへと移動していった。状況がうまく飲み込めない。事情を知っているであろう神谷に話を訊こうと思ったのだ。
「神谷さん。あの二人って……」
「はい。親子です。会うのはたぶん、四年ぶりくらいなんじゃないでしょうか」
茜はそれを聞いて、あらためて中川親子の姿を見た。四年も会わなかった親子。なぜそうなってしまったのだろう。なぜこうして会うことをためらっていたのだろう。
中川の母親は、久しぶりに再会した息子のことを万感の思いで見つめている。しかしその息子のほうは、再び口をつぐんで母親のほうには視線を合わせようとはしていなかった。
すれ違っている。この親子はなにかがおかしい。
「俺は……」
中川はなにかを言おうとしたが、言葉は続かなかった。そして、沈黙に耐えられなくなったように。
――その場から逃げた。
「あっ、ちょっ!」
「光司!」
「待て! 光司!」
神谷がすばやい動きでそのあとを追った。茜もそれに続こうとしたが、二人の男の速度にはとても追いつけそうになかった。この場は神谷の足にかけることにして、茜は中川の母親とその場に留まることにした。
茜はこの状況のわけを、中川の母親から訊きたかった。なぜ親子がこんなふうにすれ違っているのか。子が親を遠ざけている、そのわけを。
「あの……」
それだけを言って、その後の問いを口にすることはできなかった。なぜなら、中川の母親は両手に顔をうずめて泣いていたからだ。
茜は少しだけ迷って、そっと中川の母親の背に手をやった。
震えていた。それはこの人の心の震えだ。我が子に拒絶される。それは、どれほどつらいことなのだろう。どんなに哀しいことだろう。
茜は中川の母親の背をさすり続けた。そうすることしかできない自分がもどかしくて、切なかった。
「この馬鹿! いい加減、大人になりなさいよ!」
しばらくして、そんな声が中川たちが走っていった商店街の通りの向こうのほうから聞こえてきた。茜はその声をどこかで聞いたことがあった。
そちらのほうを振り向くと、向こうのほうから三人の人影が歩いてきていた。一人は神谷、一人は中川、そしてもう一人は中川の奥さんである弥生という女性だった。




