神谷、髪を切る5
予感は当たっていた。翌週黒猫堂に行ってみると、店のレジカウンター内には変わらず長い髪のままの神谷がいた。そこに近づいていって、茜はいつものように挨拶をした。
「おはようございます」
「おはようございます。松坂さん」
「やっぱりまた休みだったんですね。美容室」
「ええ。違うところに行こうかとも思いましたが、やはり僕としては馴染みのあるところのが安心しますので、結局また切りそびれてしまいました」
神谷はそう言って笑おうとしたが、それはうまくいかなかった。そしてそれを隠すように、違うほうを向いてしまった。
茜は神谷のその態度に違和感を覚えたが、それ以上声をかけるのもためらわれ、少しの間立ち尽くしていた。それからあることを思い出して、気持ち明るめに声を出した。
「そうそう。神谷さんに提案があるんですけど」
茜がそう言うと、神谷は振り向いた。その表情はもういつものそれで、普段と変わりないように見えた。
「提案? なんですか」
「あの。このお店って、制服ないじゃないですか」
「ええ。特にはそのようなものはうちにはありませんが」
神谷は茜がなにを言い出したのかよくわからないというように、小首を傾げて見せた。
「だからわたし、作ってきたんです。制服」
神谷がぽかんとしているのも気にせず、茜は持ってきたトートバッグの中からそれを取りだした。
「じゃーん。どうですか。こういうの」
茜が広げて見せたのは、真新しいエプロンだった。深緑の生地に、左胸の部分に赤い首輪をした小さな黒猫のアップリケがついている。
「ほら。他の商店街の人ってよくエプロンしてるじゃないですか。この店にもあればいいのにと思ってたんです。そう思ったら勢いがついちゃって、先週商店街にある手芸屋さんに寄ったんですよ。そしたら割といい生地もあったので、勝手に作っちゃいました。夜なべして」
神谷はびっくりしたのか、先程から口を開けたままだ。
「一応二枚作ってきたんですけど、どうですか? こういうのつけるの抵抗ありますか?」
神谷はようやく口を閉じて、うんうんというふうに頷いた。
「驚きました。制服なんて、そんなこと考えたこともありませんでした。しかし言われてみれば、他のお店ではそれぞれ独自のエプロンなんかをつけていますよね。ちょっとよく見せてもらってもいいですか?」
神谷はそう言って、茜から一枚エプロンを受け取った。
「へー。すごいですね。これを松坂さんが作られたんですか?」
「はい。一応。そんなに上手でもないんですけど」
「このアップリケももしかして自分で?」
「あ、はい。ミケをイメージしてデザインしてみたんですけど、変ですか?」
「いえ。変じゃないですよ! すごくいいです。なんだか尊敬します」
「尊敬ってまた大げさな……」
茜はなんだか照れくさくなって視線を下に向けた。もしかして迷惑に思われるのではないかと心配していただけに、こんなに喜ばれるとは逆に恐縮してしまう。けれど、やはり嬉しい。顔がにやけてしまいそうだ。
「さっそくつけてみてもいいですか?」
「もちろんです。じゃあ、わたしもつけますね」
そうして二人でエプロンを装着してみた。それだけでなんとなく古書店員の風格が漂ってくるから不思議なものだ。
「へえ。なかなかいいですね。気に入りました。松坂さんもよく似合ってますよ」
神谷はさらりとそんなことを口にする。
「あ、ありがとうございます」
「では、今日から制服をつけて仕事をすることにしましょう」
茜はこんなにすんなり自分の作ったエプロンが採用され、少しだけ戸惑った。勢い余って勝手にエプロンを手作りしてしまったことを、作ったあとで少し後悔していたのだ。けれど、一瞬も渋る様子さえ見せず受け入れてもらえたことに、すごくほっとした。そして作ってよかったと心から思ったのだった。
茜はここでバイトを始めた最初のころの自分と、今の自分とが少し違ってきていることを自覚していた。茜はそれまで、あることがきっかけで人とあまり深くつきあわないようにしてきた。神谷に対しても単なる雇い主と従業員という関係だと割り切ってつきあうつもりでいた。
なぜなら、そのほうが楽だと思っていたからだ。他人と深くつきあえばつきあうだけ、それを失ったときの痛手は大きくなる。傷つかないためには、そうしていたほうがいいのだと、そう思っていた。
けれど、ここでアルバイトを始めてから、自分の考えが違っているのではないかと疑いを持つようになった。少なくともこの神谷という人物に関しては、最初の印象とはまるで違う人物であることがはっきりとわかった。
それはやはり、あの露木少年の一件が大きく関与していた。あの露木少年への対応は、常識で考えればありえない対応だったのかもしれない。けれど、茜はあの神谷の対応に胸を打たれたのだ。
だからこそ、茜はこんなことまでしてしまった。たった三ヶ月という契約だけれど、それまではきちんとこの仕事に向き合おうと思ったのだ。
茜は真新しいエプロンで心を引き締めて、やるべき仕事に取りかかった。




