黒猫と古書店2
「さば味噌定食。あと、だし巻き卵もつけてください」
男が定食屋の女将にそう注文するのを聞いて、茜はおいしそうだなとつい思ってしまった。
男は頼んだ食事がテーブルに並べられると、それをものすごい勢いで食べ始めた。
お昼と夕食どきの合間の時間ということもあってか、店内は他に客の姿はなかった。見知らぬ男性と一緒に食事の席にいるということを、他の誰かに見られなくて済んだことに、茜としては少しだけほっとしていた。
男が食事をすべて綺麗に平らげるまで、それほどの時間はかからなかった。その食べっぷりに、茜は思わず感心してしまったくらいである。
途中、男がだし巻きを勧めてきたが遠慮しておいた。
「ごちそうさまでした」
男は食事を終えると、そう言って手を合わせた。がさつなのか礼儀正しいのかよくわからない人だ。
「よほどお腹が減ってたんですね……」
「そのようですね。なにしろ僕は、本を読み出すと寝食を忘れてしまうところがあるので」
今のは笑うべきところなのだろうか。しかし茜は困惑の表情を浮かべることしかできなかった。
「それで、その本のことをお話しようと思うんですが」
「ええ。約束でしたからね。聞きましょう」
今度こそちゃんと聞いてくれるようだ。なんとか説得して本を譲ってもらわなければ。
問題の本は、先程からずっとテーブルの上に置いてあった。茜が手を伸ばせば手の内に入れることもできる。奪って逃げることも一瞬頭に浮かんだが、まさかそんなことができるはずもない。目の前に探し求めていたあの本があるというのに手が出せないというもどかしさに、茜は喉の奥がかゆくなったように感じた。
「あのですね。先程もお話しましたけど、もともとその本はわたしのものだったんです。ある人からいただいた大事なものでした。絶対になくしたりしてはいけない、わたしにとってはそれほどの意味を持つ本なのです」
「それなのに、うっかり古本屋に出してしまったと」
揚げ足を取るつもりなのだろうか。しかしそれくらいで挫けるわけにはいかない。
「ええ。ですけれど、それは本当にちょっとした手違いで。売るつもりなんてなかったんです。わたしにとってその本は宝物のようなものですから」
男は黙って茜の目を見つめてきた。嘘を言っていないか探っているのだろう。
「その、譲ってもらったある人というのは誰なんですか?」
「高校時代の先輩です」
茜がそう言うと、男は得心がいったように軽く頷いて見せた。
「なるほど。そういうことですか」
「そういうこと、というと?」
「つまり、あなたはその先輩のことが好きだった。もしくは今でも好き、ということなのでしょう。その思い出の品として、この本を手元に置いておきたいと」
「ち、違います!」
茜は思わず声を荒げてしまった。しかし、発した言葉は真実ではなかった。実を言うと、半分はその通りなのだ。大好きな先輩の愛読書だった本。その本は茜が高校時代、卒業する先輩から受け取った本だった。
しかし、この男が発した好きという言葉は、自分の気持ちとはなんとなく違うような気がした。だからつい否定してしまった。きっとわかるわけがないのだ。こんな見ず知らずの奇妙な男に自分の気持ちなど。
「……すみません。正確にはまったく違うわけではないんですけど」
「そうですか。あまり触れないほうがいい話題のようですね」
男はそう言うと、目の前にあったグラスの水に口をつけた。
「先輩からもらったその本をなくしてしまって、ずっとわたしは途方にくれてたんです。それが今目の前にある。これは運命だと思うんです。この本はわたしの元に帰ってくることを望んでいる。わたしの手に戻りたいと言っている。そう思うんです」
茜は熱意を込めてそう言った。たかが一冊の本に言い過ぎに聞こえたかもしれないが、そこまで言わなければわかってもらえない。この切実な思いを理解してはもらえないと思った。
「……なるほど。あなたのお気持ちはよくわかりました。随分この本に思い入れがおありのようですね。その先輩とやらとあなたとのご関係はよくわかりませんが、ここで再びあなたとこの本がめぐり会ったことも、運命的な力を感じます」
「え……、じゃあ」
これは、譲ってくれる気になってくれたということでいいのだろうか。それならば、恥を承知であそこまで熱意を語った甲斐があったというものだ。
「ええ。譲ることを考えてもいいです」
「ほ、本当ですか! ありがとうございますっ」
さっそく目の前の本に手を伸ばそうとしたそのとき、さっとそれはテーブルの上から姿を消した。
「え?」
男はすばやくその本を背中に隠し、茜の視界に映らないようにしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんなんですか。たった今、わたしにその本を譲るとあなた言いましたよね。なのになんで隠すんですかっ」
「譲ることを考えてもいいと言ったんです。まだ譲ると決めたわけではない」
「え?」
茜は混乱した。まだ譲ると決めたわけではない? どういうことだろう。茜が不思議に思って男の顔を眺めていると、男はこう答えた。
「ですから、その考える時間が欲しいのです。そうですね。もし時間が許すのであれば、もう少し僕におつきあい願えますか?」
どういう意味だろう。茜がその本にこだわる理由に納得がいかなかったのだろうか。長い前髪の間からのぞく男の目は真剣だった。ふざけているわけではなさそうだ。
茜は少しの間考えてから、静かに頷いた。
「そうですか。それはよかった」
男はなぜかそんなことを言って、微笑んだ。