神谷、髪を切る1
「神谷さん。そろそろ髪の毛切ってきたらどうですか?」
テーブルを拭くためにレジカウンターの前に立った松坂茜は、思い切ってそう言ってみた。
黒猫堂古書店には現在、神谷と茜とミケしかいない。ずっと気になっていたそのひとことをようやく口にすることができたことに、茜はすっと胸のつかえがとれたような気持ちになった。
「ああ。そういえば、かなり伸びてしまいましたね」
神谷はそう言って、長い前髪のひと房をつまんだ。カウンターの中で売る本に値札をつけていたところだったので、そのつまんだ前髪のところに値札のシールがくっついてしまっている。
「松坂さんに言われるまで全然気にしていませんでした。やっぱり切りに行ったほうがいいですか?」
「それは切ったほうがいいに決まってます」
というか、なぜ言われるまで気にしないのか。
神谷という人物は、古書の知識や扱いに関してはくわしくて頼りになるのだが、どうにも自分の身なりに関しては無頓着なようで、髪の毛のことはもちろん、服装にしてもまるで気を遣う様子はない。あまりお洒落には興味はないようだ。今日の服装も着古したTシャツにデニムのパンツという格好だ。しかも、もうすでに何回か見たことのある服である。まあ、古書店で働いているだけなのだからお洒落をする必要もないのだけれど、せめて鬱陶しそうな前髪くらいは切ってもらいたいと茜は思っていた。
神谷は前髪にくっついたシールがなかなか取れないようで、先程から苦戦している。神谷の膝の上にいたミケは、ちらりとそんな主人の顔を見たが、特に気にすることなく再びそこで丸くなった。
茜が黒猫堂に来るようになって三週間が過ぎていた。仕事内容にもだいぶ慣れてきたのだが、神谷という男に関してはいまだに謎なところが多かった。一人でこの店舗兼住宅に住んでいるようだが、いつからそういう暮らしをしているのか、家族はいないのか、そういう話を一切しないのでよくわからない。とりあえずわかるのは、風変わりな古書店の店主ということだけだ。
茜の出勤日には、神谷は決まってどこかへでかけていく。出張買い取りやいろいろな用事を済ませているのだろう。しかしそういうときには必ずといっていいほど、肩から大きなショルダーバッグを提げていく。そこになにを入れているのかはわからない。しかし、特に訊ねるほどのことでもないので茜はそれを横目で見るだけである。その日も、そのお決まりの格好で神谷はどこかへとでかけていた。先程帰ってきて、値札貼りを始めたところだったのだ。
しかし茜が店にバイトに来るようになって店はちゃんと機能するようにはなったようで、最初に来たときのように臨時で店を閉めたりすることも少なくなったようだ。それに店の本も新たなものに入れ替えをしたようで、以前にはなかった本も棚に増えた。
店のほうが充実してくると、従業員のほうにも気がいってしまうのは茜の悪い癖だった。けれど、やはり気になるものは気になる。一応古書店員という職業も、接客業になるのだ。お客さんに好印象を与えるためには、最低限の身だしなみは整えなければいけない。
「商店街にも一軒美容室がありますよね。かなり古めかしい感じですけど」
さすがにおしゃれな今どきの美容室に行けとまでは言わない。どこでもいいから髪の毛を切ってきてくれれば、茜としては満足だった。
「美容室ユキですね」
「もしかして、理髪店みたいなとこじゃないと嫌だとかいうタイプですか?」
男の人は、美容室に抵抗のある人が多いという話はよく耳にする。神谷もお洒落には興味がなさそうなので、そうなのかもしれないと思い茜はそう訊いてみた。
「いえ、特にそういうこだわりはありません」
「じゃあ、いつもはどこで髪を切っているんですか?」
「その美容室ユキですよ」
「え、じゃあ行ってこればいいじゃないですか。すぐ近いんですから」
「そうですね。ここ最近忙しかったこともあって、すっかり忘れていました。今度の定休日にでも行ってくることにしますよ」
「いえ。定休日と言わず、今日にでも行ってきてください。午後はわたしが店番してますから」
定休日まで待っていたら、また忘れられてしまいそうだ。その気になってくれたのなら、今すぐにでも行ってきてもらいたい。
「そうですか。それじゃあ、さっそく午後いちにでも行ってみることにしますよ」
と神谷が前髪にくっついたシールをようやく取ったところで、ドアベルの音が盛大に店内に鳴り響いた。




