黒猫堂、万引きに遭う13
露木少年が黒猫堂に再び姿を見せたのは、その翌日の夕方のことだった。
茜は神谷に、昨夜の露木少年とその父親とのやりとりをおおまかに聞いていた。昨夜は茜も立ち会いたいと申し出たが、神谷に止められていたのだ。父親の帰宅時間は遅くなるという話だったし、暗くなってからの女性の一人歩きは危険だと言われ、帰るよう言われたのだった。
神谷の今朝の話だと、斉藤スポーツの店主は神谷の申し出通り、警察や学校へ通報することは今回だけという条件で控えてくれたそうだ。黒猫堂で話した少年の会話の内容をかいつまんで説明したところ、斉藤スポーツの店主も少年に同情を寄せてくれたらしい。
親御さんへの連絡は斉藤スポーツの店主がし、最初は同居しているという少年の祖母が電話に出て自分が迎えに行くという話をしていたそうだが、少年が父親が迎えに来ることを強く希望しているということを話すと、了承してくれた。そして、それからしばらくの時間が過ぎてから、露木少年の父親が斉藤スポーツを訪れた。
露木少年の父親は最初かなり不機嫌で、人前であることをはばかることもなく、少年をその場で怒鳴りつけたらしい。もう少しで手が出るという寸前で、神谷と斉藤スポーツの店主とが父親を制し、その場はおさまったのだという。
「露木くんは泣きそうな顔をしていましたが、気丈に堪えていました」
少年が詰まりながらも父親に言いたかったことを伝えると、父親は少し驚いた表情をしていたという。少しは落ち着きを取り戻したらしい父親は、少年に頭をさげさせ、自らも深々と頭をさげて帰っていったそうだ。
「少年の言葉に、彼の父親も感じるところがあったように見えました。少しずつでいいから、それが良い方向に向いていってくれるといいのですが」
神谷は長い前髪の向こうにある目を細めて、そんなことを言っていた。
そんな話を聞いて、茜はバイトの間中、露木少年のことで頭がいっぱいだった。彼のことが心配で堪らなかったのだ。そして、そんなことを考えていたところに当の本人が現れたので、茜はとても驚いたのだった。
「露木くん。来てくれたんだ」
茜がカウンターからそう声をかけると、露木少年は少しばつが悪そうな表情をしながらもこちらに近づいてきた。
「昨日、あの兄ちゃんがいつでもいいから店に来てほしいって言ってたから」
「神谷さんが?」
「なんか、渡したいものがあるとかって」
その神谷は今郵便局へと出かけている。その用件は茜は聞いていない。
「今ちょっと出かけてるけど、すぐに帰ってくるはずだから少し待っててくれる? わたしじゃなんのことかわからないから」
「うん」
少年は素直にそう返事をした。そして店内の棚を眺め始めた。さすがにもう万引きはしないだろうとは思いながらも、茜は少しだけ警戒しながらそんな様子を見つめていた。
そのうちに店の扉が開き、神谷が帰ってきた。
「あ、神谷さん。お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
「露木くん、来てますよ。そっちの棚の向こう側に」
茜の言葉を聞いて、神谷は露木少年のいるコミックの並ぶ棚のほうをのぞいた。茜もそちらの様子をカウンターから体を伸ばしてのぞき込んでみた。
「露木くん。来てくれたんですね」
神谷の声かけに、露木少年は立ち読みしていた漫画本から慌てて顔をあげた。そして、神谷に会釈をした。さらにその横顔は、茜の見間違いでなければ笑っているようにも見える。茜は少年のその態度に少しばかり驚いた。さすがに露木少年も、神谷に対しては悪いという気持ちが芽生えたのだろう。しかし、あんなふうに笑顔を見せるほど親しくなっているとは意外だった。
「さっそく来てくださって嬉しいです。渡したいと思っていたものを持ってきますので、ちょっとそこで待っていてください」
神谷はそう言うと、茜のいるカウンターのほうへと近づき、その奥の母屋のほうに入っていった。
神谷の言う渡したいものがなんなのかわからなかった茜は、露木少年に視線を向けたが、彼もそれがなんなのかはわかっていないようで、きょとんとした顔をしていた。
やがて、しばらくしてから神谷が母屋から戻ってきた。
「すみません。お待たせしました」
神谷の手には白い紙袋が提げられていた。中になにかが入っているようだ。
「どうぞ。持っていってください」
神谷はカウンターの外側で立ち尽くしていた少年にそれを差し出した。少年が不思議そうな表情でそれを受け取ると、神谷は満足そうに頷いていた。
少年はそっとその紙袋の中身をのぞいた。すると、その表情はみるみるうちに歓喜のそれに変わっていった。
「え? まじで? いいの?」
「はい」
神谷も少年の嬉しそうな表情を見て、笑顔になった。
「また返しに来てくだされば、続きを貸して差しあげますよ」
少年はそれに満面の笑みで答えた。
「ありがとう!」
露木少年は、嬉しそうに手を振ってから店を出て行った。店から少年が出ていったあとで、茜は訊ねた。
「神谷さん。いったい彼になにを渡したんですか?」
それに対する神谷の答えに、茜は驚いた。
「この前露木くんが万引きして、そのあと返してくれた漫画の続きです」
「ええ? なんでそんなものを!」
神谷の行為は、茜には理解不能なものだった。あの少年はこの店にとっては万引きの加害者だ。そんな人物にそんなことをするなんて、お人よしにもほどがある。
「持っていった巻は、かなりいいところで終わっています。きっと続きが読みたくて仕方がないに違いありませんから。あれは僕個人の蔵書ですし、特に貸すことには支障はありません」
「でもそれにしたって、神谷さんが貸すことはないんじゃないんですか。だって、この店はあの子に万引きをされたんですよ? もしかしたら、あの本も返さないかもしれないじゃないですか」
茜がそう言うと、神谷は前髪を掻きあげて苦笑した。綺麗な目元が急に現れ、茜はどきりとした。
「もしそうなら、僕の見込み違いだったということです」
「……見込み違い?」
「彼はあの日、本を返しにここにやってきました。万引きをしていたことを見られていたとはいえ、あの当時、証拠はありませんでした。あったのは、唯一あなたの目撃証言だけです。彼はそんなのは嘘だ。違うと言い張ることもできたはずです。しかしそうはしなかった。それに、あのとき松坂さんとの約束を破っていれば、彼の本来の目的である父親への通報はされていたはずです。それを蹴ってまで本を返しにきてくれた。彼の良心がそれを許さなかったのでしょう。父親への当てつけよりも、万引きの罪悪感のほうが勝っていた。それは、彼が自分の欲望を制することができたということです。自らの悪事を省みることができたということです」
けれど、一度は制することのできた感情が再び蘇ってしまった。それほどまでに、少年の心は追いつめられていたのだ。
「だから神谷さんは、昨日あんなに必死に露木くんを捕まえたんですね。彼の心の叫びを聴くために。彼の心を救うために」
「ええ。誰かが止めて、その心の声を聴いてあげなければいけなかったんです。そうしなければ、露木くんは再び同じ過ちを繰り返してしまう。それを自らの力で止めることができなくなってしまう。本当は、最初からそれをするべきだった。この店に彼が本を返しにきたときに」
ああ、そうか。茜はすとんと胸がすくような感覚を味わった。
あの行為は、神谷なりのお詫びのつもりなのだろう。再び万引きへと少年を走らせてしまったことに対しての。そして、それはまた少年に対する信頼の証でもあるのだ。
先程神谷と少年との間には、確かに親愛の情のようなものが生まれていたように思えた。神谷と少年の間には、なにか通じるものがあったのかもしれない。
「それに、こんなことでもしなければ、あの子はもう二度とこの店の敷居をまたぐことはないかもしれません。それは一人のお客をなくすということでもある」
茜はあらためて神谷のほうを見た。こんなことを思うのは余計なお世話かもしれない。もしかしたら買い被っているだけかもしれない。けれど、茜はそのときこう思った。
――この人は店主の鑑だ、と。




