黒猫堂、万引きに遭う12
「きっかけは運動会だったんだ」
少年は店内を見回しながら、そう言った。ひとしきり泣いて落ち着いた少年は、カウンターの奥の椅子に座らされていた。そんな少年に、神谷が母屋からピーチネクターという缶ジュースを持ってきて手渡していた。
「運動会?」
確かにあの日の前日は、文月小学校では運動会が開かれていたと、前川から聞いていた。しかし、運動会と万引きとなにがどう繋がるというのだろう。茜の頭は疑問符でいっぱいになっていた。
「運動会で、俺リレーのアンカーに選ばれてたんだ。俺んち父子家庭でさ。父ちゃんは毎日のように忙しく働いてて、ほとんど家にいないんだ。でもその日は絶対に応援に来てくれるって言ってたんだ。絶対に来て欲しかったから固く約束してたんだよ。だけど、結局父ちゃんは来なかった。急な仕事が入ったんだってさ。来たのは祖母ちゃんだけ。おかげでリレーだって最後まで粘れなくてぼろぼろだった」
少年は手の中の缶ジュースをぐっと握り締めていた。眉間にも皺を寄せている。この少年にとっては哀しい記憶なのだろう。
「だから次の日、むしゃくしゃしててさ。ふらっと寄ったこの店で、読みたかった漫画の続きがあったから、手に取った。そのときに思ったんだ。万引きでもすれば父ちゃんを困らせることができるかもって。そんで、気がついたら本持って逃げてた。でも結局、時間稼ぎに棚の他の本も散らかしたおかげで捕まることはなくて、家に帰ってから一人で怖くなってた」
「確かにリレーのアンカーを任されていただけのことはある逃げ足でした」
神谷が、そんな的を射ているのかはずれているのかよくわからないことを言った。
しかしなるほど、ようは衝動的に万引きをやってしまったということだ。
「父ちゃんはきっと俺のことになんて興味ないんだよ。この前の野球の試合だって、口約束ばかりで結局来てくれなかった。そして今日も。だから、本当は万引きなんてしたくなかったけど、またやっちゃったんだ。今度こそ通報される。そうすれば父ちゃんだって、俺のことをもう少し考えてくれるって」
父親の気を引くため。そのために万引きをするなんて馬鹿げている。そうは思ったが、少年のその切実な思いはわからなくもないような気がした。
古書店のカウンター内が物珍しいのか、少年は目をキョロキョロと動かしている。そんな少年の様子は、年相応の純朴そうな子に見えた。ちょっと生意気で口も悪いところもあるけれど、きっと根は真っ直ぐないい子なのだ。
「きみ、こういうことしたのこの店が初めてだって言ってたよね?」
「うん」
「万引きが悪いことだってことは、ちゃんとわかってるんだよね」
「うん」
少年はピーチネクターの缶を手でもてあそんでいた。茜が質問をするたびに、視線は下へとさがっていく。
「だったらそんな回りくどいことなんかしないで、ちゃんとお父さんと話し合いなさい。言いたいことがあるなら、ちゃんと正面からぶつけなきゃ」
少年はピーチネクターの缶をもてあそぶ手を止めた。それから少し間をおいてから、彼は口を開いた。
「……簡単に言うなよ」
少年はつぶやくようにそう言った。そして、次の瞬間突然感情がはじけた。
「あんたになにがわかるんだよ! 俺んちのことなんか、なんにも知らないくせに!」
茜はそのとき、自分が浅はかで愚かなことを言ってしまったことに気がついた。
逆なのだ。正面から話し合うことができなかったから、少年はこんなことをしてしまった。それなのに、さもわかったかのような善人面でそれを言ってしまった。この子は馬鹿じゃない。わかっているのだ。わかっていて、それでもやってしまった彼の孤独を、なぜ自分は汲み取ることができなかったのか。
「……あ……ごめ、ん」
茜のその言葉はきっと少年には届いていない。上滑りしただけの言葉が虚しく辺りに響いていた。
「松坂さん。気にする必要はないですよ。彼も感情が昂ぶってしまっているだけですから。ただ、今は少し黙っていてください」
神谷は穏やかにそう言ったが、やはり茜にはショックだった。
「露木くん。話してくれてありがとう。万引きという行為を選んだことはあまり褒められたことではないが、きみのSOSは確かに届きました。少なくとも僕と彼女には。このあと、斉藤スポーツさんのところに行って事情を説明するつもりです。できるだけことを大きくしないほうが、きみのためでもあると思います。警察や学校にはこのことを黙っておいてもらえるように僕のほうから説得してみるつもりです。ただし、親御さんにだけは連絡をしてもらうことにしましょう。それはきみの望みでもあるはずだから」
少年は唇を噛み締めながら、じっと神谷の話を聞いていた。神谷は少年に言い聞かせるようにさらに話を続ける。
「けれど、お父さんと話をするのはきみの役目です。きみが苦しんでいること、お父さんとの関係で改善したいと望んでいること。それをちゃんときみ自身がきみの言葉で話すんです。心細いようなら、僕が立ち会ってあげてもいい。……それで、いいですか?」
神谷のその言葉に、露木少年は俯けていた顔をあげた。そして、こくりと頷いた。その目には、驚きと感謝の色が浮かんでいた。




