黒猫堂、万引きに遭う10
その心配が当たったのは、その一週間後のことだった。茜が黒猫堂のバイトの昼休みに、商店街の中にある喫茶店でランチをして店を出たときだった。
「泥棒ー!」
通りの西のほうからそんな声が聞こえてきた。ぱっとそちらに視線を向けると、小柄な人影がこちらに走ってくるのが見えた。そしてすぐに茜の目の前をその人影が通り過ぎた。
その姿を見た瞬間、反射的に体が動いた。
目の前を横切ったのは、あの野球帽だ。一瞬しか見えなかったが、きっとあの少年に違いない。
「待ちなさい!」
少年との距離は、すぐには縮まらなかった。しかし離されることもない。なんとか追いつかなくては。
茜は懸命に走った。子供とはいえ、少年の足は相当速い。茜も足には割と自信があったが、なかなか追いつくことができなかった。
少年の頭の向こうに、東側の商店街のアーチが見えてきた。商店街がもうすぐ終わる。そこから先は、交通量の多い県道に繋がっている。
「そっち危ないから! 止まって!」
茜は危険を感じ、息苦しいのを堪えながらそう叫んだ。すると、急に少年の足がもつれたようになり、茜は少年の間近まで距離を詰めることができた。
手を伸ばす。まだ届かない。もう商店街は終わる。
(追いつけない! この子なんて足が速いんだろう)
もう息が苦しくなってきた。これ以上は体力が持ちそうにない。
アーチまでもう数メートルしかない。
「止まってぇぇーーーっっっ!」
茜がそう叫んだ次の瞬間、誰かが後ろから走ってきて、茜をものすごい勢いで追い抜いていった。そしてあっという間に少年に追いつき、その背に飛びかかった。
パパーーーッ。
車のクラクションの音が辺りに響いた。少年とその人の前を、車がものすごい勢いで通りすぎていく。二人はそのまま、もつれ合うように地面に倒れ込んだ。
茜は息を切らせながら、その二人に近づいた。
「もう、だから危ないって言ったでしょう!」
茜がそう言って少年の顔をのぞき込むと、やはりあの少年に間違いなかった。しかしそれ以上に驚いたのは、少年の上に覆い被さっていた人物が、神谷だったことだ。
「えっ、神谷さん? なにしてるんですか!」
言ったあとで間抜けな質問だと茜は思ったが、出してしまった台詞を引っ込めることはできなかった。
「見ての通りですよ。久しぶりに全速力で走りました」
神谷は肩で息をしながら少年から身を退けた。しかしその手は少年の腕をしっかりと掴んだままだ。後ろからもばたばたと何人かの人たちが追いついてきた。
「兄ちゃん。よく追いついたね!」
「最後飛びかかっていくところなんて、かっこよかったよ!」
商店街の人たちなのだろうか。神谷に向かって拍手までしている。しかし神谷はどう反応していいのかわからないのか、ぽりぽりと頭を指で掻いていた。
「……もう逃げないから、離してよ」
少年がかすれた声でそう言った。観念したのか悄然と俯いている。神谷は少年の腕から手を離し、立ちあがった。少年も身を起こし、ゆっくりと立ちあがる。
「ねえ。きみどうしてまた……」
茜がそう言いかけたときに、後方から男の人の声が被さってきた。
「了輔くん。ありがとう! 万引き犯捕まえてくれたんだって?」
「斎藤さん」
神谷の視線の先を見ると、斉藤スポーツと書かれた黄色いエプロンをつけた中年の男性がこちらに近づいてくるところだった。どうやらこの斉藤スポーツという店で、少年はなにかを万引きしたらしい。
「おーい斉藤さん。これ、そこに落ちてたよ」
と、もう一人年配の男性がこちらに近づいてきた。手には野球の硬球が握られている。
「ああ。これは申し訳ない。逃げる途中で捨てたか落としたんだな」
どうやらそれが万引きをされたものだったらしい。
「ったく、やってくれたな坊主。それじゃ了輔くん。その子のことはあとはこっちで引き受けるから」
斉藤はそう言って少年の手を取ろうとした。
茜がそれを制止しようとするのよりも一瞬早く、神谷が斉藤の前に立ちふさがった。
「斉藤さん。この子の処遇はどうなさるおつもりですか」
「え? そりゃあ学校と親に連絡して、場合によっちゃ、警察に通報するつもりだけど」
斉藤は当然といった様子でそう言った。
「あの、すみません。ものすごく差し出がましいお願いかと思いますけど、その前に彼とお話をさせてもらっても構わないでしょうか?」
神谷のその言葉に、斉藤は眉を寄せた。
「どういうことだい? もしかしてこの子知り合い?」
「ええ。以前に少しありまして……」
「あっ。さては黒猫堂さんとこもやられたとか?」
「いえ。そういうことではないんです。ただ、事情がありまして」
神谷は平然とそう嘘をついた。茜は神谷の考えがわからず、その顔を見つめてみた。しかし、その表情からはなにも読み取ることはできなかった。
「ふうん。まあ、了輔くんがそこまで言うなら少しだけきみのところに預けるよ。だけど話が終わったらこっちに引き渡してもらうよ。こちらとしても商売だからね。こういうことはきちんとしておかなければいけないから」
「はい。ありがとうございます」
辺りに集まっていた人々は、とりあえず事件が解決したのを見て安心したのか、波がひくようにそこから離れていった。斉藤も神谷に「じゃあ、あとで頼むよ」と声をかけて自分の店へと戻っていった。
残された茜たちは少しの間その場に佇んでいたが、しばらくして神谷が少年についてくるよう声をかけた。そして先程走ってきた商店街の道を戻り始めた。少年はためらいながらもそれに素直に従っていた。茜も状況を飲み込めないままに、そのあとをついていった。




