黒猫堂、万引きに遭う9
少年が店にやってきたのは夕方近くになってからだった。茜は待っている時間、店内の本を物色することに夢中になっていたが、さすがに時計の針が四時を過ぎた辺りから不安になってきた。もしや来ないつもりなのではという思いが脳裏を掠め始めたそのとき、ようやく少年が姿を現した。
少年は扉を恐る恐るといった様子で開けると、警戒するように周囲を見回してから店内に入ってきた。その手には紙袋が提げられている。その中に盗んだ本を入れてあるのだろう。
「ちゃんと来てくれたね」
茜が少年に近づいてそう言うと、少年は憮然としながらも頷いた。
「あんな脅しされちゃ、仕方ないだろ」
「脅しなんて人聞きが悪い。取引と言ってもらいたいわね」
「一緒だろ。このクソババア」
「クソバ……」
(なんて口の悪いガキなの……っ!)
茜は急上昇する血圧を押さえるのに、恐ろしく苦労しなければならなかった。
「きみの顔は覚えました。名前も調べればすぐに判明するでしょう。これ以上ことを大きくしたくなければ、そういう口の聞き方は謹んでおいたほうがいいと思いますよ」
神谷はカウンターから出てきて、無感情な声でそう言った。意外に迫力があって怖い。少年は臆したのか、ふてぶてしい態度をあらためて、素直に謝った。
「……ごめんなさい。これ、返しにきました」
少年は神谷に紙袋を突き出した。神谷が中に入っていた本を取り出すと、彼の言っていたずばりの本が出てきた。そのことに茜は感嘆した。
「はい。確かに。値札のラベルもうちのもので間違いありません」
「ちゃんと返したんだから、これで許してもらえるんだろ。他の人とかにちくったりとかしないよな?」
少年は上目遣いになって神谷を見据えている。強がっているが、やはり不安を隠しきれない様子だ。
「ええ。そう約束されたんですよね。松坂さんと」
茜はその辺りのことも神谷にくわしく説明しておいた。勝手にそんな約束をしたことを怒られるかと思っていたが、神谷は特になにも言わなかった。
「けれど、これだけは言わせてもらいます」
神谷の冷ややかな声音には、怒りの感情が含まれていることが伝わってきた。
「万引きは犯罪です。本来なら然るべきところに行って然るべき対応をするべきなのでしょうが、今回だけは目を瞑ることにします。けれど、覚えていてください。あなたの行為は決して許されることではない。二度と繰り返さないと誓ってください」
少年は気圧されたように、小さく肩をすぼめていた。そして小さな声で言った。
「ごめんなさい。……もうしません」
「きみ、こういうことしたのは初めてですか?」
少年はそれにこくりと頷く。
「そうか。じゃあ、これを最初で最後ということにできますよね?」
神谷の言葉に再び少年は頷いた。少年の態度は反省しているように見える。
「でも、どうして万引きなんてしたの?」
茜はずっと気になっていたことを訊いてみた。常習犯でないのなら、なぜそんなことをしたのか。お金がなかったのだろうか。しかし少年の口から出てきた言葉は、茜の思惑とは少々違ったものだった。
「……別に。ただ、なんとなくだよ」
なんとなく。これは、今どきの子供の感覚というやつなのだろうか。スリルとかゲーム感覚で万引きをしてしまう。そこに犯罪という意識はない。
けれど、目の前の少年の様子はそれとも少し違うような感じもする。一応こうして商品を返しにきて謝ったのだ。ゲーム感覚で万引きをするようなそんな子ならば、こんなふうに返しになど来ないのではないか。なんとなくと言ったその言葉の裏には、もっと切実ななにかが隠されているような気がしてならなかった。
「一応きみの名前と住所、連絡先を教えてもらえますか? この件については約束ですから特に親御さんにお話はしませんが、形式ですからお願いします」
神谷はそう言って、カウンターからノートを取り出した。その上に黒色のボールペンを乗せて用意する。少年は少し躊躇する様子を見せたが、素直にそれに従った。ノートには露木将太という名前が綴られていた。
「じゃあ、もう行っていいよな」
ノートを書き終えると、少年はそう言って店を出て行った。茜はその後ろ姿を複雑な思いで見送った。
このまま帰してもよかったのだろうか。これですべてが解決したことになるのだろうか。
「心配ですね」
茜の心を代弁するように、神谷がそうつぶやいた。
「神谷さんもそう思いました?」
「ええ」
神谷はそう言っただけで、もうなにも言わなかった。




