黒猫と古書店1
松坂茜がその人物と出会ったのは、ある秋晴れの空の日のことだった。デパートに買い物に出かけ、自宅のある街へと電車に乗って帰ってきたときのことだ。
駅前の駐車場に駐めてある愛車に荷物を載せ、運転席へと乗り込もうとしていると、駐車場のすぐ外を歩いている一人の人物に目がとまった。その男は、パーカーにデニムというラフな格好をしており、肩からは大きなショルダーバッグを提げていた。年齢はわからないが、そこそこ若く見える。長く伸びた前髪がうっとおしい他は、特別なんてことのないどこにでもいそうな男だった。
しかし茜は、その男から目を逸らすことができなかった。正確には、その男の持っている本から。その男はそのあかがね色の本を読みながら、茜の目の前を横切ろうとしていた。
茜はその瞬間、電撃に打たれたように衝撃を受けた。
(あれだ。きっと間違いない)
それは数ヶ月前に、茜が手違いで古本屋に出してしまった本だった。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』。その本はとても重厚で、持ち歩きながら読むのにはあまり適していないものだった。そんなものを外で歩きながら読んでいたら、その人物は結構目立ってしまうだろう。実際、その男はその本の存在ゆえに、なにかその場では浮いて見えていた。だからこそ、そのとき茜がそれに気づけたとも言える。
しかし、ひと目でそれが茜の持っていた本だとわかったわけではない。男が近づいてきて初めてそれを確信した。じっと茜はその本に目を凝らし、それを確認した。やはりその本は、茜の売ってしまった本そのものに間違いなかった。
本当は売るつもりなどなかったのだが、ある事情から古本屋にその本を持っていかなければならなくなった。しまったと思ったときにはもう遅かった。その古本屋にはその本はもう残ってはいなかったのだ。また新たに買えば済むという問題ではない。初版本だとか、高価な値打ちがあるというわけでもない。しかし、どうしてもあの本でなければならない理由が茜にはあった。
茜は慌てて駐車場から出ると、その男を追いかけた。そして、思いきって後ろから声をかけてみた。
「あの……っ。ちょっとすみません!」
しかし男は振り返らなかった。気づかなかったのかと思い男の前へと回り込むと、茜はもう一度男に声をかけた。
「すみません。ちょっと、いいですか?」
その男は茜のことを長い前髪の間から上目遣いでちらりと見ると、すぐにその重厚な本のページに視線を戻した。なにかのキャッチセールスだと間違えられているのかもしれない。しかしそこで怯むことなく、茜は言葉を続けた。
「あのですね。いきなりで申し訳ないんですけど、その本、譲ってくれませんか?」
そのまま行ってしまおうとしていた男は、その言葉を聞いてぴたりと足を止めた。
「……この本を?」
その男は怪訝そうにこちらを振り向くと、茜の顔をのぞき込むようにまじまじと見た。
なんて遠慮のない見方なんだろう。茜は思わず一歩身を引いてしまったが、なんとかその場に留まった。
「実はその本、もともとわたしのものだったんです。だけど間違えて売ってしまって」
「なぜこれがあなたの本だとわかるんですか? 探せばどこにでも売っている本だと思うんですが」
「あの、たぶんわたししかわからないようなことだと思うんですけど、……ちょっといいですか?」と言って、茜はその人の持っていた本を貸してもらい、本の表紙側の角の部分に指を差した。「この本のこの部分。よく見るとちょっとだけ潰れているのわかります? たぶん中のページも少し折れてたり破れてたりしてる箇所があると思うんですけど」
言いながら表紙をめくり、中のページのある部分をその男に示して見せた。
「これです。やっぱり間違いなかった。このシール、わたしが貼ったんです」
そこにはピンクのハートの形のシールが貼ってあった。そのページの端にちょっとした破れがあり、それを補修するために茜自身が貼ったものだった。
茜はそれを見てほっとした。もう戻ってこないと思っていたこの本に再び会うことができた。それを思うと、涙が出そうだった。
「お金なら払います。お願いします。この本譲ってください」
「嫌です」
茜はその返答に、目をぱちくりとさせた。今のは聞き間違いではなかろうか。今、嫌だと聞こえたような気がするが、あまりの即答に茜の頭はついていっていなかった。
「あの、読み終わったらでいいんで、お願いします」
念のために、茜は再度そう言ってみた。しかし、やはり返答はこうだった。
「嫌、です」
男は茜の手からすっとその本をさらって、自らの腕の中におさめた。茜はその様子を、呆然と見つめることしかできなかった。
まさかこんなふうに拒否されるなど、思いもよらなかったのだ。突然やってきてこんなことを言うほうもあれだけれど、もう少し考えるそぶりくらい見せてもいいのではないだろうか。そんな、はねつけるように言わなくてもいいではないか。
茜はそう思ったが、確かに今の自分は怪しい人物には違いないだろう。ここで焦っても仕方がない。ここは慎重かつ冷静に交渉をしていかなければと、心を落ち着かせた。
「あの、その本はどこで手に入れたのでしょう?」
男は茜のその質問に、今度はきちんと答えてくれた。
「駅裏から向こうにある国道沿いの古本屋です」
「それはいつ頃のことですか? もしかして、今年の夏頃とか?」
「ええ。確かに夏頃のことでした」
茜はその言葉に大きく目を見開いた。そうだったのか。しかし、だとしたらますます今このときにこの本と再会できたことは、運命としか言いようがない。
「あの、用件はそれだけでしょうか? もう行ってもいいでしょうか?」
そう言ってその場から立ち去ろうとするその男を、茜は腕を掴んで引きとめた。
「ちょっと待ってください! 駄目なんです。わたしはその本じゃなきゃ本当に駄目なんです。だから、もうちょっと話、聞いてください!」
その男は茜の迫力に気圧されたのか、しばらく言葉を失っていた。そして長い前髪の間から、茜の顔を再びじっと見つめてきた。大きな黒目。よく見れば、きれいな目をしていた。
「そこまでおっしゃるのなら、話くらいは聞きましょう。ただし、そこの裏通りにある定食屋で」
男はそう言うと、さっさと道を歩いていった。
それは、食事につきあえということなのだろうか。それとも食事をおごれということなのだろうか。もし後者だとしても、仕方ない。食事代で本を譲ってくれるなら、まあよしとしておこう。
茜はそう思い、黙ってその男のあとをついていった。
※表紙は新堂アラタ様に描いていただきました!
美しく繊細で、イメージにぴったりの素敵なイラストです。