別れる束の間
通勤ラッシュの時間帯を過ぎても、大都会アウロンの道路から人や大量の自動車の姿が消える事はない。仕事中の移動、買い物に出る主婦、休暇を取ってやってきた旅行客、港湾から荷物を運ぶトレーラーに一定の区間をひたすら繰り返し走る路線バス、多種多様な人間が多種多様な車を操り絶え間ない車両の流れが生み出されていた。
生き物のように動き続けるその流れの一部を担うようにして、ゴンの駆る灰色の中古車は走っていた。
助手席に座っているのは昨晩遭遇し、銃撃を伴う激しい戦闘から成り行きで共に逃げてきた、亜麻色の長髪を持つ少女エリシア。素性はゴンには分からずじまいだが、彼女が何者かに追われている事だけは確かであり、ゴンは彼女をその追手から逃がす目的で日中から都会の中心を突き抜ける広い国道に車を走らせていたのだ。
「んじゃあ復習な、いいか?」
「は、はいっ……!」
迂闊に外に出ては追手にバレてしまうかもしれない、しかし彼等から逃げるにはいつまでも同じ場所に引き籠っていてもいけない。
だからいかに目立たず効率的にこの街から脱出出来るか、ゴンはスマホを使ってネットでこの街の公共交通機関の時刻表やルートを調べ、彼なりに必死に考えて最適なコースを導き出していた。
「まずアウロン中央駅の南口から入って右手、切符売り場で切符を買う。目的の駅はどこだ?」
「えっ、えと……マーディン駅、です」
「その駅に行くには何番線に入る電車に乗ればいい?」
「んーと……三、じゃなくてその反対側の四!」
「三番ホームはアウロンの中をぐるぐる回る環状線だからな、注意しろよ? なら、マーディン駅についた後、乗るべきなのはどこの会社のタクシーだ?」
「あ……っと、ス……ジュ……」
「スージェンタクシーな。車体が青と白の奴、あそこの会社が一番安く乗れる。一般人がやってる白タクには絶対引っかかるなよ? 十中八九ぼったくられるか犯罪に巻き込まれるから。ちゃんと覚えとけよ?」
ゴンの忠告にエリシアは「はい」と小さな声で返事をして、頭の中で教えられたルートを反芻するように何かぶつぶつと呟く。
偉そうに言ったものの、ネットでの最短ルート検索を少し詳しく調べただけでそこまで苦心した訳ではないが、それでもルートを必死に覚えようとする彼女の健気な姿にゴンの心は密かに高ぶっていた。
「本当に良いのか? アウロンを出るまでついてってやれるけど……」
「いえ、巻き込んでおいて、これ以上あなたに頼りっぱなしになるにはいけません」
弱々しい声だが、彼女はきっぱりとゴンの申し出を断った。
何者かに追われ、他人を巻き込んでしまうかもしれない立場であると自覚している彼女なりのプライドでもあるのだろう。
冷たいようにも思えたが、彼女も芯の通った意思があるのだと勝手に理解して、ゴンもあまりしつこく手助けを申し出る事はしなかった。
ゴンに頼りすぎたくないと最初は断ったエリシアだったが、保護した相手に危険で無謀な橋を渡らせる気にはなれないとゴンも食い下がり、アウロンのど真ん中にある鉄道の心臓部の中央駅から外の街と繋がっている路線に乗り込むまではゴンが手を貸すという事で話がついたのだ。
逃走資金はゴンの持ち合わせから、食料は部屋に溜まっていたスナック菓子から、これらを使い切る前になんとか逃げ切るか新しい協力者を見つけて匿ってもらえというゴンの意思の表れでもあった。
「……何から何まで、すいません。結局頼りっぱなしで……」
昨晩からずっと、事あるごとに謝っては泣きそうになるエリシアの性格には少し慣れてきたが、それでもやはりあまり良い気分はせず、ゴンは片手で頭を掻きながら、
「もう謝るなっての。俺が好きでやってるんだから、それでいいだろ」
「ありがとう、ございます……」
静かに頭を下げた後、エリシアは膝上のバックを両手で強く握りながら、視線を窓の外へと動かした。
「こんな大きくて道がたくさん交わって人がいっぱいな街、私一人だと抜け出せるか正直不安だったんです」
「なら素直に頼れって」
「はい……この街はいつもこれくらい人が多いんですか?」
「まぁ、異常なまでに人口が集中してるらしいからな、アウロンは。これでも今は通勤ラッシュ過ぎてるから少ない方だぞ?」
アウロンでもっとも人の流れが激しくなるのは午前七時と午後六時だ、国内の三割近い人間がこの街の中にひしめき合っているとも言われるほどの混雑ぶりは最早名物にもなっており、地方から初めてやってきた人間の多くは歩道に足を踏み入れる事すら恐怖を感じてしまうと声を漏らすぐらいである。
今の時刻は午前十時前、歩行者や車両の数は相変わらず絶えてはいないが、ラッシュ時に比べれば十分少ない。この時間大人は乱立するビルの中で仕事に従事し、学生は街中に点在する学園の中で学業に励んでいるのだから。
「そうですか……そうですよね。普通の人は、平日は仕事をしたり勉強したりしないといけないですもんね」
「うっ!?」
独り言のように優しい声で発せられたエリシアの言葉に、反射的にゴンは拒絶反応を示して咳き込み、思わずハンドルを取られそうになってしまう。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ゴホッ……ッ……やめろよな、傷口を抉るの」
「傷口……?」
言っている意味が分からないという風な反応をされ、余計にゴンは胸が締め付けられるような心苦しさを覚えた。
「……そうだよ、普通ならこの時間は仕事行ったり学校行ったりしてないとおかしいんだよ」
「……?」
「いや、なんか思い出したっていうか……こうしてお前の逃走の手伝いをしてると、実感してくるんだよ。昨日俺がクビになったのは事実なんだなって」
「クビって、あっ……」
ようやくゴンがなぜ狼狽しているのか理由が分かったようで、エリシアは目を丸くしてハッとしてから深く頭を垂れて、
「ごめんなさい! 私、酷い事を……!」
「……別にいいっての。もう慣れてるしよ」
職を失う事に新鮮味を感じなくなっている自分が恥ずかしいと、ゴンの若干頬が熱くなる。
「それに、お前の逃走に協力しようとしたのは、憂さ晴らしというか、暇つぶしみたいなもんだからな」
「暇つぶし、ですか?」
あぁ、と短く返事をし、赤信号に従って車が停車したところで、ゴンは言葉を続ける。
「俺は今まで何回も仕事をクビになってる。それもミスしまくったとか態度が悪かったとかじゃなく、単純に俺がその場しのぎで採用された非正規雇用だったってのが殆どの理由だ」
「はぁ……」
「要するに使い捨てって事、必要っちゃ必要だが、代わりならいくらでもいるし、すぐに切り捨てられるような従業員って訳だ」
無数の働き口が存在するアウロンだが、働く者の立場には人によって天と地ほどの差がある。
地方から出稼ぎにやってくる者達の殆どは常時人手不足の肉体労働系の職に従事するが、それはちゃんと体を動かし指示を聞くならば誰でも務められるような単純作業が多く、故に雇用側のちょっとした事情ですぐに解雇する事が出来る。
有名大学出身の秀才ならば企業も有望株として手放さず長い目で面倒を見るだろうが、出稼ぎの人間にはそういう特別な武器がない。
なので短期間の契約ばかりしか取れず、翌日から会社に来なくても良いよと上司から宣告される事も決して珍しくないのだ。
「十八になってすぐこっちに出てきてずっと、面接して働いてクビ切られて、また仕事を探すの繰り返しだ。それでも頑張ればギリギリ人並みの生活は出来てきたから、こういう生活が当たり前だと思うようになってきて、マンネリに思えてたんだ。だから、お前に会って訳の分からないまま騒動に巻き込まれた時、面倒だと感じながらも少し気持ちが軽くなった気がしてな」
「軽く、ですか?」
「いつもいつも同じ事を繰り返す生活の中に変化が起きて、その変化を楽しいと心のどっかで思ったんだ。だから退屈な日常を少しでも忘れようと、お前に関わりたがったのかもしれない」
エリシアに協力したところで職が舞い込んでくる訳ではない、ただいつもと違う出来事に子供のように心を躍らせてしまっていた。
銃撃戦に巻き込まれるのは御免だが、仕事を失くしてまた就職活動と貧乏生活を送るこれからの事を一時的にでも考えなくて済むのならという安直な考えから彼女に関わろうとした結果、こうして彼女の逃走の手伝いをしているのである。
「……不謹慎だよな。そっちは明らかにシャレにならないヤバそうな奴に追われてるのに」
「い、いえ……そんな事は」
エリシアは一度首を左右に振って、何かを思案するように間を置いてから、
「……私は誰も巻き込まずに追手から逃げ切りたかった。力はないけれど、誰かに頼って一緒に危険な目に遭ったら罪悪感で耐えられなくなると思ったからです。でも、一人では限界があって……偶然出会ったあなたに助けを求めてしまいました」
昨晩、ゴンに助けを求めてきた時の彼女の表情は焦燥感に満ちていて、恐怖が溢れだしていた。あの時点でエリシアはもう一人での逃亡に耐え切れなくなっていたのかもしれない。それは肉体的にも、精神的にもだ。
「そしてあなたは私を匿ってくれました。それにこうして逃走の手伝いまで……親身にしてくれて、私は本当に嬉しくて、追手から逃げるための勇気が湧いてきたんです」
「勇気、か」
追手を蹴散らしてやったくらいの事をしたならそれくらい言われても堂々としていられるが、ゴンが彼女に協力出来たのはほんの微々たるものだ。時間では約半日、一宿二飯だけ面倒を見たが、最終的にまた彼女を謎の追手からの逃走に送り出すしか出来ない今の自分が、彼はやけに悔しかった。
本当ならもっと彼女のためにしてやれる事はないかと、今でも考えてしまうのだが、
「だからこそ、これ以上は私に関わるべきではないです。でないと本当に、あなたに危険が及んでしまいます」
再三に渡って、断固としてエリシアからこれ以上の干渉を断られると、どうする事も出来ない。
彼女がどんな事情を抱えどんな危険な連中に追われているのか、想像したところで分かりはしないし、分かったところで一介のフリーターでしかないゴンにはどうする事も出来ないだろう。
この彼女の正体を結局知らないまま別れるのかと思うと、なんとなくもどかしさが募ってきて、ゴンはあまり深く考えないようにしてきた。
彼女の正体には、一般の人間からは感じられない怪しげな臭いが見え隠れしているように思えたから。
「……でも、ここまで手助けをしてくれただけで私は嬉しいんです。どんな理由であれ、こうやって誰かと一緒に話すのは久しぶりでしたので」
「ん、そうか」
「はい、ありがとうございます!」
控え目ながらも感謝の意が満面に現れた彼女の笑顔は目を奪われるほど可憐で眩しくて、とっくに信号が青になっている事に数秒間気づくのが遅れてしまった。
後ろからクラクションを鳴らされてようやくアクセルを踏んで車を発進させ、アウロン中央駅へと続く大きな通りを直進する。
十分ほど経って車は駅の駐車場まで到着し、予定通り目的の駅までの切符を駅構内で購入した。
「電車が来る時間までまだ結構あるみたいだな」
余裕をもって自宅を出て、道も混雑してはいなかったため予定より早くエリシアの出発する準備が整ってしまった。
「でも私迷ってしまうかもしれないので、早めにホームへ行っておいた方がいいと思うので、ちょうど良いと思います」
「ん……そうか」
はい、とにっこり笑うエリシアは、未練などなく追手から少しでも早く離れるために電車が来るのを待ちわびているのだろう。
ここまでくれば後はエリシアがルートを間違わないかどうかで、ゴンに出来る事はない。
分かってはいるのだが、彼女がこの駅を発つにはまだ時間があると分かった途端、彼女と別れる時間をもっと引き延ばしたいという欲が瞬く間に増殖してきた。
「……じゃあ、私、もう行きますね」
エリシアもこれ以上ゴンに付き合ってもらう必要はないと判断したのだろう、会話もせず一分近く二人で駅の時刻表の前で立ち尽くしていた後、そう言って改札口の方へ向かおうとしたが、
「ちょ、ちょい待ち!」
視界から彼女のささやかな笑顔が消えようとしたところで、ゴンは本能的に彼女の腕を掴んでいた。
「えっ?」
「あ、えーっと……」
ノープランでの自分の言動に腹立ちながらも、自身がなぜこういう行動に出たのかは理解出来ていた。
単純に、一目惚れした彼女が立ち去るのを阻止したかったのだ。
「っ~、この街の電車のダイヤは分単位で正確だ。一分前にホームへ駈け込んだって間に合う」
「は、はぁ……」
「だから、早めに昼飯を食うぐらいの余裕は、十分にある。長旅になるなら、ちゃんとしたもの食っておいた方が、いい」
思いついた言葉をそのまま発しているせいで、変に途切れ途切れの喋りになってしまいながらも、なんとか彼女を引き留めようとするゴン。
「いえ、昨晩と今朝お食事をさせていただいて、これ以上恵んでもらうのはさすがに……」
「い、いや恵みというかその……あ!」
途中である事を思い出し、左手でズボンのポケットから財布を取り出すと、今月の生活費である数枚の紙幣に混じっていた二枚の細長い紙を手にしてエリシアの前にかざす。
「これ! この前会社の先輩から貰ったんだ、自分はこういうの食べないから使ってくれって」
それはこの駅のすぐ近くにある人気のドーナツ店の割引券であり、有効期限は明後日までと書かれていた。
ゴンはファーストフード店はよく利用するが、このチケットの対象であるドーナツ店はカップルや家族連れが多くて男一人ではなんとなく入り辛く、それに買うならドーナツよりもハンバーガーの方が良いという考えから使わずにいたのだ。
「一枚使うと三割引きなんだが、一人一日一枚しか使えないらしいんだよ。だからお前と一緒なら一気に六割引きになるんだ。あ、勿論金を出すのは俺だぞ」
「そんな、せっかくのものが勿体ないんじゃ……」
「馬鹿、こういうのは女の子とかと一緒に使うもんなんだよ!」
そういう決まりは当然ないものの、他の野郎とわざわざドーナツを買いに行く気になどなれる訳もないから、嘘でもない。
ゴンの内心はエリシアの気を引いて後十分でも五分でも一緒にいれれば良いという魂胆に満ちていて、端から見ればナンパに必死で情けない様に見えていたかもしれない。
もうお節介になるのは嫌な筈のエリシアは、やはり悩むようにしばらく口をパクパクさせたり目をきょろきょろ動かしたりして落ち着きなく体を揺らしていたが、
「こっ、これは気を遣ってるとかじゃなくて、俺の勝手な要求だからな!」
「要求、ですか?」
「そうだ、単なる我儘だから断ってくれても良いんだがそのなんというか……軽い気持ちで考えて欲しいんだが……」
上手く言葉を繕えず、焦りから汗が額から粒状に湧き上がってくるのが分かった。
「ふふっ」
やがて、きょとんとしていたエリシアは突然吹き出して、
「ど、どうした?」
「~っ、いえ、なんかすごい一生懸命な風に見えて、面白くて……」
今までずっと塞ぎ込んでいた彼女の暗い表情に、カーテンの隙間から陽光が差し込んだかのように僅かながらもはっきりとした明るさが現れていた。
「嫌か……?」
「いいえ、嬉しいです。是非そのご厚意に甘えさせて欲しいです」
やっと見えた彼女のちゃんとした笑顔に、ゴンの心もまたパッと眩い光で満たされていく。
初めてポジティブな感情を見せたなと思ったゴンだが、昨晩から彼女と話した事といえば彼女が誰にどうして追われていたかについてばかりだった、そんなシリアスな話ばかりしていては笑顔が漏れたりはしないかと勝手に納得する。
「お、おぉっ、そう、か? おし、じゃあ早く行こうぜ。ファーストフードって言っても、食うのに時間はかかるんだからよ」
自分で電車の待ち時間に余裕があると言っておきながらも焦る滑稽な言動だが、そんなことを気にしている心の余裕は彼にはなく、エリシアも特に気にする様子はなかった。
チケットの対象のドーナツ店は駅に沿うようにして建っており、一見如何わしい店かと錯覚するぐらいに看板や店の壁が目が痛くなるくらいにきゃぴきゃぴとしたピンクのカラーリングをしていた。
入ってみると砂糖やチョコなどの甘ったるい匂いが混ざり合った空気が店内を満たしていて鼻を突き、なんだか体が重くなった気に見舞われる。
平日の昼間なので混雑はしていなかったが、普段働いているのか学校に行ってるのかも分からない頭がお花畑なカップルが堂々とイチャついているのが視界に入ってゴンはイラッとした。
「いらしゃっせー、ただいまストロベリー系商品全品一割引き期間中であります是非お買い上げ求めくださーい」
あからさまに仕事用の淡白なスマイルと棒読みの謳い文句を口にする女性店員に促されるがまま、色んな種類のドーナツが並ぶ棚の前に進む。
「わぁ」
途端にエリシアの目がキラリと輝き、一歩前へと踏み出して前屈みになりながら陳列された何種類ものドーナツ達を吟味するように見回す。
彼女の予想以上の食いつきに面食らいながらも、ゴンも初めて足を踏み入れた店のメニューが物珍しくて一緒にドーナツを眺める。
アメリカ生まれの人気チェーン店ともあって品揃えは豊富らしく、チョコとストロベリーとシュガーという言葉にそれっぽい横文字を組み合わせた長い名前がつけられていた。
「これと、これが欲しいです」
その中のうち、エリシアはスタンダードなタイプのチョコとストロベリー味のドーナツを指差して選ぶ。
あまり時間がある訳ではないので、ゴンは適当に二つ彼女と被らないものを選んでトレイの上に取り、ドリンクバーでジュースを注いで窓から離れた外から見られにくいテーブルにつく。
「んん、んぅ~おいしい!」
一口かじって感嘆の声を漏らし、エリシアが星のように輝く純粋無垢な笑顔をする。
これほど破壊力を伴った、見ているだけで幸せになる表情があるだろうか。
彼女より可愛らしく笑うアイドルならいくらでもいるし、彼女より上手に美味しさを表現するリポーターは大勢存在するだろう。
エリシアのそれは質素で無難なリアクションだったが、彼女の口にした言葉と表情には太陽のように輝く純粋な意思が込められていて、間近でそれを見ていたゴンは数秒間世界の時間が停止したように思えるくらいに、彼女の笑顔に見惚れてしまっていた。
「食べないんですか?」
「……あ、あ? いや、食べる食べるっ」
動揺を気取られないよう急いで自分が選んだ砂糖がふんだんに散らされたボリュームのあるドーナツを掴んで口にする。
「ん、まぁ、美味いな」
確かにコンビニで売ってる百円ぐらいのドーナツに比べれば食感も味も質が高い、さすがアメリカ生まれの有名店、アジアに立地しても内容が劣る事はないようだ。
とはいえドーナツが好きという訳でもないゴンにとって、割引券なしで買うには少々手が出しにくい値段だ。気まぐれでも起こさない限り次にこの店を訪れようとはしないだろう。
それこそ、目の前にいる一目惚れした少女と一緒でもない限りは。
両者共会話が苦手なせいで話を切り出そうとせず、ほぼ無言のまませっせと食事に集中してしまう。
気まずいという表現が正しいのだろうが、不思議と居づらいと思いはしなかった。
静かにドーナツを頬張るエリシアを眺めているだけで彼は変に満足した気分になっていたのだ。
「楽しそうだな」
ふと、口を突いた言葉は「美味しそうだな」ではなかったのは、食べる前からの彼女の様子を総じた感想だったからだろう。
「はい!」
エリシアは躊躇せずに笑顔のまま返答する。
あぁ、やっぱり可愛いな。絶対使う事のないと思っていたドーナツ店の割引チケットをくれた先輩に感謝しなければ。
(もうあの工場には行かないから、会う機会はないだろうけど)
考えてみれば、ゴンは仕事以外で誰かと積極的に関わろうとした事はここ最近は皆無と言って良かった。
安定しない仕事による疲れと、無駄に遊んで少ない有金をすり減らすのを避けたいという思いからではあるが、あまり自発的に行動したりはしなかった。
「どうかしました?」
「いや、なんかこう、頭がクリアになったっていうか……」
いつ以来だろうか、咄嗟の思い付きで行動しているのは。
出稼ぎでこの街に来てから、経済的にも体力的にも省エネを心掛けて生活してきた。
そんな彼が後先を考えず、職を失っている現状を忘れているかのように平日の日の当たる時間からこうして興味のなかった店でドーナツを食べているのは、無職のフリーターとしては愚行かもしれない。
しかしゴンにとって、昨晩会ったばかりの素性の知らない謎の少女のために時間を割く事に自分勝手な価値を見出していた。
楽しい、幸せだという単純な感情を生み出せるという価値を。
会話は殆どなかったせいですぐに食事は終わり、二人は昼前の強い日差しが照りつけるアウロン中心街に踏み出す。
多くの人間が行き交いながらも互いが存在しないかのように無心で無表情で歩みを進める灰色の光景が視界に映ると、店内でのエリシアと席を共にしていた空間が如何に甘ったるい空気に包まれたものだったのかを自覚する。
「電車の時間は……あと十分ぐらいだな、ちょうど良いんじゃないか?」
「はい、お腹いっぱいになりましたし、気分転換にもなりました。本当に、ありがとうございます」
何度目か分からない感謝の言葉を述べるエリシアだったが、今までと違い顔に笑みが浮かんでいて、彼女の明るい心情が垣間見えた気がした。
「ドーナツ二つでいっぱいになるなら、俺の財布的にも助かったよ」
「あはは……えっと、それじゃあ、今度こそ行きますね」
だが何か線引きをするように息を整えたかと思うと、エリシアは再び元の緊張感と不安を募らせた真面目な表情を取り戻す。
それを見たゴンはなぜだか悲しい気分になって、ドーナツ店での楽しかった彼女とは別人なのではないかと疑いたくなった。
「あぁ、気を付けてな。ルート間違えるなよ?」
「大丈夫、です。頭の中で、何回も反復してます。いざという時は、誰かに聞きます。心配しないで、ください」
言葉が途切れ途切れだったのは、ゴンの心配を紛らわすために適当な言葉を探しているからだろうか。
「……お前が何に追われてるのかは知らないが、とにかく頑張れよ」
彼女が何者なのか、なぜ追われているのか、訳も理由も分からない以上怪しい存在でもある彼女を応援していいのかは正直分からない。
それでもゴンは彼女に対し、追手から逃げ切って欲しいという思い以外に抱く感情はなかった。
「ここまで構ってくれて貰ったお陰で、私も逃げる気力が湧いてきました」
「なら……良いんだがな」
「はい、お世話になりました。では、お元気で」
最後に明らかに作ったぎこちない笑顔を見せて、エリシアは駅の構内に向かってトボトボと歩いていく。
「……っ」
もうゴンに出来る事は何もない、後は彼女が無事謎の追手から逃げ切る事を祈るだけだ。
(追手、か)
マグメルという宗教団体と、それと対立する別の組織の二つの勢力が彼女を追う者達の正体らしいが、昨晩から今この時にかけてとうとう正体を知る事はなかった。
それでも組織だって問答無用でゴンやエリシアを取り押さえようとしたり、街中で平気で銃を乱射したりするあの連中が危険な存在だというのだけは、わざわざ彼女に尋ねなくても分かる。
彼女はこれからもそんな相手から逃亡し続けるのだろうか、自分はそんな苦しいであろう状況に彼女を送り出すしかないのか。
自分の知らない場所で、自分の知らないうちに追手に捕まって、危険な目に遭ってしまうかもしれない。
そんな想像したくない未来が見えてくるかのようで、ゴンは人知れず奥歯をギリギリと噛みしめていた。
長く伸びた亜麻色の髪の少女の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一度視界から消えたら、もう彼女と再び出会う事はないかもしれない。
「っ、おい!」
妥協を知る自分とは違う別の自分の意思に突き動かされるように、ゴンは足を動かし彼女の後を追う。
その速度はどんどん速くなり、エリシアが駅の入り口に差し掛かろうとしたところでようやく背後まで近づいた。
「ちょっ……」
なんて声をかけようか、呼び止めて何になるのか、どんな得が自分や彼女にあるのだろうか。
思い当たる疑問全てに答えが見つからないまま、それでもゴンは直情を抑える事が出来ず、体が勝手に動いてしまっていた。
そうしてまだゴンの接近に気付いていない様子のエリシアの手を掴もうと、腕を伸ばした時だった。
「……あっれ?」
瞬き一回分のほんの一瞬前まで両目で確かに捉えていた、亜麻色の長髪の少女の後ろ姿が、パラパラ漫画が途中で突然終わってしまったかのようにその場から消えていたのだ。