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正体不明の美少女

 定職もないフリーターがこの大都会の中で住める物件などたかが知れている。

 中心部から少し離れたベッドタウン、その中に立ち並ぶ一軒家に囲まれるようにして存在する木造二階建ての古びたアパート、その二階の一番端の部屋をゴンは住居としていた。

 トイレとキッチン、それから四畳半の一部屋とまさに必要最低限のものしかないこの空間に、その日の夜ゴンはアウロンに移住してから初めて他人を家の中に招いていた。

「熱っ……!」

 部屋の中央に置かれた円卓で、醤油味のカップラーメンを食べていた亜麻色の髪の少女エリシアは、跳ねた汁に驚いて小さく声を上げる。

「……ティッシュいるか?」

 テーブルを挟んだ向かい側に座るゴンは、同じ品目のカップラーメンの麺を啜りながら尋ねた。

「えっ……い、いえ、大丈夫です……」

 エリシアは頬を手で拭うような仕草をすると、小さな口を容器の端にちょこんとつけ、ちびちびと湯気の立つ汁を飲む。

「とりあえず自己紹介しようぜ。俺はゴン、そっちは?」

「あ、えっと……エリシア、です」

 恐る恐るといった感じながらも、一応名前を教えてはくれた。

 どう話を始めようか悩んだ末、咄嗟に名前を尋ねてしまったが、答えてくれて会話が成立したのは良い足がかりになった、ゴンはすぐさま本題を切り出す。

「じゃあエリシア……そろそろ、お前を追ってる奴等の正体と、お前が追われてた理由を聞いても良いか?」

 ゴンの質問に、エリシアは麺を掴んだ箸を持つ手を止め、視線をきょろきょろさせて戸惑いを見せる。

 市街地で彼女を車に乗せ、その後襲ってきた謎の連中から逃げた後、ゴンはこのまま彼女と行動を共にしていていいのかと悩みつつも、結局自分の家まで連れてきてしまった。

 途中で無理矢理降ろせば良かったのかもしれないが、生憎彼に困ってる様子の少女を見捨てるような勇気はなく、一緒にいるところを先程の連中に見つかればまた騒動に巻き込まれてしまうだろうと思い、なし崩し的に部屋の中へ入れたのだった。

「いえ……えっと、なんというか」

 ごにょごにょと口籠るエリシアは、明らかに話をする事に気が進まない様子だ。

「俺には言いたくないのか?」

「えっ、そっ、そういう訳ではなくて……ただその……巻き込んでしまったあなたに、これ以上詳しい事を言って……深入りさせてしまって、いいのか……」

 エリシアがゴンの車に乗せてもらおうとしたのは、偶然彼女の目につく場所にゴンの車があったからだろう。

 ゴンはエリシアの抱える何らかの問題とは完全に無関係で、彼女の関わる騒動のとばっちりを受けたに過ぎない。

 そんな部外者にこれ以上騒動の真相を話していいのかという迷いが、彼女の言葉を詰まらせているのだろう。

 彼女の気持ちを察したゴンは一つ溜め息をついて、それから箸をカップ面の容器の上に置いてから、彼女に言う。

「俺は部外者だし、嫌なら話してくれなくても良いけど……まぁなんだ、あんた色々抱え込んでるみたいだし、少しは吐き出した方が良いんじゃないか?」

「吐く……?」

「成り行きとはいえ、あんたを車に乗せたのは俺だし、なんていうかその……あんまり他人行儀なのも嫌だろ? せっかく知り合った縁なんだし」

 上手く言葉が出なかったが、とにかくゴンはエリシアが常に張っている見えない精神的な壁を取り払ってみたかった。

 その理由は困っている人は見逃せない性格だから……などではなく、正直目の前の少女の姿が可愛らしくて、保護欲をそそられるような弱々しい姿に、出会った直後から心を奪われてしまった下心によるものだった。

 そしてそれ以上に、仕事を失って喪失感に満ちていたゴンは何か別の事に集中したい気分であり、そのせいか本来ならとっととどこかへ行けと追い出しても良い怪しげな彼女に、自分でも驚く程に関わろうとしてしまっていた。

 エリシアは相変わらず目をきょろきょろとさせ悩むような素振りをするものの、かなり長い間を置いてから、

「私は、普通じゃないんです」

 やがて、一分弱の沈黙を破ってエリシアは言葉を返した。

「どういう事だ?」

「私が普通じゃないから、狙われているんです」

 普通じゃない、強調するように飛び出た言葉がどんな事を意味をするのか、ゴンには読み取れない。

「私は、あの人達から逃げていて、でもあの人達はしつこくて、それで、あのままだと捕まると思って……」

「あの人達ってのは、黒い車で囲んできた、かなりヤバそうな目をしてた奴等の事か?」

「……それも、ですけど、他にも私を狙う人達は、いて」

 目を伏せたまま、一つ一つ言葉を考えるようにして慎重に声に出していくエリシア。

「他って、後からやってきたチンピラみたいな連中の方か?」

 ゴンの問いに、エリシアはこくりと頷く。

 彼女の言葉が正しいとすると、ゴンが約一時間前に巻き込まれた市街地での騒動に於いて、エリシアは二つの勢力から狙われていた事になる。

 全員銃を持ち有無を言わさずゴンを組み伏せエリシアを連れ去ろうとした男達、その邪魔をするように割って入ってきた褐色の少女と不良らしき少年達、後者はゴンとエリシアがあの場から逃げるのを支援してくれたようにも思えたが、彼女によると彼等もまた味方ではないらしい。

「あいつ等は、どういった類の連中なんだ? マフィアとかギャングとかか?」

「……ちょっと違います。マグメルって、知ってますか?」

 彼女が口にした言葉に聞き覚えがあったゴンは、それに関する記憶を探るように思案し、そして発見した。

「マグメルって、宗教団体か何かだっけか」

「そういう事に、なってます」

「俺も詳しくは知らないんだけどな。えーっと……」

 ゴンは傍に置いていたスマホを左手で取って画面をスクロールし、ネットでマグメルという言葉を検索してヒットした項目を眺める。

「あーそうそう、最近よく見かけるよな。ネットとか、後街中の貼り紙とかで」

 ここ数年、ネットの広告や掲示板のタイトル等でよく目にした単語だった。

 世間の表向きのニュースでは話題には上がっては来ないが、逆にSNSなどでは知名度がどんどん上がってきている、国内に存在する宗教法人である。

 といっても直接勧誘を目的としたものだけでなく、一般の企業が後援として名を出していたり、有名な俳優が個人的に資金を提供していたりと、バックボーンの方面で目立っているものの方が多い。

 そのため宗教団体でありながら、新興宗教によくある得体の知れない危なさがあまり垣間見えない、企業も協賛するクリーンな組織というイメージが広がっているのも確かだ。

「後からやってきた人達は、マグメルの人達なんです」

「あの黒人っぽい子と不良っぽい奴等がか?」

 コクンと頷くエリシア。

 先にゴン達を襲ってきた男達を邪魔するように現れた彼女達は思うがままに好き勝手な事をして過ごす不良の集まりの典型のような感じで、宗教とは無縁の存在のように思えた。

「今時の宗教にハマってる人間は、銃や鉄パイプで武装してんのか?」

「……特殊なんです、あの人達は」

 奴等はいったいどんな内容の教えや経典を信じ込んでいるんだろうと疑問に思いつつ、ゴンは次の質問を口にする。

「じゃあ、最初に俺達を襲ってお前を連れ去ろうとした連中は?」

「あっちは……あまりよくは知らないんですけど……私を狙ってる人達だってのは同じです」

 曖昧に言葉を濁すエリシア、詳しくは説明したくないのか、本当にあの男達については知らないのか。

 しつこく問い詰めようと思ったが、彼女を追っている人間についてよりももっと知りたい事が彼にはあった。

「で、お前はあんな危ない信者やよくも知らない連中とはどういう関係なんだ?」

 銃を持った男達も、介入してきた若者達も、最初からエリシアという少女を知っているような様子だった。

 前者は彼女を連れ去ろうとし、後者は彼女を前者から守ろうとしたが、彼女自身はどちらにもつく事なく、ゴンと共に逃走する事を選んだ。

 それは彼女があの場にいた二つの勢力のどちらにも属さないのを意味し、この目の前にいる亜麻色の髪の少女には確実に『普通ではない』事情が隠されているのだとゴンは睨んでいた。

 エリシアは今まで以上に幼顔を歪めると、持ったままの箸をカップの上に置いて、静かに深呼吸をする。

「……っ」

 そしてゴンを一瞥したかと思うと、嗚咽が込み上げたかのようにあからさまに体を震わせて、

「……私は、少し前まではマグメルにいたんです」

「マグメルの、信者だったって事か?」

「そんなところです。でも私はあそこにいるのが嫌になって、逃げだしてきたんです」

 恐る恐る言葉を述べているのを聞いていると、彼女がこの話をしたくないという気持ちが伝わってくる。

「やめさせてもらえなくて、会費払えって取り立てに追って来てる、みたいな感じか」

「……見方を変えれば、その言い方でも間違ってないかもしれません」

 喋っているうちに彼女の視線はどんどんテーブルから床へと落ちていき、恥ずかしい事を話す時のように塞ぎ込んでいっていた。

 これは相当病んでそうだな、とゴンは怪訝そうに眉をひそめる。

「……なら、最初に俺達を襲ってきた連中の方は? あいつ等はマグメルじゃないんだろう?」

「それは……っ」

 まただ、銃で武装した男達について聞こうとすると言葉が出てこない様子になる。

 マグメルの一員であり、そこをやめて追われている事は話してくれたが、もう一方の勢力についてはまともに説明しようともしない。

 そこまでの秘密を彼女は抱え込んでいるのだろうか、だとしたら自分はこれ以上質問を続けてもいいのだろうか、ゴンは彼女を苛めているような気がしてきて、気まずさを覚える。

「……ま、色々と苦労してんだってのは分かったよ」

 一旦会話を終わらせておこうと、昇る湯気が減って冷めてきた食べかけのラーメンに改めて手をつけようとゴンが箸を握ったところで、

「っ……! 言っちゃったら……!」

 押し黙っていた感情を吐き出すように、エリシアが精一杯の大声で言葉を発した。

 驚いて体を硬直させるゴンに、彼女は長く間を置いてから、

「……私について詳しい事を言っちゃったら、多分あなたは私を嫌うと思います」

「そんなにヤバイ何かに関わってんのか? お前」

「……私自身が、普通じゃないから……だから、言いたくないんです。ごめんなさい」

 悲壮感以外に似合う言葉が見当たらないぐらい、彼女の顔は暗くどんよりと落ち込んだ空気で包まれており、彼女の中にあるネガティブな感情が表に出ているように見えた。

 悪い事をした子供が親に怒られるのを恐れるように、彼女の抱える事情を伝える事でゴンの彼女に対する印象が悪化する事への抵抗が、彼女の声を体を小刻みに震わせていたのだ。

「……んーっと」

 どう言葉を返せばいいか分からず、二人の間に気まずい沈黙が生まれる。

 何かに怯えて弱々しいこの可憐な少女にどう語りかけるべきなのか、簡単にベストな言葉が思い浮かぶほどゴンは出来た人間でもない。

 何より、彼が初対面の彼女を怪しいと思いつつも車に乗せたのは、単に彼女の容姿に心踊らされたからという浅はかなものだ。それで彼女が抱え込んでいる事柄にとやかく言う資格はない。

「嫌わないって言いたいところだけど、さすがに無責任過ぎるよな」

「……」

「まぁ俺はお前にとって部外者かもしれないけど、それでもお前を車に乗せてあの場から逃げたんだし、少しは信用してくれてもいいんだからな? 嫌だったらわざわざ家に上げたりはしないんだから」

「……はい、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げ、エリシアは箸を手にして食事を再開する。

「で、この後はどうするんだ? どこか行くとこでもあるのか?」

 素性や事情を聞くのは諦め、彼女が次どう行動に出るのかに話題を切り替えるゴン。

「……南へ」

「は?」

「南の方へ、向かいたいんです。車でも電車でも、とにかく早く南へ……」

「それって、アウロンから早く出たいって事か?」

 小さく頷いて肯定するエリシア、あからさまに彼女を追う勢力から逃げるのが目的なのが見え見えで、ゴンは小さく嘆息して、

「……じゃあ、行けるところまで車に乗せてってやろうか?」

 後先も考えず、そんな事を尋ねていた。

「え、いえ……ですから、あなたにこれ以上迷惑は……」

「いいっての。実は俺、明日から暇なんだよ」

「ですが……分かっているんじゃないですか? 私といたら、またさっきの人達に襲われるかもしれないんですよ?」

 ゴンは残った汁と麺を口の中に掻きこみながら、頭の中でエリシアの口した言葉を頭の中で反芻する。

 さっきは謎の勢力同士……マグメルとかいう宗教の連中と正体不明の男達による小競り合いの隙を縫ってなんとか逃げ延びられたものの、それでもアスファルトに組み伏せられたり銃弾の雨をくぐり抜けるはめになったりと危険極まりない状況にいた事に違いはない。

 その原因がこのエリシアという少女にあるのは彼女自身の言葉からも明らかで、それを知った上で自分は彼女にこれ以上関わるべきなのだろうか。

 失職した身の上なのだから、すぐに追い出して明日からまた仕事探しの日々が始まる、わざわざ他人の面倒事を抱え込む必要なのないのは、ゴンが一番よく分かっていた。

「……さぁな」

 しかし、彼の口は彼の思考がまとまるよりも早く動いてしまう。

「私といたら、あれぐらいは珍しい事じゃありません! だから逃げてるんです、それは周りの人を巻き込んでしまうから……あなたが捕まった時、それから銃で撃たれそうになった時、私は心臓が止まるかと思いました。あんな気持ちを味わいたくはないんです!」

「……その気持ちはありがたいけどな、逃げるならそれなりに考えて逃げないと、かえって迷惑だと思うぞ?」

 え? と口を開けて頭上に疑問符を浮かべるエリシアに、ゴンはスマホであるサイトにアクセスしながら、

「大都会アウロンとはいえ、夜中は電車も止まるし車の数も減る。眠らない街といっても夜に外をうろうろしてる人間の中には裏の社会の奴だってごまんといる。それこそ、お前を襲った奴等とは関係のない、別のヤバイ筋の人間とかな」

「……」

「経済発展著しいつっても、犯罪率も高いんだからなこの街は。タクシーは高いし、電車は路線が迷路みたいに複雑に絡んでるし、お前はそれを使いこなすだけの金と情報持ってるのか?」

「それは……」

 返す言葉がないといった感じに押し黙るエリシア。

 最初に見た時から、彼女はこのアウロンの人間ではないと思っていた。溢れかえった人々が作るコミュニティの荒波に揉まれたような、都会人特有の達観した芯の強さらしきものが見られなかったからだ。

 危なっかしく、壊れやすそうなこの少女を放ってはおけず、結果訳の分からない騒動に巻き込まれて馬鹿だなと、今更ながら理解するゴン。

「街のど真ん中でドンパチやらかしたら、確実に誰か巻き込むぞ。それは嫌だろ?」

「……はい」

「だから、少しは他人を頼れよ。これでも車でアウロンの道の九割は走ってきたし、車持ってない頃は電車とかバスとか使いまくってたから、最短ルートには詳しいつもりだぞ」

「はいっ……ごめんなさい」

 と、ゴンの言葉を慰めではなく呆れと捉えたのか、エリシアは元々脆そうだった涙腺を崩して澄んだ瞳から雫の粒を流してしまう。

「おい、うおっ、ちょちょっと待て泣くところじゃないだろ!」

「頼ってばかりの自分が情けなくて……ごめんなさい」

 隠す事もなくぼろぼろと垂らす涙を両腕で拭うその姿はまさに幼子のようで、その精神的に不安定な雰囲気と励ましてやりたくなるような悲壮感漂う姿に感化されたゴンは、いつの間にか彼女の傍まで早足で移動し、彼女の肩に手を置いた。

「一人でなんでも出来る奴なんてそうそういないっての。気にするなよ」

 一目惚れした少女との心の壁を取り払うべく、いやらしい笑顔になりそうな表情を必死に平静に保ちながら、臭い台詞を並べ立てて内心恥ずかしくなるゴン。

「……嬉しいです」

 しかし純真な彼女にはゴンの下心など疑う事すら出来ないようで、潤んだ瞳を向けて本気で感謝してくるのだから、彼のテンションはさらに引き上がっていく。

「ずっと逃げてばかりで……誰かにこうやって親切にしてもらえるなんて思えなくて……ありがとうございます」

 目頭を赤く腫らした顔で、それでも健気に精一杯の笑顔で感謝の言葉を口にするエリシア。

 その純粋な感情が溢れ出る天使のような可愛らしさに、ゴンの中で何かが弾けた。

「っ……!」

 可愛い。

 そう思った時には、既に彼はエリシアの手を握って、顔を近づけていた。

(ヤバイ……!)

 何かまずい一線を越えてしまいそうになる寸前で自制を働かせながらも、この少女と一緒にいる事への高揚にあてられて身動き一つ出来なくなり固まってしまう。

 興奮と緊張がせめぎ合い、頭の中がふわふわと浮ついた状態になり、次の瞬間自分がどんな行動に出ているのか分からなくて危険だと感じた、その矢先だった。

 パンッとクラッカーが割れるような乾いた音が、部屋の隅で鳴り響いたのは。

「うわっ、なんだ!?」

 一気に興奮が冷め、不意を食らったゴンは飛び退くように腰を床につきながら、音がした方を見る。

「あ! おい! マジかよ!?」

 ゴンは音の発生場所に置かれていたものを認識すると、ハッとして慌ててその場へと駆け寄った。

 そこにあったのは質素な木製の棚で、その上にはゴンが応援するヨーロッパのサッカーリーグの名門チームの選手やエンブレムが描かれたタオルや写真、タペストリーといった多くのグッズが飾られていたのだが、そこにあったものの殆どが今は棚の上から落下し派手に床の上に飛び散っており、中には破損しているものもあった。

「うわーなんだよこれ! 落ちて欠けたのか!? くそ~せっかくのCレナのサインが!」

 ゴンが拾い上げたのは、中央に筆記体でとある有名なサッカー選手の名が描かれた色紙だった。ただし丁度文字の部分にかかるように紙の一部が剥げてしまっている。

「っ……それは?」

 ゴンの急な大声に怯えながら、エリシアが尋ねる。

「んっ、あぁ……俺の好きなサッカー選手のサインだよ。知らねぇ? クラーウス・レナード、三年連続バロンドール獲ってるすげー奴」

「はぁ……」

「本当に知らねぇの? いやぁ分からないもんだなぁ、Cレナくらい知名度のあるスポーツ選手もそうそういないだろうに」

 ゴンは日々の味気ないアルバイト生活の中での数少ない楽しみの一つに、週末のサッカー鑑賞がある。

 といっても世界ランクが三ケタに近い自分の国の代表チームの試合には殆ど興味がなく、メディアでしか見たことのないヨーロッパのクラブチームの試合ばかりスマホで視聴している。

 数少ない財産の多くがこのクラブチーム関連のグッズの購入代もしくは愛車の整備代に充てられているのも事実で、端から見れば出稼ぎでアウロンにやってきた事を忘れているんじゃないかと思われるくらいの費やし方である。

 そうして集めて整然と並べていた数々の貴重品が、なぜかいきなり落下して傷物になってしまったのだ。ゴンの落胆は相当なものであった。

「あーあー、これはスポーツ番組の抽選にダメ元で応募して運良く当たったレアもんなのによぉ。どうやったらこんな綺麗に凹んじまうんだか」

「……ごめんなさい」

 憚らずに嘆き続けるゴンを見てどう思ったのか、エリシアは彼から目を背けるようにしてなぜか謝ってきた。

「ん、なんでお前が謝るんだよ」

「えっ……いえ……よく分からないですけど……」

 語尾をぼそぼそとさせてはっきりせず、表情を暗くするエリシア。

 彼女が誰かに追われている緊迫した状況は変わっていないというのに、近くで飾ってたグッズが壊れたぐらいで騒がれて不快に感じたのかもしれない。

 そう思ったゴンは散らばった色紙やら写真やらを乱雑に拾い集めて棚の上にとりあえず置き、再びテーブルを挟んで彼女と向かい合うように座る。

「悪い悪い、まぁまぁ大事なものだったからよ」

「……」

「っ、と、とりあえず早く食おうぜ。冷めるし麺が伸びちゃうからな」

「あっ、はい……」

 気まずい空気は相変わらず、ずるずると互いにラーメンを啜る音だけが部屋に響く。

 結局彼女の正体も、彼女が抱えている事情も謎のまま。分かっているのは彼女が怪しい連中に追われる危険な立場にいるという事だけだ。

 そんな彼女の傍にいれば、自分も厄介な状況に巻き込まれる可能性があるというのは、今更考えなくても分かっている。

 なのに、ガラスのようにちょっとした衝撃で壊れてしまいそうな彼女の、言動に垣間見えるミステリアス且つ純粋な心に惹かれてしまって、何とか彼女との接点を失いたくないと今のゴンは思っていた。

 仕事を失った億劫な現状を忘れるための気晴らしに利用しようとしているのかもしれない、一時の気の迷いなのかもしれない。

 だがどれだけ理屈を並べても、もう少し彼女の傍にいたいという気持ちの理由にふさわしい答えは出てこない。

 そんな曖昧なものなのだろうか、一目惚れした人間の感情というのは。

 ついさっき勢いで彼女に迫ってしまった事が途端に恥ずかしく思え、気を紛らわすためにスマホを取り出しテレビ機能を起動させる。

 時刻はちょうど八時を過ぎた頃、液晶画面には国営放送のニュースが映っており、白色のスーツを着た女性キャスターが丁寧な口調でニュースの内容を読み上げていた。

「……爆破事件? って、アウロンの中じゃねぇか」

 画面が切り替わり、テロップと共に夜空を背にオレンジ色の炎を側面から噴き出す高層ビルの姿が映され、傍に映る電波塔が見覚えのあるものと気づく。

 どうやらアウロンに無数に立ち並ぶビルの中の一つ、とある企業保有の建物の二十三階のオフィスで爆発が起きたという。

「……近いんですか?」

「どうだろうな。爆発が起きたのは……えーっと、ブロッサムベンチャー?」

 被害を受けたビルは国内有数の投資企業の本社らしいが、ゴンとしてはあまりそっちの分野に縁がないためピンと来ない。

「ブロッサム……」

 代わりにエリシアが会社の名を呟き、スマホのニュース映像に向ける視線を僅かに険しくするのが見えた。

「知ってるのか?」

「い、いえ……ただ、コマーシャルで聞いた事がある気がしたので」

「ん、そうか……」

 なんというか、今の自分達にはあまり膨らませそうにない話題だったとゴンは後悔する。ぎこちない空気を紛らわそうとして、余計に気まずさが強まってしまった感じだ。

 加えてニュースもテロまがいの爆発という位内容のせいか、エリシアの顔が晴れる訳もなく、それ以上は喋らず湯気が立たなくなったラーメンのカップに目を落とす。

 正直その会社が被害を受けた事自体にはあまり関心はなかったが、よく見ればここから近いエリアでの出来事だと分かって、立ち上がって部屋の窓を開ける。

 ニュースの中継映像が捉えた火災現場は、ネオンの光で溢れかえった夜のアウロンの中でもよく目立っていた。 

 煌々と燃え上がる炎は、しかし距離は遥か遠方にあり、ゴンには全く関係のない事象の一つに過ぎない。

 彼の頭は今、正体の知れないエリシアを、同じく正体の知れない勢力からどうやって逃がそうか、その疑問の答えを探す事ばかり考えていて、この街で無数に起きる犯罪に関心を寄せる暇など微塵もなくなっていた。

 爆発の光をおぼろげに眺め、都会の冷たい夜風に頭を晒しながら、ゴンは出会ったばかりの少女のために何が出来るのか、それが今の自分に必要な事なのかどうかも考えず、知識の浅い頭で悩むのだった。


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