命令と使命
「納得がいきません! どういう事ですか一体!?」
アウロン中心部にそびえ立つ無骨な外観を誇る警察署内の一区画、フロントから一番遠く他のどの部署よりも建物の隅の隅に追いやられる形で存在する特事科のフロアにある会議室にて、ナターシャの悲鳴にも近い金切声が響き渡った。
「だからー何度も言わせないでよナターシャ、いつまで経っても会議が終わらないじゃないの」
「終われませんよこのままじゃ! 捜査を中止しろって、意味が分かりません!」
席から立って目の前の実況机を両手で叩いて怒りを露わにするナターシャに対し、部屋の壁際に立って退屈そうに腕を組む彼女の女上司クローネが努めて冷静に返答する。
本日昼過ぎ、特事科の人間が集まって頻発する超能力の絡んだ事件に関する情報の整理を兼ねた経過報告の会議が行われた。
ナターシャを含む捜査官達が、先日起きたばかりのビル爆破事件を初めとする、マグメルが起こしたとされる事件について手に入れた情報を意見し合っていたのだが、開始から十五分が過ぎたところで遅刻して入室してきたクローネが開口一番こんな事を言ったのだ。
「マグメルが関わってるとされてる事件についてなんだけど、捜査は中止って事になったから」
最初は昨晩のホストでの酔いが覚めないままにつまらない冗談を言っているのかと部下達は顔を見合わせたのだが、どうやら嘘でも何でもなかったらしく、上層部からの正式な通達を受けたという。
マグメルを調べるなと直接言われた訳ではないが、マグメルが関わっていると特事科が推測している事件を悉く指名して捜査を中止しろと一方的に通達されたという。
「中止にする理由が、全く説明されていないじゃないですか! クローネさんは問い質さなかったんですか!?」
「ナターシャ、考え方を変えなさい。どんな理由が大事なんじゃなくて、結局どうしろと命令されたのかが大事なのだよ」
「誤魔化そうとしないでください!」
今まで必死で行ってきた捜査を自ら全て無駄にしてしまうなんて、冗談じゃない。
中止の訳すら説明してもらえないのだから、ナターシャの怒りも最もだ。
だが、それでも他の特事科の同僚が文句の一つも挟まないのは、その命令がこの部署よりも目上の人間から発せられたもので、彼等のまとめ役であるクローネから告げられたものであるからだ。
ただナターシャだけは、真面目で空気を読むのが苦手な彼女だけは引き下がろうとはせず、十分以上の膠着状態が続いていた。
「ともかく、この話はこれで終わりだから。はいはい解散ー」
クローネはそんな彼女の追撃を避けるようにそう告げると、さっさと背を向けて会議室を出ていく。
「ちょっ……待ってください!」
当然ナターシャも諦めはせず、会議室から飛び出してクローネの肩を掴んで強引に引き留める。
「ちゃんと、説明を……っ」
と言いかけたところで、ナターシャは気づく。
振り返ったクローネの浮かべていた表情は、煙たがるでもなく笑って誤魔化すでもなく、ただただ冷たさだけが現れた硬く不気味なものである事に。
「何、説明はした筈だよ」
「いえ、ですから……もっとちゃんとした、」
「あまり調子に乗らないで。いくら希望じゃない部署に配属されたからって、なんでも我儘が通るとは思わない事ね」
「そ、そんなつもりは……私は調べていた事件を途中で放り出したくないだけです!」
「そんなの、あなたの自己満足でしかないのよ。個人で営む探偵ならともかく、警察はガチガチの縦社会、ワンマン主義の捜査員なんて邪魔なだけなのだよ」
いつもふざけた雰囲気を交えながら話すクローネだからこそ、冗談めいた空気を微塵も見せずに話す彼女にナターシャは気圧され、体を硬直させるだけで反論する事が出来なかった。
クローネは「じゃ」と短く挨拶して話を切り上げると、今度こそオフィスから退出していった。
「くっ……!」
一方的に捜査打ち切りを宣告された事にもだが、なによりクローネの迫力に怯んで追及が出来なかった自分に腹が立ち、彼女が出て行った部屋の扉を睨みつけながら歯を食いしばるナターシャ。
「まぁまぁ、クローネさんも命令されて動いてるんだから、あまり恨まないであげなよ」
そんな彼女の肩に手を置きながら、会議室から遅れて出てきたジャンが諭すように話しかけてくる、
「……恨みなんてしません。ただ知りたいだけです、事件の真相を暴く事をなぜ自ら諦めなければならないのか、を」
「位が高い人間である程、秘密を抱えなければならないんだよ。偉い人の言動に影響されるのは、いつも配下の人達だからね。君には分かって欲しいんだけど」
「分かってます! でも……!」
簡単に引き下がる事が正しいと納得など出来なかった。
約半年という時間を捧げてまで調べ続けてきた一連の事件の全容解明がなされないまま、時効でもないのに捜査の成果を投げ出さなければならないのが悔しくて仕方が無かった。
「……今日はあがります」
「え、もうかい?」
「元々マグメルが関わっているとされる懸案の捜査に走るつもりだったんです。事件の捜査自体が中止なら、今日の予定はなくなったようなものじゃないですか」
特事科に舞い込む事件はどれも常識的に考えて不可解な点があるとされるものだが、超能力者の存在が認められつつあるご時世とはいえ一般の犯罪に比べれば発生件数はまだまだ少ない。正確には超能力犯罪だと認知されていない可能性もあるが、事件の情報が無い場合は立場も権力もない特事科が動く事は出来ないのだ。
能力を使った泥棒や暴力沙汰といった、既に特事科に入っている軽犯罪数件は他の同僚達が分担して引き受けているため、専らマグメル関連の事件を調べていたナターシャやジャンはこれからの仕事内容がないも同然の状態だった。
ナターシャは力なく頭を下げると、自分の席から私物であるバッグを乱暴に掴んでトレードマークの黒いコートを素早く羽織り、足早に署を後にした。
「あ~っ……もう!」
そしてその三十分後、ナターシャは帰路に着く途中で立ち寄った、行きつけのラーメン屋のカウンター席の端っこで注文した激辛醤油ラーメンを流し込むように食した後、人目も憚らずに苛立ちを大声として発散させる。
さすがに迷惑そうな顔をする店主店員と驚いて呆気にとられる他の客数人に頭を下げて謝ったナターシャは、冷水を喉に通してからコップを額に押し当て先程あった出来事を整理する。
「くそ、なんでよ。事件の捜査を自ら止めるなんて、警察として本末転倒じゃないの……」
ナターシャは幼い頃から警察官になろうと夢見て生きてきた。志望である刑事事件を扱う刑事課に少しでも近づくため、刑事を多く輩出している名門大学を受験して合格し、卒業後は警察学校で刑事に必要な知識と力を徹底的に叩き込まれ、数少ない女性ながらに刑事課への配属を勝ち取った。
骨のある期待の新人だと教官にお墨付きを貰えるくらいに彼女が警察官として成長出来たのは、犯罪を許さないという苛烈なまでに強い意思を昔から持ち続けていたからだ。
ナターシャには戸籍上父も母もいるが、父とはもう十年近く会っていない。父はナターシャが十歳の時に罪を犯し、現在に至るまで遠方の刑務所に投獄されたままである。
父が犯した罪は覚せい剤の使用、働いていた建設現場の先輩に勧められ、日々の疲れに癒される事を目的に常習的に使用していたらしく、偶然路上で職質を受けた際に発覚した。
麻薬犯罪に厳しいこの国の法律によって無期懲役に罰せられ、父は永遠に塀の中へ閉じ込められる事になったが、犯罪者を家族に持つという事実は残された母子、つまりナターシャと彼女の母への周囲の目も厳しく冷めたものへと変化させていった。
やがてコミュニティからの孤立に耐えられなくなったナターシャの母はある日自殺未遂を図り、一命を取り留めた後は精神系の病院へ入院する事となった。それは今も続いており、ナターシャは職務に暇が出来ればアウロンから電車で片道二時間かけた場所にある病院まで見舞いに駆けつけている。
ナターシャは若くして両親が両親として機能しなくなる不幸に見舞われたが、その際の苦しい経験によってある一つの強い感情を今まで絶えず胸に灯し続ける事となった。
それは、犯罪への強い憎悪。
家族が壊れたきっかけは父の逮捕。麻薬に手を出した事は弁明のしようもないが、麻薬を父に勧めたのは職場の先輩、しかもその男もまた別の人間から麻薬を手に入れていたという。最終的には麻薬売買を生業とする密売組織が控えていたのだろうが、彼等は警察に尻尾を掴まれないよう巧みに販売ルートを隠蔽していたため、元凶である彼等が捕まって罪を償う事はない。
だが本来は彼等こそ、犯した罪を悔い改めねばならない連中なのだ。彼等のような元凶がいなければ、社会生活に疲れた父のような人間が麻薬に走る事などなかったかもしれない、そんな考えに至ったナターシャは、そういった罪の源を根絶したいという殺意にも近い決意を抱き、その願望を叶えるための勉学に青春時代を捧げてきた。
そうして警察官、しかも刑事課という並の人間では辿り着けない、人の罪を探り暴き裁くという職業になることが出来た。
(……自己満足だっていうの?)
上からの命令に従うのは、警察のみならず社会のどの組織でもどの職業でも当然のシステムだ。だから特事科よりも高い地位に位置する部署から捜査を止めろと言われれば、すんなり従わなければならない。
しかし、犯罪の真相を探るために捜査を続けたいと思うのは自分勝手なのだろうか。警察として、悪を許さない存在として、捜査を続けたいという意思は必要ではないのだろうか。
ジャンを初め他の特事科の同僚は素直に命令を受け入れてはいるが、若く未熟なナターシャはどうしても縦社会の摂理に抗いたい気持ちを抑える事が出来ない。
「ゲフッ」
おっさん顔負けのゲップが思わず出て、恥じるのも面倒になって両腕をカウンターの上に置く形でもたれかかる。
そして一度興奮した体を落ちつけようと頭を垂れた時、ナターシャは店内の食器を洗う音や客の声に混じって不自然な音が微かに聞こえてくる気がした。
「これ、サイレン?」
ナターシャは反射的に席を立つと会計を済ませて店を出て、音が聞こえる方向を探す。
「何か、遠くが騒がしいような……?」
ここからでは見えないが、行き交う車の音に混じってパトカーのサイレンが確かに聞こえる。
この通りをずっと進んだ先で何か事故でもあったのだろうか、警察とはいえ特異事件として上層部が判断しない限り基本的に事件事故の情報は入って来ない特事科の人間には、例え身近で起きた事案だとしても知る由がないケースが多い。
どうせ自分には関係のない事だろうと分かっていながらも、関心からネットで調べようとスマートフォンを取り出そうとした時、
「ん? 着信?」
丁度初期設定のままのコール音がコートの内側から鳴り響き、人混みから避けるように歩道の端に寄る。
「誰よこれ……間違い電話?」
手に取ったスマートフォンの画面に映る着信相手の番号には見覚えがなく、怪訝そうに眼を細めて一瞬出る事を躊躇ったものの、通話のボタンを押して耳元にあてる。
「……もしもし」
「あ、繋がった! もしもし俺です! ゴンです!」
音割れがするくらいの大声で聞こえてきたのは若い男の声、名乗りを聞いてナターシャは昼頃銃撃騒ぎのあったアウロン中央駅前で被害者の一人として聴取した青年だと気付く。
「あー、え、どうしたの急に」
「助けてください! ヤバイ奴等に追われてるんです!」
明らかに焦った様子の声に混じって荒れた吐息や走る足音が聞こえ、電話の向こうにいるゴンが只事ではない事態に陥っている事が分かる。
ナターシャはラーメンで満腹になって緩みかけていた心身を真剣モードに戻すと、目の色を変えてスマートフォンに耳を傾ける。
「何、どういう事? 暴漢にでも襲われてるの?」
「銃持ってる奴等とか、超能力者とか、とにかくヤバイです!」
「超能力……まさか、マグメル!?」
「それもいます! このままじゃ本当に殺されそうなんです! 助けてください!」
まさかこのタイミングでマグメルに接触出来る機会が舞い込んでくるとは、ナターシャはさらに詳しく話を聞こうとする。
「今どこにいるの、相手は何人? あなたは一人なの!?」
「っと、廃ビルがいくつかあるところで、場所は分かりませんすいません! 一人じゃないですけど、敵も味方もいっぱいいるっていうか……うわっ!」
鼓膜を割くような爆音がゴンの悲鳴と共にステレオから飛び出してきて思わずスマートフォンから顔を遠ざけたナターシャは、事態が一刻も争うと判断する。
「あっ……何すん……おいっ! あ!」
「ゴンさん? あれ、ゴンさん!?」
何か他の人物と口論するような声に続いて通話が唐突に途切れてしまい、その後こちらから通話を試みるも繋がる様子はなかった。
「くっ……廃れたビルが多くあるのは……っ!」
新しきが古きを消し去っていく先進都市アウロンにおいて、過去の遺物として人気のないエリアというのはシワ寄せとして必ず発生している。ネットで調べてみても複数の情報がヒットし、ゴンが今いるとされる地点が果たしてその中にあるのかどうか特定するには至らない。
「彼と別れて半日も経ってない、車で移動し続けたとしてもそう遠くはいけない筈……」
ネットの地図で現在地とその周辺地域の情報を目で追ったナターシャは、北の方角に都市計画の失敗から買い手がついていないビルが多くある地区の存在を知り、まずはそこに向かう事にする。
「とにかく急がないと……マグメル絡みだったら尚更……!」
放っておけない、そう言いかけてナターシャは思い出す。自分が今日こんな昼間から街の中に仕事もせずにうろうろしているのは、マグメルについての捜査を中止しろとの命令に従ったからだと。
実体が掴みきれなかったマグメルが今、何らかの行動を起こしているのはゴンからの通話でも明らかだ。マグメルが関わっているとされる事案への干渉は認めないとクローネが口にした言葉に従うならば、ゴンを助けようとする事は命令違反にあたるのではないか。
数秒間だけそんな疑問が頭に過ぎり、体を硬直させてしまうナターシャだったが、
(……違う、これは単に困ってる人を助けるってだけ!)
刑事課でも交通安全課でも少年課でも、目の前に何らかの脅威に襲われて助けを求める人間がいたら助けるのが当然だ。たまたまその脅威が今回はマグメルという特殊な存在であるだけで、何も躊躇う事などない筈だ。
そう解釈するとナターシャは、やはり自分はあのクローネからの命令に従う気にはなれないのだと理解し、フッと一つ嘆息して呼吸を整える。
割り切ってしまえば悩む事などない、不思議と肩の荷が下りた錯覚にナターシャは鬱屈さが混じっていた表情に血気を取り戻し、迷いを振り切るように走り出す。
(ごめんなさいクローネさん、ジャンさん。私は警察には向いてないみたいです、でもやっぱり……見て見ぬふりは出来ない!)
正義感か自己満足か、他人から見れば様々に捉えられるであろう動機を胸に彼女は今出来たばかりの目的を果たすため、昼間の市街地を駆けていく。
犯罪者は許さない、犯罪による被害者を出したくない、彼女の生きる意味であった願望に従って、助けを求めてきたゴンという青年を救うために。




