とばっちりの現実逃避
東アジアのとある位置に存在する沿岸部の大都市、アウロン。
経済と商業と観光の分野で著しい発展を遂げており、旅行やビジネス、起業といった様々な目的を持った人間が国内外を問わず毎日のように押し寄せ、彼等の作り出す活気や喧騒によって日々姿を変えていく眠らない街だ。
華やかな建物が立ち並ぶ商業区画があれば、お堅いビジネスマンが早足で闊歩するオフィスビル群もあり、沿岸部は健康に悪そうな灰色の煙を吐き出し続ける工場地帯で埋め尽くされ、少し奥へ入ればそんな騒がしい場所の陰に隠れるようにひっそりと存在する薄汚れたスラム街も存在する。
裕福と貧困、綺麗と汚濁、夢と現実、正義と犯罪、正反対の事柄が入り混じる異様でそれが当たり前な光景が各所に潜んでいるのがこの街の当たり前の姿である。
いくら世界的にも豊かな都市だからといって、そこに住む者全員が豊かで充実した生活を送っている訳ではない。
大都市であるからこそ無数に存在する仕事を求めて地方から単身やってきた出稼ぎ労働者がその一番の例である。彼等は少ない持ち金で食いつなぎながら、安定した職を日々求め働く事に必死なのだ。
「うぇっ!? そりゃさすがに急すぎるんじゃないすか!?」
アウロン郊外にある海外から進出してきた企業傘下の工場が立ち並ぶ工業地帯の中の一角、大手電機機器メーカー北芝の製品工場の事務所にて叫び声を上げたのは、派遣社員として入社し三ヶ月目を先週迎えたばかりの二十歳の青年であった。
「こちらとしても心苦しいのだがね。怪我で休職中だったホワン君が戻ってきて、工場内の従業員の定員がオーバーしてしまうのだよ。人件費にはシビアでないといけないからね、悪いが受け入れてくれたまえ」
「クビにするにしても、せめて猶予をくださいよ! 横暴です!」
必死に食い下がる青年に対し、工場の責任者の男は面倒臭そうに目を細めながら、淡々と反論する。
「元々補充要因の派遣として採用してやったんです。それに人数が限られている以上、専門的な技術を持つ代わりの効かない人間を選ぶのは当然でしょう」
「けど……!」
「君のような若い子なら、働き手はどこにでもあるさ。終了時間までに他の社員に一応挨拶はして帰ってくれたまえ」
これ以上話す事はないと、男は自身のつくテーブルの上のパソコンへ視線を移し、青年との会話を終わらせた。
まだ反論し足りない青年だったが、周りの社員達の鬱陶しがるような視線に気付き、どう足掻いたところでこの件は決定されてしまった事なのだと悟り、憤りを抑えながらオフィスを後にする。
今すぐここを飛び出してやりたい気分だったが、時給制のため少しでも多く給料を貰おうとちゃっかり定時まで働いてから、青年はトボトボと二度と訪れる事はないであろう工場を愛車の灰色のコンパクトカーで後にした。
夕暮れに差し掛かって、アウロンの市街地は仕事帰りの人々で溢れかえり既に混雑気味になっている。
この街には休むという概念はない、朝も昼も夜も常に多くの人間が活動し、様々な出来事が各地で発生し、それが日常の光景として感知される事もなく時が流れていく、そんな絵に描いたような大都会である。
昼に突然クビを宣告された二十歳の青年ゴンは、買って三年目の中古車を走らせアウロン市街地の中心部、通勤通学帰りの人間や観光客を目当てにした商業地区を訪れ、路上の適当な場所に停車させる。
目的は夕食の確保、立ち寄ったのは飲食関係の店舗が立ち並ぶ通りの中では比較的こじんまりとした食料品の小売店であった。
「あっれー? ゴンじゃん。お久~」
入ってすぐ傍にあるカウンターの近くでテレビを眺めていた、茶髪に赤いサンバイザーの格好をした店員らしき二十代前半ぐらいの女性が身を乗り出して声をかけてくる。
「あぁ……」
ゴンは素っ気なく答え、あまり目を合わせないよう店の奥のインスタント系の商品が並べられたエリアへ向かい、手にとったカゴに目についたインスタントヌードルを値段も見ずに片っ端から放り込んでいく。
「うっは、すっごい量! あっ、そんなに多く買うって事は、もしかしてまたちょん切られちゃった?」
「うるせぇよ、それが客に対する態度か!」
ゴンは女性が右手を手刀のような形にして自らの首の前にかざした仕草の意味に気付き、露骨に不快感を露わにした。
「だっていっつもそうじゃん? そんな不機嫌丸出しな時って、決まって仕事クビになった直後だもん」
ゴンはこれまで何度も解雇を経験している。
経験してきた職業は全て非正規雇用であり、仕事の辛さの割には給料は安く、会社の都合で簡単に切り捨てられるような立場ばかりであった。
このアウロンにゴンがやってきて、先程まで勤務していた工場が七つ目の職場だったが、今日で解雇された数も七回目となってしまった。
そしてゴンはそれに腹を立て、憂さ晴らしに好物のカップラーメンを帰ってやけ食いしてやろうと、贔屓にしているこの店までやってきたのだ。
「ほんと、三か月持たないよねぇ」
「あー! 言うなっての! 仕方ないだろ、正社員が戻ってきたらどうやっても勝てねーって!」
「次の仕事見つかるまで、うちで雇ってあげよっか? アルバイトだから非正規に変わりないけどね」
「……接客とか、なんかめんどそうだし」
「選り好みしてる場合じゃないでしょうに」
うるせーうるせー、と店員の女性を急かしてレジに持ってきた二十個近くのインスタントヌードルの会計を終わらせ、それらが入った袋を受け取り、ゴンは乱雑に料金を払う。
「頑張ってね~」
慰めと嘲りの混じった声で手を振る女性に一瞥だけして店を去り、止めてあった車のところまで戻ってから自宅への帰路についた。
「……くっそ、ムカツク」
ハンドルを握りながらゴンの口から出たそれは女性店員にではなく、自分をクビにした会社への言葉だ。
今日解雇された会社のみならず、今まで働いてきた職場全てで常に真面目に勤務してきた。
言葉遣いや態度がとても礼儀正しかった訳ではないが、指示された事は拒絶せずきちんとこなしてきたつもりだ。
それなのに、やっと軌道に乗ってきたと思った矢先、会社の都合によって首をはねられてしまう。
収入が安定しなければ、生活も安定しない。
出稼ぎのために田舎からわざわざこんな騒がしい大都会までやってきたというのに、故郷へ送る金どころか自分の生活のための金も満足の稼げないのでは本末転倒だ。
彼の苛立ちに比例するように、運転する車の速度はじわじわと上がっていく。
大して獲り得のないゴンだが、乗用車の運転にはそれなりに自信がある。解雇された日に自宅へ帰る時はわざと回り道をして少しでも長く車を走らせ、気を紛らわせようとするのが彼の癖のようになっていた。
習慣化はしないようとっとと定職につきたいと、毎回思ってはいるのだが。
片側三車線の大きな交差点の信号に掴まって車を停車させたところで、ゴンは窓越しにサイレンの音が聞こえてきた事に気付く。
多種多様な人間で溢れかえるこの大都市アウロン、当然良い奴もいれば悪い奴もいる訳で、犯罪発生数は東アジアでもトップクラスらしい。
なのでこの街では常にどこかで警察沙汰が発生していて、サイレン自体は大して珍しくもなかった。
ゴンが気にしたのは、その数が異様なまでに多く重なり合って聞こえたからだ。
とはいえ所詮自分は関係のない、対岸の火事の出来事。すぐに信号機の赤が長い事の方に関心が移り、しばし仕事の疲れから呆けていると、
「んっ」
ドンドンと車の左の側面、歩道に面した部分が何かに小突かれるような音がして、驚いて顔を窓の外に向ける。
目に映ったのは、質素な紺色のワンピース姿の少女が彼の車の助手席の窓を小さな拳で何度も叩いている様子だった。
(んだよ、厄介事は御免だっての)
窓を叩く速さから焦っているのは明らかで、その少女が何か切羽詰まった状況に陥っているのが見て取れる。
巻き込まれてたまるかとすぐに目を逸らしたゴンだったが、信号はなかなか青にはならず、少女も諦めて離れようとはしない。
気にせず無関心を貫けば良かったものの、元々荒れていた彼の精神状態が我慢するだけの余裕を持っていなかった。
「あーもう!」
痺れを切らしたゴンは助手席の窓を半分だけ開け、外の少女を睨みつけながら一喝しようとする。
「なんだよ!」
「助けてください!」
だがそれを遮るように、少女の切羽詰まった叫び声が車内に飛び込んできた。
「っ……タクシーでもパトカーでもねーんだぞ!」
「分かってます、でも乗せてください! お願いします!」
窓から上半身を突っ込んで嘆願してくる少女は、夜の闇の中でも輝くような亜麻色の長髪が特徴的な、幼さが残るもののアジア系の整った容貌の持ち主だった。
年齢はゴンよりいくつか下だろうか、この街ではあまり見かけない、垢抜けていない雰囲気を持っている。
「……どこかに行くのか?」
「ここから離れたいだけなんです!」
「……んぁ~! あー分かった、早く乗れよ!」
困った人は放っておけない、なんて格好つけた事は言わない。
単純に、その少女が可愛いと思ったから、とりあえず要求に応じても良いだろうという下心による判断であった。
「ありがとうございます……!」
そう感謝してから少女は、なんと窓から直接車内に入ろうと、扉にしがみついて強引に小さな体を潜り込ませてきた。
「ちょっ、待て待てお前! 開けてやるから! 俺の愛車に傷がつくだろ!」
鍵を外し扉を開くと、少女は飛びつくように押し入ってきて、すぐさま勢いよく扉を閉めた。
ちょうど信号も青になり、とにかくこの場から離れようとゴンはアクセルを踏み込み車を直進させる。
直前まで走り回っていたのか、少女の呼吸は乱れ肩が激しく上下していた。
玉のように噴き出した汗が絹のような彼女の肌の上を流れ落ち、乱れた長髪が疲労の度合いを物語っている。
「あ……っ」
何をそんなに焦っているのか、一瞬尋ねようとしてゴンはやめた。
赤の他人である自分の車に乗せてもらうよう凄んできた事、何かから逃げるように発進を促してきた事、切羽詰まったその姿から、彼女が面倒事を抱えているのは明らかで、それを知ったせいで巻き込まれる可能性を危惧したからだ。
ちらちら彼女の様子を確かめるだけで、ただ黙ったまま車の運転に集中しようとする。
そのままゴンの乗る車が交差点を通り過ぎ速度が出始め、ミラーで周囲を確認したところで、ゴンは視界に映った光景に違和感を覚えた。
前方と後方に一台ずつ、それから右側の車線に二台の車が走っている、それ自体は別におかしい事ではない。
ただ、それら全てが同じ車種、同じ黒塗りのセダン、そして全てがゴンの乗る車に引き寄せられるようにじりじりと距離を詰められていたのだ。
気が付けば、左は歩道それ以外の方向は黒塗りセダンで囲まれ、走りながらにして自由に動く事を封じられているような格好になっていた。
「こりゃ……一歩遅かったか?」
少女を乗せてまだ五分も経っていないのに、不穏な空気が漂ってきている。
これから何が起こるのか想像もしたくないゴンが溜め息を一つつくと、並走するように走る右側の車のうちの一台がクラクションを鳴らして注意を引いてきた。
見れば、助手席にいる男が手招きするようなジェスチャーをしている。
(ついてこい……って?)
男の持つ物騒な雰囲気からなんとなくそう促されていると察し、ゴンの心臓の鼓動が緊張感で加速していく。
しばらく直進して、前方の車がある場所でウインカーを出して左折の合図をした。器用なもので、無理に突破されないよう隙間を開けず、尚且つ左折だけは出来るよう複数のセダンは絶妙に加速減速を繰り返し、ゴンの車を有無を言わせず広い三車線の道から背の高い建物に挟まれた一本道へと誘導する。
大通りから離れ、細い道の真ん中辺りまで来たところで前の車が止まり、仕方なくゴンもブレーキを踏んだ。
「カツアゲでもされるのかよ、俺」
これから自分が何をされるのかを憂い、解雇で既に落ち込み気味だった精神がさらにすり減っていく。
「ごめんなさい……」
と、助手席の少女がボソリと申し訳なさそうに弱々しい声で呟いた。
「……てことは、やっぱお前と関係あるんだな?」
ゴンの問いに、少女は力なく頷く。
同じタイミングで、ゴンは黒塗りセダンから降りてきた男達の姿を見ながら溜め息をつく。
いかにもまともな表社会で生きているとは思えない、冷淡な目をした軽装の欧米系の男達がゾロゾロとゴンの車を取り囲み、そのうちの一人が降りろと窓を叩いて指示してくる。
「ごめんなさい、巻き込んでしまって。私が出ます、私が出れば……!」
ゴンよりも早く扉に手をかけ降りようとする少女の、悲哀と諦めの感情が込められた表情を横目に見たゴンは、何か胸にごわごわとした歯がゆさを覚えた。
「ん」
そして無意識に、なぜか彼女が開けようとした助手席の扉の鍵をわざとロックし直していた。
「あっ……あれ?」
戸惑う少女を置いて、ゴンは不審な男達の待つ外へと降り立った。
「一体何の御用でしょうか、ただのフリーターである自分に……っ」
慎重に言葉を選んだつもりだったが、相手は最初から話を聞くつもりなどなかったのだろう。
次の瞬間には、ゴンの体は地面にうつ伏せに組み伏せられ、後頭部を鷲掴みにされて顔を冷たいアスファルトに押し付けられていた。
「だめっ……やめてください!」
車内から少女の叫び声がしたが、男達は不気味なまでに無言のまま車から彼女を手早く引きずりおろし、自分達が乗ってきた黒塗りセダンの一つへ移そうとする。
「ば……誘拐、だぞ……おい!」
苦し紛れに言葉を漏らしてみるも、ゴンの身動きを封じる男は頭を抑える腕の力を強くして無理矢理口を黙らせてきた。
「何も見るな、何も聞くな、それが君の取れる最善の判断だ」
落ち着き払った脅し同然の忠告を受け、ふざけるなと言い返したくなるゴンだったが、思うだけで言動に移す事すら出来ない。
「やめて、触らないで……んぐっ……!」
ドスンと鈍い音が聞こえ、何が起きたのかと眼球を動かして確認出来たのは、男達の一人が持っていた警棒らしきもので少女の懐を殴りつけ、彼女の身動きを鈍らせていた光景であった。
苦悶の表情のまま、両腕を二人がかりで掴まれて男達の車の後ろの席に連れ込まれそうになる少女。
その姿を視界の端で目撃したゴンはこのままされるがままでたまるかと自然と体が抵抗しようとするが、
「ガッ……!」
そのまま押し潰すぐらいに力を強められ、声どころか呼吸すらままならなくなりもがき苦しむ。
「~~~っ、その人は関係ない、離し……!」
ゴンを気遣うような言葉を発しながら、男二人の腕に拘束された小さな体で必死に抵抗しようとする少女。
その少女の背後にスッと一人の青年が姿を現す。
他の男達が欧米系なのに対し、彼はアジア系の面立ちをしており、軍隊のように統率のとれた動きをする男達の中で彼は一人だけ浮いているように見える。
とはいえ、物騒なオーラを纏っている点は変わらない、全身黒のスーツ姿の彼は他の男達による少女の拘束を背後からしばらく眺めた後、眉間に僅かに皺を寄せてから右腕を少女の頭へ伸ばした。
「あっ……!」
彼の手が軽く触れた瞬間、少女の表情がしまったという驚愕と焦りの混じったものに変わったように見えた。
「ロウ……!」
そして少女が振り返って口にしたのは、青年の名前らしき言葉だった。
「なんでここに……!?」
「苦し紛れに暴れられたら都合が悪いからな」
「っ……返して!」
口振りから互いに知り合いなのだろうかと推測出来たが、今はそんな事はゴンにとってどうでもよい。
(勝手に揉めてるうちに、なんとかしないと……!)
身動きが取れない以上、唯一自由な目でこの窮地を脱出するためのきっかけがないか必死で探る。
「嫌がっているくせに、取り上げられたらよこせとは、ずいぶん身勝手なものだな」
「く……!」
男は少女に触れただけのようだが、少女は彼に何かを奪われたという風な事を口にしている。
会話の内容が全然意味不明なため、ゴンはまともに聞かないようにして、逃げるための方法の発見だけに意識を割く。
「んんっ……! ん?」
そのゴンの耳が、遠くで唸りを上げる車のエンジン音を捉える。
それはどんどん大きくなり、このビルとビルに挟まれた狭い道を突き進んでいる車両が近づいてきている事を示していた。
「おい止まれ!」
道の向こう側から現れたヘッドライトを上向きにした白塗りの車の接近に、男達が制止を叫びながら懐から拳銃を取り出し威嚇、止まる様子がないと分かるや否や躊躇なく発砲する。
だが白塗りの車は止まる様子はない、むしろアクセルを吹かせてさらに速度が上がっている。
いよいよまずいと判断した男達は車を避けるように道の端へ逃げ、その最中ゴンを取り押さえていた男もまた自らの身の安全のために退避し、お陰でゴンの体は自由を取り戻した。
「って、ヤバッ!」
男がゴンを放って離れたという事は、ゴンを抑えていれば車に跳ねられると判断したからだろう。
ならばゴンがこの場に留まっていて安全な筈はない、慌てて立ち上がる突っ込んでくる車の進路から避けようとする。
白塗りの車はゴンの車の右側、少女が拘束されている方を避けるような進路で複数の黒セダンに突っ込み、衝撃でガラスや車体等の破片を爆音と共に周囲に飛び散らせる。
衝突を受けたセダンが別のセダンにぶつかり、ビリヤードの球のように連鎖して玉突き事故が起き、数秒ほどして両側の壁につっかえて止まる。
その暴れる車の脅威をゴンは寸前で飛び退いて回避するが、少女を捕らえようとする男達の一部は巻き込まれて豪快に吹き飛ばされる。
「ひぃっ!? なんなんだよ!」
唐突な大事故に腰が引けたゴンが尻餅をついていると、突っ込んできた白塗りの車は壁に側面をぶつけてようやく止まり、中から一人の人間がふらふらとした足取りで降りてきた。
「いやーはっはっは、思ったより威力低かったみたいだし~?」
現れたのは褐色の肌を持つ背の小さな少女、半袖シャツとショートパンツ、とことん短い茶色の髪という快活そうな出で立ちをしている。
「ま~いっか、エリシアを巻き込まなければ他はどうでもいいと思ってたし~」
ケラケラと笑って見せる褐色の少女だが、この狭い道で彼女の乗っていた車は時速六十キロ以上は出ていた、ぶつかった側とはいえ乗っていて只で済む訳もない。
彼女の額は流れ落ちる赤い血の太い線が走り、左腕には目を背けそうになる大きな裂傷が縦に入っていた、まさにボロボロだ。
白塗りの車から降りてきたという事は、彼女が運転をしていた事を意味し、さらにはこの場にいた男達を跳ね飛ばした張本人であるという事にもなる。
なにより、この場にふさわしくない容姿の彼女の右手には、彼女にふさわしい物騒な黒い機関銃らしきものが握られていたのが、異様さを際立たせていた。
「……マグメルの女」
他の男達と違い、スーツ姿の男は動揺する様子もなくそんな事を呟く。
「いっけないし、てめえらみたいな男共が、エリシアに触ってるなんて!」
気の抜ける笑みは絶やさず、しかし褐色の少女は語気と眼光だけを攻撃的なものへと変化させ、亜麻色の髪の少女……エリシアという名前らしい彼女の腕を掴む男達の方へと銃口を向ける。
男達の方も拳銃を構えて褐色の少女に対し、躊躇いなく引き金に指をかけた。
「ばっ……マジかよ!」
まさか、と思った自分が馬鹿だったとゴンは恥じた。
両者共威嚇を抜きにしていきなり銃撃を開始し、夜の市街地に耳の痛くなるような弾丸の放たれるやかましい音がいくつも重なり合って響き渡る。
男達の方は車の陰に隠れながら弾丸の雨を浴びせ、対する褐色の少女は怪我を負っているとは思えない軽やかな動きで車の上を次から次へ飛び移り、銃撃を回避しながらエリシアの方へと向かっていく。
壁や車のボディに次々と穴が開く中、撃たれて苦しむ者は誰一人現れない。互いに戦い慣れているのか、只者じゃない連中だというのが見てわかる。
「いたっ!?」
と、エリシアまであと車一台というところで褐色の少女は体勢を崩し車の屋根で膝をついた。どうやら右足首も負傷していたらしく、赤黒く痛々しい色に染まっている。
そこへ放たれる弾丸の嵐、褐色少女は両腕で顔を庇うが身を守るには到底至らず、派手に建物の壁の近くまで吹き飛ばされた。
目の前で人が撃たれた、その事実がすぐには飲み込めず、ゴンは地面にへたりこんだまま口をパクパクするだけで動けない。
男達の方は少女を銃撃した事を気にするでもなく、トドメを刺さんと車を回り込んで少女の近づこうとしている。
「っ、待て、上にいるぞ!」
ゴンのすぐ近くで、ゴンを取り押さえていた男が顔を上げながら叫ぶ。ゴンも釣られて視線を頭上へ動かすと、
「人……?」
道路を挟む二つの建物の屋上から、こちらを覗き込むようにして見下ろす人影が複数確認出来た。
数は十以上、一体何者なのかとゴンが困惑していると、近くでボウっと何かが焼ける音が聞こえてくる。
「うわっ、なんだ、火!?」
横を見れば、銃を構えていた男達の腕や頭にオレンジ色の炎が点いており、消そうと躍起になって体をばたつかせている光景が広がっていた。
続けて別の方向からも男達の慄く声、視線を動かすと今度はいつの間にか現れていた若い少年の集団が男達に襲いかかり、混乱が深まっているのが見えた。
(どこからこんな数がやってきたんだ……?)
近づいてくる気配や足音は皆無だった、まるで突如その場に出現したように、棒や鉄パイプで武装した血の気の多い若者がそこにいた事に、ゴンは違和感を覚える。
ハッとして見上げると、建物の上に先程までいた筈の複数の人影が見えなくなっていた。
まさか今男達と乱闘している若者達がその人影の正体? ありえないと思ったが、数的には同じ位な気がして変な想像が浮かんでくる。
「あっはっは~、そのままやっちゃってし!」
あっという間に大勢の人間による暴力で満たされた空間の中で、褐色の少女のへらへらとした声がやけに通って聞こえてくる。
「……っ!?」
ゴンは軽いパニック状態に陥る中、その声を自分の鼓膜が捉えた事自体に驚愕してしまった。
数秒前に銃で撃たれた筈の少女が、何事もなかったかのようににやついた顔で車体の上に仁王立ちしていたからだ。
「なっ、かっ……あ、そうだあの子は……!?」
色々あり過ぎて頭の理解が追いつかないゴンは、男達に捕えられていた少女がどうなったかを確認すべく視線を周囲に走らせる。
混乱の中、少女を捕らえていた男達もまた襲ってきた連中への対処に躍起になっているようで、少女は離れた場所で壁に背をもたれたまま、目の前の光景に圧倒されて怖気づいていた。
「くっ……あぁもう!」
一度放って逃げようと思ったが、しかし彼の体はそれを選ばなかった。
「おい、早く逃げるぞ!」
「えっ……」
頭を抱えながら低い姿勢で駆け寄って退避を促すも、少女は面を食らったように目を丸くして体を固まらせている。
そんな彼女の手を取って、走り出そうとするゴン。
「あ、ちょっと待ってください!」
少女は動かしかけた足を止めて、近くで少年達の攻撃に対処しているスーツの男へと接近する。
「っ!」
手を伸ばし、スーツの男の手に叩くように触れ、今度は彼から逃げるようにゴンの元まで駆け寄ってきた。
スーツの男はというと、しまったとばかりに顔をしかめ、ゴン達の方を睨みつけて、
「待て、エリシア!」
「返してもらうから……!」
少女は精一杯に大きな声を出して、男に言い返した。
事情はよく分からないが、とにかく少女もこの場からの離脱を望んでいるらしい。
ゴンは今度こそ少女の手を乱暴に握りしめると、ドアが開けっ放しになっていた自分の車の助手席に彼女を推し込み、急いで回り込んで自らも運転席に乗り込む。
「止めろ!」
途中、スーツの男の指示を受けて近くにいた男達の一人がすかさず銃を向け発砲してくる。
(やべっ……!)
撃たれる、そう直感し全身に気持ちの悪い寒さが駆け抜けたゴンだったが、
「ダメ!」
亜麻色の髪の少女が短く叫んだ直後、乾いた音に続いて放たれた弾はゴンを大きく外れ、建物のコンクリートの壁に穴を開けた。
(なんだ、今……?)
一瞬、強風に煽られたような不自然な感覚に襲われたゴンだったが、弾丸飛び交うこの場に立ち止まっていられる程肝が据わっている訳もなく、急いで自分の車に急ぐ。
「勝手すんなし!」
その様子を眺めていた褐色の少女が銃を乱射し彼等を牽制、呼応するように少年達もまた手にした長物を振り回して乱闘になる。
理由は分からないが、褐色の少女や若者達もこのエリシアと呼ばれる少女と何らかの関係があり、他の者に渡したくないように見える。
不明勢力同士の小競り合いのお陰で、ゴンはなんとか車のドアを閉める事が出来た。
「シートベルト着けろよ!」
「えっ……?」
「そこの紐掴んでろって言ってんだよ!」
言いながらシートベルトを少女に装着させてやって、ゴンは車のギアをリバースに入れ、首を後ろに向けながらアクセルを吹かす。
紺色の中古車はブルルルと野太いエンジン音を出しながら猛スピードでバックし、ただでさえ狭い上に加えて何台もの車がバラバラに止まっている入り組んだ状態の道を荒いハンドルさばきで縫うように走り抜ける。
途中何度か他の車や壁に車体の端をぶつけたが、それでも強引に大通りへと車を出したゴンは、ぐるぐるとハンドルを切って歩道に乗り上げながらも車道に沿って一気にその場から離脱した。
「エリシア! 戻れ!」
「エリシアー! 後で迎えに行くからね~!」
直前にスーツの男と褐色の少女の叫ぶ声を窓越しに聞きつつ、ゴンの車は活気溢れる夜のアウロンの中に溶け込んでいく。
(……何が起きても俺関係ねーぞ!)
ゴンは気持ちを落ち着かせるように内心で言い聞かせて、ハンドルを握る手に力を込め、隣の席を一瞥する。
「っ……ふぅー……」
疲労しきって呼吸を見出し肩を上下させる、亜麻色の長髪の少女。この華奢で弱々しい少女がなぜ、あれだけ大勢の人間、しかも怪しげな連中に狙われているのか。
只のフリーターが首を突っ込んではいけない何かに触れてしまったのではないかという不安を常に感じながらも、少女を正体不明の連中から逃がすためにアクセルを踏むゴン。
その心中には焦りや動揺と共に、理由の分からない高揚感のような感情も入り混じっていた。