愚痴
「……申し訳、ありません、ワン様。仲間に銃を向けた上に、逃走を許してしまって」
「んんんんんんんん~……! むしろタイヤを狙っただけ良心的です、私なら迷わず窓を撃ってた。どうせ防弾仕様だし」
怒るというより呆れた様子で、ワンは頭を掻き毟り、髪を地面に散らしていく。
「どうなさいますか」
「ん~……とりあえず私はボスに報告する。それぞれのシマのアタマに、任せられている構成員の半分を捜索に、残りは有事に備えて待機させろと伝えろ。抗争前のつもりでいろと、な」
マルグリテに対する時は違い、命令口調でワンは苛々しながらも淡々と各員に指示を出し、すぐさま行動に移させる。
「私も、追いましょうか」
「んん~……きな臭くなってきたから、お前ぐらいは護衛につけておかないと、さすがの私も心細いんだがね」
「……分かりました」
口調こそ変わらないが、アイギスの態度はマルグリテと対していた時よりも幾分落ち着き、且つ僅かだが纏う空気が柔らかくなっていた。
マフィアは全て男で構成され、良く言えば伝統的悪く言えば古臭い習慣に基づく組織であり、女は所属する男の妻であったりパートナーであったりとあくまでも補佐的な役割でしか組織の一員として認められない場合が多かった。
冷静かつ堂々とワンの傍に仕えるアイギスもまた性別上は女性であり、男達に混じって幹部であるワンのボディーガードとして登用されているのは普通の考え方ではありえない事であった。
彼女は幼い頃は郊外のスラムに住んでいた。貧困を理由に親に捨てられ、ただ生きるためだけに食べ物や金品を求めて昼夜を問わずに街を駆け回り、何度も怪我したり殺されかけたりしながらも死にもの狂いで食料を確保してきた。無論働いて稼いだ金で買ったのではなく、目についたものを手当たり次第に奪い取るという方法でだ。
ある時スラムの近くで目撃した羽振りの良さそうな複数の男達に狙いを絞り、隙を突いて身に着けていた時計を奪おうとしたが、その男達は縄張り内の見廻りをしていた逆鱗の構成員であり、荒事に慣れた彼等の前に当時十歳だったアイギスは瞬く間に組み伏せられた。
殺される、犯される、そんな未来が頭を過ぎった彼女だったが、その時彼女を返り討ちにした男達のうちの一人がこんな事を口にした。
『ん~、若いのに良い動きだな。お前、スラムの人間か?』
その一言をきっかけに、アイギスの人生に大きな変化が訪れた。
元々高かった運動神経に、スラムで養った命知らずな度胸を併せ持つ彼女に興味を持ち、戦力として期待して身柄を保護してくれた男こそ、今彼女が仕えるワンであった。
住処を与えられ、食事を与えられ、彼の護衛という仕事を与えられたアイギスは、ワンに対してとてつもなく大きな恩を感じており、一生をかけて返すつもりで日々マフィアの幹部という常に命を狙われる危険さえある負担の大きい役職を担うワンの命を守る事に全身全霊を懸けていた。
彼女が忠誠を誓うのはワンであり、逆鱗ではない。よって逆鱗のボスの娘であるマルグリテの顔色を窺うように振る舞いや言葉遣いに気を遣う他の構成員達の気持ちが理解出来ず、故に先程のようにマルグリテの乗る車に発砲するという暴挙も平然とやってのけたのだ。
最も、マルグリテはマフィアの娘としては問題児であり、彼女を止めるためならあれくらいやっても仕方がないという考えを多くの者が抱いているからこそ出来た行為でもあるのだが。
「んんん~……あの親馬鹿ボスにマルグリテ様の事を話すだけでも億劫になるんだがね」
「私が、代わりに、電話しましょうか?」
「ん~……娘に銃を撃った事とボスに知られれば、冗談抜きで殺されるからやめておけ」
はい、とアイギスは一言返事をしてから、日差しの刺し込む穴の開いた店の壁の方を見る。
(……好き勝手して)
自分が唯一信頼を置くワン、彼の頭を常に悩ませてきたトラブルメーカーのマルグリテに、アイギスは溜まってきたストレスと怒りをぶちまけたい気分になっていた。
機会があれば必ずマルグリテを捕まえて、ワンに今までしてきた好き勝手な行動の詫びをさせてやりたいと。
ワンを守る事だけを考えて生きてきたアイギスが、ワンを守る事以外に抱いた久しぶりの感情は、敵意にも近い熱く衝動的なものであった。