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07 兄ちゃんの誕生日

 ◆


 俺ことゼオル=ロアは、年が明けて十も日を跨がない冬の夜、小さな宿屋の長男として生を受けた。


 その頃から宿の客入りは少なく、決して裕福ではなかったものの、二人の両親に父方の祖父と祖母、そして飼っている家畜たちと賑やかで暖かな毎日を過ごしていた。

 当時まだ幼かった俺には、この小さな宿屋と、礼拝へと向かう教会までの路が世界の全てだった。

 でも、教会の神父さまや宿に泊まりに来る兵士たち、そして大好きな祖父から聞く話のお陰で、自分の暮らすこのちっぽけな世界が、多くの人々に支えられている事実を知った。


 自分の暮らす国の悲しい過去を知り、苦しい現状を知り、そして目指すべき未来を知った。


 そんな祖父の話を聞いた後の俺は、決まって自分が『フェイスレスを倒すんだ』などと息巻た。

 国を守り、領土を取り返し、化け物を倒して世界を救う。そんな有触れた英雄譚に、半ば本気で憧れていた。

 そうしていつも鼻息を荒くする俺の頭を、祖父は仕事でごわごわになった手で優しく撫で、それが誇らしく思えた俺は更に熱を上げたものだ。


 だが、現実は子供の語る理想のように甘くはない。


 事実、軍で名を上げるのは想像以上に難しい。どれだけ長く軍隊にいても、成果を出さねばただの雑兵にすぎない。

 そのため軍での昇進は、初めこそが肝となる。階級が高ければ、それだけ昇進の機会が多く与えられるからだ。

 軍学校をより良い成績で卒業し、初めから高い階級で軍に入隊することが出来れば、その先の展望も見えてくる。

 だから俺は、その頃から少しずつ身体を鍛え、文字も少しずつ親や祖父母から教わるようになった。

 そうして過ごす日々が順調だと思っていた六才の夏――


 ……祖父母がそろって息を引き取った。


 朝、いつものように目を覚ました両親が、ベットの中で冷たくなっている二人を見つけた。本当に唐突だった。

 前の日の晩、眠る前に祖父母に言った『おやすみなさい』と、そして『おやすみ』と返してくれた二人の顔と声を今でも覚えている。

 当然、俺は泣いた。両親にしがみ付き、丸三日はベットの中でふさぎ込んだ。

 母さんも泣いていた。父さんは目を真っ赤にしてはいたが、涙を見せる事はなく、家族の誰よりも早く仕事を再開した。

 窓の外で家畜の世話をしている父さんの背中は、とても小さく薄いものに見えたけれど、汗で何度も顔を拭いながら、それでも手だけは止めなかった。


 そして気が付いた。父さんが仕切りに拭っていたモノが、汗ではなく零れ落ちる涙だった事に……。


 それまでの俺は、両親は――特に父さんは――比類なきものと信じて疑っていなかった。

 豪快で、力強くて、頭が良くて。正直、何故父さんがフェイスレスと戦わないのか、不思議でならなかった程だ。

 だが、その時ようやく理解した。父さんはこの“国”を守る代わりに、俺たち“家族”を守ってくれていたのだと。そしてソレが、とても難しい事だということも。

 俺なんかよりずっと強い父さんが涙を流し、歯を食い縛ってでも働かなければ守れないモノが、俺たち家族だった。


 それから俺は、それまで以上に両親の手伝いをするようになった。大変な想いをしている両親の助けになれるよう、買出しや家畜の世話も自分から進んでするようになった。

 フェイスレスと戦う事も重要だが、家族を守ることもまた自分にとって大切な事だと、そう思うようになったからだ。


 そうして、祖父母が亡くなった二年後――我が家に一人の家族が増えた。


 俺と八才歳の離れた弟。母さんの名前を取ってイセアと名付けられた赤ん坊は、祖父母を亡くして暗くなった我が家に、春風のような活気を取り戻してくれた。

 笑顔が少なくなっていた父さんや母さんも、俺を含めた家族全員が、イセアの顔を見て優しい笑顔を浮かべるようになった。

 そして自分が兄になった事で、俺はこれまで以上にこの家族と生活を守ろうと思った。この“国”を守る人間は多くても、俺の“家族”を守る人間は、決して多くはないからだ。


 だが、そうしている間にも俺の耳には、この国の現状や戦場で戦っている兵士たちの悲報が入ってきた。

 情報を聞けば聞く程に、この国の置かれている状況が苦しいモノである事を知ってしまう。

 俺はこの国が好きだ。一度フェイスレスに滅ぼされ、北の隣国に寄りかかり、教会の助けがなければまた直ぐにでも滅んでしまいそうな弱小国家でも、この国には俺の大切な家族がいる。

 そして俺が大切だと思うように、戦場で戦う兵士の中にも、自分の家族を大切に思っている者達がいる。だからこそ、俺は悩んだ。そして、今も悩んでいる。


 俺は、このまま宿の仕事を続けて良いのか? このままこの宿を継いでしまって構わないのか?


 今の生活が嫌いな訳じゃない、この家を守る事は大切だ、それは分かっている。でも、こうして俺たちが平和に暮らしている最中にも、戦場ではフェイスレスとの戦いで命を落とす人達がいる。

 外国ではこの国に未だ戻れず、不当な扱いを受けている同胞達がいる。そんな人達を救いたいと、俺は今でも本気で想い続けている。


 ……でも、今俺がこの家から離れたら、家族はどうなる?


 イセアはまだ幼い。もし俺が軍学校に入り、その間に両親のどちらか一方が倒れでもしたら? 不幸があったら?

 家一番の稼ぎ手である家畜のヤッコはもう歳だ。多分、もってあと数年で父さんが市に売りに出すだろう。そうしたら、一体誰が今の家族の生活を支える?


 ……分かってる。選択の余地なんかない。


 俺は、正式にこの家と宿を継ぐ。次の誕生日、俺が十五になったその日に、改めて父さんにそれを伝えるつもりだ。

 正直、諦め切れない部分はある。納得しつつも、自分が戦えない事を悔しいと思う気持ちは残っている。

 でもその留飲は将来、俺の弟であるイセアがきっと下げてくれるだろう。


 何故ならあいつは……俺の弟は天才だからだ。


 兄弟の贔屓目なんて無くても分かる。

 本人はまるで鼻に掛ける様子はないが、あいつは間違いなく宿屋の息子なんて枠に収まる奴じゃない。アレだけの才能を持った奴が、こんな所で燻っていて良い筈がない。

 あいつが今よりもっと大きくなって軍学校に入ったら、絶対にただのいち兵卒では収まらない。きっと今のこの国に、途轍もない大きな変化を齎してくれるに違いない。


 ――と言うのは、流石に少し大げさかもしれないが。


 それなら俺は、あいつが後顧の憂いを抱かないよう、この家をちゃんと守って行こう。そうすれば、俺も影ながらあいつを支えてやる事ができる。

 あいつが思う存分自分の才能を発揮してくれれば、それだけ多くの人達の助けになる。それなら、俺がこの宿を継ぐ事にも張り合いが持てるというものだ。

 そうすれば、未だ胸につかえるこの想いも、やがては消えて無くなるだろう。


 ……勝手な言い草だ。


 どう言い繕った処で、俺はただ自分では叶えられなかった夢の一端を、自分の弟に背負わせようとしているに過ぎない。

 イセア本人はそう思わないだろう。あいつはただ、自分のしたい事に全力で取り組んでいるだけで、俺のためなんて考えてはいない筈だ。

 だから、これはただの言い訳だ。誰に聞かせる事もない、ただ自分が納得するためだけの方便でしかない。


 ……だって、そうでもしないと、諦めが付かないんだ。


 このままじゃ俺は、いつも話を聞かせてくれたじいちゃんと、そして幼い頃の自分にしたあの時の誓いを、いつまでも引き摺ることになる。

 だから、悪いイセア。せめて心の中でだけでも、お前に俺の夢を預けさせてくれ。その代わり、絶対に俺がこの家と両親を――お前の家族を守って見せる。


 絶対にだ……。


 やがて年が明け、ついに俺は十五の誕生日を迎えた。

 朝起きていつものように仕事をこなすが、今日は家族が俺の為に夕飯をいつもより豪華にして、誕生日を祝ってくれるという。

 市へ売りに出す卵とミルクが少なかったのもそのせいだろう、きっと夕飯の材料に使うのだ。しかも貴重なキョロ鳥を、わざわざ一羽潰すとも言っていた。


 ……余裕なんて、そんなにない筈なのに。


 しかも今回は、なんと俺の為にイセアが料理を作ってくれるという。けど、そうは言ってもあいつはまだ子供だ。きっと母さんの料理の手伝いをする程度だろう。

 ただ、あいつは教会で本を読んでいるせいか、意外と色々な事を知っていたりする。もしかしたら母さんと協力して、珍しい料理でも作るのかもしれない。

 事実、秋の終わり頃にあいつが焼いたアマル芋は美味かった。あれで焼き立てはもっと美味いと言うのだから、寧ろ今晩はまたアレを食べたいとすら思う。


 試しにそれとなく頼んでみた処、残念な事に用意できないと断られてしまった。

 まぁこの時期にアマル芋を入手するのは難しい上、話によると落ち葉や薪なので火を熾す必要があるという。

 土地の少ないこの国では、資源である木や薪は貴重品だ。落ち葉くらいなら手に入らない事もないが、流石にこの時期では殆ど残っていない。

 非常に残念だが、また次の秋まで我慢するとしよう。


 だが、俺のために誕生日を祝ってくれるのは純粋に嬉しい。

 宿を継ぐ事を考えると少しだけ気分が沈んだが、それでも喜びの方がずっと勝っている。やっぱり俺は、この家と家族が大好きだ。

 その想いに疑いはなく、だからこそ宿を継ぐ選択は正しかったのだと、いつか胸を張って言える日がきっとくるだろう。


 そうして、今日の仕事を終わらせて日がすっかりと暮れた頃、家族一同が集まり俺の誕生会が開催された。


「ゼオル、お誕生日おめでとう」

「おめでとう」

「おめでとう兄ちゃん」

「皆、ありがとう」


 昨日の俺とそんなに違いはないというのに、今日ばかりは家族の皆が口々に俺を称えてくれる。正直こそばゆい。

 幸か不幸か、その日もウチの宿を利用する客は皆無な為、いつもなら利用しない宿泊客用の広い食堂で誕生会を開く運びとなった。

 しかも今日は特別な日という事もあって、いつもなら立ち入りを禁止されているヒビカまで参加している。


「キャンキャン」

「何だヒビカ、お前も祝ってくれるのか?」

「キャン!」

「ハハハ、そうか。ありがとな」


 ヒビカは去年の秋の終わりにイセアが拾ってきた子狐だ。


 普通狐なんてキョロ鳥を襲ったりする害獣扱いされるものだが、ウチの母さんはイセアの頼みをあっさりと聞き入れ、そのまま家で飼う事になった。

 最初の頃は俺も父さんも心配したが、ヒビカはまるでイセアの言葉が分かっているかのように言う事を良く守る。たぶん黒毛どうし気が合うんだろう。

 家畜相手にじゃれ付く事はあっても、襲ったりなんかは絶対にしないし、入ったら駄目と教えた所には絶対に入ってこようとしない。


 ……利口どころか、頭が良すぎて少し怖いくらいだ。


 もしかしたら狐じゃないのかもしれないが、仕事の邪魔もしないしイセアも嬉しそうなので、俺も父さんも特に反対はしていない。

 多少は食費がかさむようにはなったが、そもそも余り頼みごとやお願いなんてものをしない弟の頼みだ。

 母さん程ではないにしろ、本音では俺も父さんもイセアの頼みは成る丈聞いてやりたいと思っている。


「もう十五才になったのよね」

「ああ、もう一人前って言っても良いかもしれないな」

「やめてよ父さん、俺なんて父さんと比べたらまだまだだよ」

「ハッハッハ、そう謙遜するな。親父の俺が一人前って言ってるんだ、お前は素直に真に受けとけば良いんだよ」


 そう言って、父さんは笑いながら俺の肩を叩く。

 勿論、そう言ってもらえる事は嬉しい。だが、一人前と言われるとどうにも複雑な気持ちになってしまう。特に、これからする話の内容を考えると……。


「さ、先ずは乾杯だ。今日は客も居ないからな、パーっとやるぞ! パーっとな!」

「今日“は”じゃなく、今日“も”だろ? 酒代だってバカにならないんだから、程々のしときなよ」

「おお? 中々言うじゃないか“一人前”」

「もう、やめてちょうだいアナタ。ゼオルの言う通りです。明日も仕事なんですから、程々にしておいて下さい」


 母さんにそう言われると、父さんは直ぐにしょげた顔付きになる。

 いつも豪快で細かな事は気にしない性格だが、なんだかんだで母さんの言い分を無下にする事はない。

 別に尻に敷かれてると言う訳ではなく、母さんも父さんのやる事に口を出す事は滅多にない。

 要は単純に似合いの夫婦なのだ。二人で一人というか、ぶつかり合う事が殆どなく、決して一定以上に離れる事もない。

 それを意識せず毎日自然にやっているのだから、コレを似合いの夫婦と言わずして何と言うのか。


「「「「カンパーイ!」」」」


 そうして、俺たちは互いに杯を高々と掲げた。


 俺と父さんは勿論酒を、母さんも今日は珍しく自分の杯に酒を注ぎ、イセアの杯にはヤッコのミルクが注がれている。

 互いの杯を小さく打ち鳴らし、皆そろって杯を煽る。寒いこの地方独特の咽を焼くような強い酒が、空っぽの胃にカッと小さな火を灯した。


「フゥ……」


 俺と母さんは一口飲むと直ぐに杯から口を離したが、父さんとイセアはそのまま杯の中身を一気に飲み干すと――


「「カーーッ! 美味い!」」


 その瓜二つの台詞と動きを目撃した俺と母さんは、互いに顔を見合わせると、二人揃って吹き出してしまった。


「「ん?」」


 やがて、ひとしきり笑った俺は息を整えると、姿勢を正し視線を真っ直ぐ父さんに向け、自分のこれからを――軍学校には行かず家を継ぐ話を父さんに告げようとする。

 母さんに暴飲は諌められたものの、このままのペースで酒が進めば、真面目な話が出来なくなると思ったからだ。


「父さん……実は俺――」


 だがそこで――


「ねぇねぇ兄ちゃんっ!」

「あ、ああ? 何だイセア?」


 一際大きなイセアの声が、俺の台詞を遮った。

 その勢いに押された俺は話を中断し、つい何事かと聞き返してしまう。


 ……正直、少しだけホッとした。


「今日は兄ちゃんのお祝いに、ボクと母ちゃんが一緒に料理を作ったんだよ」

「そ、そうか、そいつは楽しみだな。でも今は――」

「そうよ、早速食べましょう。イセアってばお兄ちゃんの為に本当に頑張って作ったのよ」

「へぇ? 一体何を作ったんだ?」

「それがね、オオヘラ牛のミルクを使ったスープなのよ」


 母さんは嬉しそうに手を合わせると、とても自慢気にそう言った。


 ミルクを使ったスープ? スープにミルクを入れたのか? そんなんじゃミルクが薄くなって変な味になるんじゃないか?

 ちょっと想像ができない。麦をミルクで煮込んだミルク粥なら知ってるが、ウチでは基本ミルクなんてそのまま飲むか暖めて飲むくらいだ。

 でも、もし変な味のスープなら、母さんがここまで自慢気になるとも思えない。


「なんだそりゃ? 美味いのかソレ?」

「ふふ、きっと二人とも驚くわよ」


 本当なら食事の前に宿を継ぐ件を伝えようと思ったんだが、何だか俺もそのミルクのスープが気になってきた。


「じゃあ今運んでくるから、少し待ってて」

「あ、母ちゃんボクも手伝う」

「そうね、それじゃあイセアも手伝って頂戴」

「はーい」


 そうして、二人は厨房の中へと入って行く。


「……何か、話があるんだろ?」

「え……?」

「だが今は取り合えず食事を楽しめ。折角あの二人がお前の為に用意したんだ」

「う、うん……」


 どうやら、父さんは俺が何を言わんとしているのか、ちゃんと察してくれているらしい。

 まぁ、俺も今は仕事が終わって腹も空いてる。父さんの酔いさえ回らなければ、食事の終わり――いや、食事の最中に話しを切り出してしまっても構わないだろう。


「安心しろって、お前と母ちゃんに言われた通り、酒は控えるからよ」


 そう言いつつ、父さんは杯に注いだ酒をグイッと煽った。

 それを見て、つられるように俺も杯に残った酒に口を付けるが、矢張り父さんのように一気に流し込む事はできない。

 一人前と言われたものの、飲み比べではまだまだこの人に敵わないだろう。というか、一生敵う気がしない。


「……ん?」


 すると、何やら良い匂いが俺の鼻腔をくすぐった。


「お待たせー」


 それと同時に、厨房から母さんとイセアの二人が戻ってくる。

 手には料理の乗っているらしいお椀や皿、どうやらついにイセアの作った料理のお披露目らしい。


「はいどーぞ、これがイセア特製“ホワイトシチュー”でーす」


 そうして座っている俺たちの前に置かれた料理は、予想通り――というか、予想以上に奇天烈な代物だった。


「こ、こいつは……」


 それを見た瞬間、俺も父さんも思わず言葉を失った。


 “ホワイトシチュー”なんて料理、今まで聞いた事がない。

 てっきりミルクが薄まったようなスープが出てくると思ったのだが、真っ白な湯気が立ち上るお椀の中には、同じく真っ白でドロッとした液体で満たされている。

 いや、まっ白って訳でもない。少しだけ黄色がかっていて、なんだかチーズのような濃厚な色合いをしている。


 スプーンでそっと中をかき回すと、白い液体の中にはニンジンや芋など大き目にカットされた根菜と……お、キョロ鳥の肉まで入ってるじゃないか。

 成る程、要は野菜と鶏肉のミルク煮ってヤツなのかもしれない。これだけスープがドロッとしているのも、長いこと煮込んだからなんだろう。

 でも、オオヘラ牛の乳を煮込んだ処で、ここまでドロッとなるものだろうか?


「見た目はアレだが……良い匂いで美味そうじゃないか」


 そこで漸く父さんが口を開いた。


 そう、確かに見た目的には敬遠してしまいがちだが、湯気と共に立ち上るこの独特の良い香りが、そんな俺たちの印象を軽く吹き飛ばしてしまう。

 野菜に鶏肉、そして勿論ミルクの他にも、何か強烈で芳ばしい匂いがただよってくる。その匂いを嗅いだだけで口の中には唾液が溢れ、酒で活性化された空っぽの胃袋が騒ぎ出す。


「そしてこっちも――はい、イセアの作った“パンケーキ”よ」


 すると、また聞いた事のない名前の料理が出てきた。


 テーブルの真ん中にドンと置かれた大皿の上には、何やら分厚く焼かれた“ベテネ”らしき物が沢山乗せられている。

 ベテネとは、小麦粉と塩と水を単純に混ぜた物を平たく焼いただけの料理で、普段はこれを千切ってスープに着けて食べたり、肉や野菜を包んで食べたりする。


 だがコレ……随分とぶ厚くないか?


 こんなに厚いと硬くてとても食べられそうにはないし、野菜などを包む事もできそうにない。“千切る”んじゃなく、寧ろ“砕く”必要があるんじゃないか?

 そもそも、中心まで火が通るかも怪しいものだ。


「さ、冷めないうちに頂きましょう」


 だが、そんな俺の不安を余所に、母さんはニコニコと上機嫌だ。もしこのベテネが失敗作なら、こんな顔はしないだろう。

 それに、このベテネから漂う匂いもとても良い。焼き色も均一で、とても美味そうに見える。


 ま、実際食べてみればはっきりするだろう。それに、そろそろ胃袋からの抗議も限界だ。

 俺たちは食事の前の祈りを済ませると、スプーン片手にまずはホワイトシチューとやらから頂いてみることにした。

 興味深げにドロリとした液体をすくい上げ、二度三度湯気を吹き消してから口に含む。


 次の瞬間――


「――ッ!!?」


 口の中で、味の爆弾が炸裂した。


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