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高嶺の花  作者:
8/9

 『ウンディーネ』の公演も千秋楽を迎えるばかりになっていた。

 お盆期間を挟んだ公演であったにも関わらず、連日ほぼ満席、各メディアでの評価も上々、というかなり良好な成果を上げていた。それはつまり、この舞台が成功であったことを意味している。

 

 千秋楽前日の公演を終え、楽屋に戻った知明は、とりあえず、窮屈で重い衣装を全て取り去り、椅子に倒れこむように身を投げた。

 しばらくそうやってぼうっとしていたが、ふと視界の端に映った携帯電話が明滅しているのに気付き、のろのろと腕を伸ばして携帯電話を引き摺り寄せた。疲労で重い指でぎこちなく携帯を操作し、受信メールを読み込む。そうして新着メール一覧に表示された名前の一つを見た途端、知明は椅子に直立不動の姿勢になっていた。疲労で重かったはずの脳も急に働きがクリアになり、慌しく動く指がその差出人のメールを読み込むよう、操作する。


『おつかれさま。

 今日、テレビで舞台のことやってたよ。本当に評判いいね。

 特にトモさんの貴族の演技、大評判みたい。それ聞いてたら、何だかもう一度見たい気分になっちゃうくらいだったよ。すごいね。

 明日で最終日だよね?最後までがんばって!』


 相も変わらずの色気も素気もないメール。普通はもう少し、何かあるだろう、恋人に送るメールなら!と知明は少し残念にも思うが、一方で、変わらない彼女のメールに、心がこの上なく浮き立つのを感じていた。

 メールの送信時間を確認すると、どうやら少し前に届いていたものらしかった。とっさに知明は、メールではなく通話画面を開く。発信ボタンを押すと、規則的な電子音が何回か響く。3コール目で電話が繋がった。


『…もしもし?』

 やや不審そうな彼女の声が耳元で囁きかける。電子的に多少の音声変化が加わってはいるが、紛れもない羽根涼子の声に、知明は耳に血が集まるような感覚を覚える。

「もしもし、俺」

『トモさん?どうしたの?』

 どうしたの?が何に対するものなのかはっきりしなかったが、知明にとっては、その冷静な声そのものが全ての感覚に響いていた。

「メールくれたでしょ。ありがと。今どこにいる?」

『今は帰る途中』

「え?土曜だよ?会社あったの?」

『お盆明けでね、色々片付かなくて。昼から出たけど、結局こんな時間になっちゃった』

 受話器越しに笑う気配と息のかかる音が聞こえる。体のどこかでぞくりと震えが走るのを、知明は感じる。

「……今、どこ?」

無意識に知明の声音が低くなる。しかし電話先の涼子にはそれは感じられなかったようだった。

『今?ああ、ほんと、会社出てすぐくらい』

涼子の答えを聞くと同時に、知明は椅子から飛び上がっていた。

「そこで待ってて!すぐ迎えに行く!」

『…え?』

「いいから!待ってて!」

『いや、待っててと言われても…』

「この後何かあるの?」

『いや、それは何も…』

「じゃ、すぐ行くから!」

『え、あ、ちょ…』

受話器からはまだ涼子の戸惑う声が聞こえていたが、知明はそこで強引に電話を切る。携帯電話を鞄に放り投げると、慌てて私服を身に着ける。

 いきなり控え室から飛び出してきた知明の姿に、彼の楽屋に向かう途中だったマネージャーの加々見が、目を丸くする。

「どうしたんですか、MACHIさん!」

「あ…マネージャー、ちょうどいいとこに。車、貸して?」

そのまま通り過ぎそうな勢いだった知明が、急停止して加々見に向き直った。

「は?え?何ですか、いきなり?」

「いきなりでも何でもいいから。貸して。明日返す」

「明日って、大体あれ社用車ですし。私は今日どうしたらいいんですか」

「ごめん、何とかして!」

 話しの通じない知明に、鞄を奪われそうになって、加々見は慌てる。

「何かあったんですか?」

 何か緊急事態でも生じたのだろうかと、やっと脳味噌の働き始めた加々見は思うが、知明はあっさり首を振る。

「何かあったわけじゃないけど、俺にとっては大事」

 大真面目に頭を振る知明の姿に、加々見は脱力感を覚える。鞄から車のキーを取り出すと、それを知明の手に乗せた。

「……分かりましたよ。くれぐれも事故だけは起こさないように。それと明日、最終日だってこと、忘れないように」

「サンキュ!」

 満面の笑みで礼を言うと、すぐに身を翻して知明は駆け去って行った。

「…MACHIさん、メーク落としてなかった」

今更のように気付いた加々見は、今更のように大きなため息を吐き出した。



 街路樹の植え込みのブロック積みに腰を下ろして待っていた涼子の前に、軽くクラクションを鳴らして車が止まった。助手席の窓が下りて、運転席の人物が手を振っている。それが誰なのか気付いた涼子が目を丸くする。

「トモさん…?車、いつものと違いません?」

 助手席に乗り込んだ涼子が知明に囁きかける。

「まあね、マネージャーから車借りた」

言われて涼子が後ろを見ると、後部座席にはボストンバッグやブリーフケースのようなものも見える。それはまずかったんじゃ…と呟く涼子に知明は気にしない、と笑う。

(そうだった、トモさんはそういう人だった)

 内心頭を抱える涼子に、知明の手が伸びる。肩を引き寄せられて、ぎゅうっと抱きしめられる。不安定な体勢になるのを支えるため、涼子の手が知明の肘にかかる。一度しっかり抱きしめた後、知明は少し体を離して、涼子の顔を見つめた。涼子は少しためらった後、ゆっくりと顔を上げ、知明の視線を受け止めた。見上げてくる自然な眼差しに、知明は心の底からほっとする。

「涼子サン」

「なに?」

 知明の手が、涼子の体のラインを確かめるようにゆっくり撫でる。頭から首筋、肩から背中、脇腹から腰へと、掌がすべる。性的な行為というよりも単純にその存在を慈しむような愛撫は、互いの胸の奥にじんわりとした温かさを生んだ。

 再び掌を後頭部にそわし、知明はそっと頭を傾け、涼子の額に自分の額をくっつけた。涼子が僅かに瞳を細める。

「涼子サン」

「なに?」

「…キスしていい?」

「…」

「涼子サン」

「…」

「…涼子サン」

 知明の囁く声が涼子の胸に甘い疼きを生む。

 涼子がそっと両腕を持ち上げ、知明の頬を掌で包む。そうして、そっと唇を彼のものに押し付けた。

 柔らかくて暖かな感触に、知明が一瞬硬直する。しかしすぐに涼子の体に添えた腕に力を入れ、互いの体を支える。

 唇を離した涼子が、戸惑ったように眉を顰める。

「トモさん、もしかしてそれ、舞台メーク?」

「……あれ、そういえばメーク落としてなかったっけ」

 涼子に指摘されて初めて、知明は自分が着替えも片付けもせずに楽屋を飛び出してきたことに気が付いた。

 まあ、家に帰ってからでいいや、と再び涼子を抱きしめる。

「…トモさん、ここ、公共の道路」

「うん」

「いや、うんじゃなくて」

「うん」

「いや、あの、ね…」

「うん」

 涼子の首筋に顔を埋めた知明がくぐもった声で返答する。涼子の体を撫でる知明の手が、次第に熱を込めてくるのに気付いて、涼子は焦る。

「トモさん、いや、ちょっと、やばいですって」

 慌てて涼子が知明から体を引き離す。顔を上げた知明が、涼子の瞳をじっと覗き込んでくる。車外からの光源だけの暗さの中で、普段より濃い影を刻む知明の顔は、常にも増して色気があった。涼子は不覚にも頬に血が昇るのを感じた。

(…こういう表情はいつまでも慣れないよ……)

反則だ、と涼子は思う。何に対する反則なのかは涼子にも分からないが、そうでも思わなければこの状況にいたたまれなかった。

「涼子サン」

「…なあに?」

 涼子の返答に、知明がにっこりと笑って見せた。

「涼子サンに、会いたかったです」

知明の掌がそっと涼子の頭に当てられる。前髪をゆっくりと滑って目元に、頬骨に、そして頬に指が添えられる。

「…この間は、悪かったから。だから、どうしようと思ってて。すごく、連絡取り辛くて」

「…うん」

「わがままなのは分かってるけど、涼子サンから連絡がほしかったんだ」

「……」


 涼子にとってもここ数日は気まずかった。

 普段は仕事の忙しさで思い返す暇も考える暇もなかったが、それでもふとした拍子に知明のことを思い出すと、どうにもいたたまれない気持になった。気にしたくはなくても、マスコミの情報は目から耳から入ってくる。街中や社内でも、雑談や噂話から聞こえてくることもある。目や耳を塞いで生活するわけにいかなければ、慣れるか開き直るかしかない。そう思いはするが、どうにも自分の心の弱さが涼子には辛かった。

 マスコミの報道といっても、決定的な情報とか進展した情報とかがあるわけではなかった。ただ、最初の情報を繰り返し、取り上げるだけ。だから、涼子とて本気で本当の情報と思っているわけではなかった。だから、それは単なる自分のコンプレックスと嫉妬心だということには、早くから気付いていた。だからこそ、まるで知明を疑っているかのような自分の反応が自分自身で嫌だった。

 涼子の妙な様子を察した苫野からは、「もっと自分にわがままになれ」と言われた。そして改めて自分自身の心と問答し、涼子が出した結論は、「自分に素直になる」ということだった。


 知明のことが、好きだと思う。

 どんなことをしているのか、気になる。

 何を見て、何を考えているのか、知りたいと思う。

 自分にできることの何が、知明のためになることなのか。

 自分のできることの何が、知明を喜ばせることなのか。

 そして、自分は知明に何をしてあげたいと思うのか。


 仮に知明にとって自分が一番の存在ではなかったと仮定する。しかしそれは彼の自由であり、自分の強要することではないのではないかと、涼子は思う。

 少なくとも今は、知明は涼子の存在を欲してくれていて、涼子の望むことを満たしてくれる。それで充分じゃないのかと、涼子は思った。そう思うことで、涼子は落ち着けるようになったのだ。


「…ごめんね」

「ううん。…涼子サン」

「なに?」

「好きだよ」

「…ありがとう」

微笑む涼子に、知明が口吻ける。強く押し付けて吸い、抱きしめる腕に力を込める。

舌を差し込まれそうになって、涼子はさすがに慌てる。

「トモさん、ここ、公道」

「うん」

 頷きながら、知明の手は涼子の腰のラインをなぞる。唇が、涼子の頬に、目元に、顔中に、押し当てられる。

 ぞくぞくする震えが体に走るのを涼子は感じるが、それどころじゃないと理性は正常に訴える。

「だから!外で!しかも他の人の車で!そんなことする気はないんです!」


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