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高嶺の花  作者:
7/9

 その日もコンビニで買ってきたパンを一人自分のデスクで食べようとしていた涼子は、隣に人が立ったのに気付いて顔を上げた。

「隣、いい?」

白いビニール袋を捧げて笑いかけてきていたのは、苫野麻希子であった。

「苫野さんも今日はコンビニ弁当ですか?」

涼子が頷きながら答えると、苫野はやれやれといった風に肩を竦めながら、笑った。

「今週いっぱいは無理だね〜」

言いながら、苫野は涼子の隣席の椅子を引いて来て、座った。

しばらく愚痴とも世間話ともつかない話をして、ふと会話が途切れたとき、苫野が急に表情を改めた。

「ねえ、羽根ちゃん、まだ顔色悪いね。まだ具合悪い?」

いきなりの問いに、涼子は自分自身驚くほどに動揺した。

「…大丈夫ですよ。熱っぽいのも、喉が痛いのも殆ど治りましたし」

微笑んで答える涼子を、苫野はしばらく無言で見つめていた。

「ねえ、羽根ちゃん、おせっかいだとは分かってるんだけど――」

 苫野はとても言いにくそうに少し口ごもったが、振り切ったように続けた。

「何か、悩みでもあるの?」

「…何で、そんなこと言うんですか?」

「いや、ただの『女の勘』、てやつなんだけどね」

 苫野は穏やかに笑っていた。それはいつもの彼女の他人を安心させる笑顔であった。しかし、涼子は困っていた。彼女に、今の時点で答えられることなど何もなかった。しかし、そのときの涼子は、何かを言ってしまいたい衝動に、不意に襲われていた。

だから、そのとき彼女は、本当に、無意識のままであった


「ねえ、苫野さん。苫野さんは、高嶺の花だ、と思う人に出会ったこと、ありますか?」


突然の問いかけに、苫野は戸惑った。何よりあまり耳慣れない単語に、とっさに反応に困ってしまった。

一方、涼子も驚いていた。自分は一体何を言っているのか。言った瞬間から、恐ろしく狼狽していた。

「ごめんなさい!今のなしです!忘れてください!」

私、何言ってるんだろ〜、などと呟きながらすっかり挙動不審になっている涼子をしばらく見つめてから、苫野はようやくくすりと穏やかな笑顔を取り戻した。

「そうだね、多分、答えにはならないけど…」

 ゆっくり、涼子を落ち着かせるような表情と声音で、苫野は続ける。

「羽根ちゃんは、もうちょっとわがままになっていいと思うな。もうちょっと、言いたいこと言っていいと思うよ。

羽根ちゃんは、何でも内にため込んじゃってる気がする。そういう控え目で思慮深いところも羽根ちゃんの長所だと思うから、それはそれでいいんだけどさ。あんまりそればっかだと、羽根ちゃん壊れるよ」

そうなったら、私は悲しい。そう言って、苫野は笑った。



***



舞台の合間の休日、例の如く昼まで怠惰に転がっていた知明の部屋に、来客があった。

「…なんだ、マネージャーか」

「なんだじゃありません、いくら休みだからと言って、一日寝てる気ですか?」

合い鍵で勝手に入ってきたマネージャーの加々見恭介に叩き起こされた知明が不機嫌そうに唸る。そんな彼に呆れ顔を見せながら、加々見はコンビニの袋をリビングのローテーブルに置いた。

「どうせまた、ろくなもの食べてないでしょう?適当に買ってきましたから、食べてください」

 言い置いてキッチンに向かった加々見がグラスを二つ持って戻ってくる。知明はソファに座ってタバコをくわえながら、ぼんやりとそちらに視線を遣っていた。

 コンビニ袋から出てきた2リットルペットボトルから注がれたお茶を受け取り、無意識のまま一口すする。どことなくケミカルな味が舌に残り、知明は僅かに眉を顰めた。

「…で?わざわざうちまで来て、何?マネージャー」

 知明が促すと、正面のソファに座ってお茶を飲んでいた加々見が頷いた。

「はい、まあ、例の雑誌の件です」

加々見の口から予想通りの答が返ってきて、知明はソファの背もたれに頭を乗せて、天井を見た。口にくわえた煙草にまだ火を点けていなかったのに気付き、手探りでライターを取って、火を点ける。

「三枝さんの事務所とも話しました。結論としては、『このままほうっておく』ということになりそうです」

「…それは、決定?」

「多分…別に、際どいところをおさえられたわけじゃありませんし、形としては、一方的にマスコミが騒いでいるだけですから。三枝さんの方はいつものことですから、適当にあしらうとおっしゃってるようです。こちらとしても、変に騒いだりコメント出したりしたら、変に煽っちゃうことになりそうですしね」

「……際どいも何も、実際に何もないのに写真が撮れるわけもないだろう…」

 知明が天井を見上げながら煙草をふかす。もわもわと上がる煙が天井に触れる辺りで空気に溶け込んでいく。いつもよりも苦い気のする味に、知明は目を細める。

「まあ、マンションに来られたのは痛かったですね…多分、三枝さんとしては確信犯でしょう?」

加々見が不機嫌そうな表情で呟く。グラスのお茶は飲み干して、2杯目を注いでいる。何を考えているんだか、と呟く声が聞こえて、知明は少しだけ顔を起こして加々見の方に視線を遣った。

「多分なあ…三枝さん、別に本気じゃないと思うぜ。少なくとも、俺にちょっかいかけてんのは、本気じゃないと思う。ていうか、俺じゃないんじゃないかなあ、目的は」

「………スケープゴートだとかいうことですか?」

加々見の答えに、知明は答えなかった。しかしこの場合沈黙は肯定と同義だと加々見は認識した。

「…なんとゆーめいわくな。しかしそれなら何もMACHIさん狙わなくていいじゃないですか。うちのここ1年の事情、あちらさんだって知らないわけじゃないでしょうに」

 加々見のぼやきには知明も全面的に同意する。しかし恐らく、この場合、適任だったのは自分しかいなかったのだろうとも彼は思っている。


 今回の芝居では、三枝ユミの相手役である若い俳優は、主要な役どころでは、風間駿介、藤本章一、そしてMACHIこと知明自身の3人となる。その内、藤本は既婚者でしかもまだ新婚で、連日仲の良さが漏れ伝わってきている。風間は大変真面目で神経質な性格で、潔癖症でもあった。こういったスキャンダルがらみに巻き込まれれば不快に思うだろうし、反対にこういったスキャンダルのダミーを引き受けたりしたら、それはそれで本気を疑われて余計な混乱と報道の過熱を生んでしまっただろう。かといって他のあまり主要な役どころにはない俳優を持ってくるには、三枝ユミの側も不釣合いだと感じて、避けたいところだろう。

 つまり、今回の芝居メンバーの中では、MACHIが最もこういった類の問題に引き込みやすかった、と。そういうことだったのであろう。

 だからと言って、それを光栄に思うわけもなければ、余裕で受け流すということも、現在のMACHIには難しかった。


 元ファンのストーカー行為の問題が治まったのは、つい数ヶ月前のことである。嫌な思いをさせられたとはいえ、元々自分を応援していてくれていた人物を、自分の手で警察や司法に突き出さねばならなかったことは、MACHIとしても辛いことであった。しかしそれ以上に、対人的な恐怖心、あらぬところから監視されるかもしれないという強迫観念。そういったものから、やっと逃れて平穏を取り戻していた彼にとって、今またあの時の状況に自分を追い込むなどということは、絶対に避けるべきことであった。

 そうして思う。

(あの時は、彼女に会えたから――)

「そういえば、あの方とは今でも会ってるんだそうですね」

 まるで心の内を読んだかのような加々見の言葉に、知明は思わずむせながら身体を起こした。煙草を灰皿に押し付けながら、息を整える。

「羽根さん、でしたよね。あの時は本当に助かりましたよ」

 加々見は思い出したように穏やかな笑顔になる。そんな彼の様子に知明は微妙に複雑な気持になるが、表情にまでは出さず、軽く頷く。

 そうして、知明は改めて思い返す。なぜあの時、自分は羽根涼子を拒絶しなかったのか。


 初めに目覚めた時は、女性の影を見ただけで、確かに心は拒否反応を示していた。しかしすぐに引き下がった彼女に、拒否反応は少しのもので治まった。二度目に彼女の姿を見たのは、仕事から帰って来た涼子を、彼女の部屋で出迎えた時。

『あ、目、覚めてたんですね』

 キッチンにいる知明を見て少しだけ意外そうな表情をした後、涼子は穏やかに笑った。

 当然のこと、知明の身元は知られていて、戻らなくていいんですか?と聞いてきた涼子に、お願いだからしばらくかくまってくれ、などと言ったのは、今思い返しても不可思議だが、考える間もなく飛び出した言葉は、間違いなく知明の本心であり、そのときはそれ以外、知明に採り得る選択肢はなかった。

 きっと、それは、彼女が優しかったから。彼女の側にいることで、清潔な空気を吸うことができたから。間違いなく彼女は女性で、その心配りも女性らしかったが、彼女の清潔さが、彼に彼女を女性らしく感じさせなかった。だから、そのとき知明は、とても居心地のよさを感じていたのだろう、そう彼は思っている。


 会いたい。

 最後に会った時の彼女の表情を思い出す。

 俯いていて、結局最後まで直視してくれなかったけど、唇が一文字に引き結ばれていた。頬から顎にかけて、肌の色が透けるように白く見えたのは、今でも鮮やかに思い出される。

 抱きしめた身体は、いつものように柔らかかった。むき出しの二の腕と、丸みを帯びた肩。唇で触れた滑らかな首筋には、微かな甘い香水の残り香が漂っていた。

胸に触れた彼女の豊かな胸の感触。――知明個人としては彼女の身体のうちで最も好きな部位の感触を、もっと感じたかったと思っても、それは責められるべきことではないと彼は思う。――涼子にそんなことを言ったらどんな顔をされるかわからないので、素面で、直接言う度胸は、今のところ知明にはないが――


 会いたい。

 触れたい。

 あの声で、名を呼ばれたい。

 彼女の淹れてくれたお茶が飲みたい。

 彼女が作ってくれたご飯が食べたい。

 もう、いっそ、何もしてくれなくてもいい。

 側にいて、自分を見守っていてほしい。

 振り向いたら、彼女がいて。

 そうしたらきっと、自分は彼女に笑いかける。


「…MACHIさん?」

 加々見の声に、知明がはっと顔を上げる。どうやら自分の考えに沈みこんでいたらしいと気付き、知明は妙に狼狽する。

「どうかしましたか?」

 どうにも不審な知明の表情と行動に、加々見が怪訝な表情になる。

 そんな加々見の視線を見返して、ふと知明は思いついた。そしてその思い付きを彼自身の中で吟味する間もなく、彼は行動に移していた。

「マネージャー、ちょっと話があるんだけど……」


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