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高嶺の花  作者:
6/9

 半信半疑で玄関を開けた涼子は、そこに携帯電話を耳に当てたままの知明が立っているのを見て、固まった。

「―――何で?」

 ようやく絞り出した声は、彼女自身驚くほど低く掠れていた。喉の奥がいがらっぽい。完全には治っていない風邪のせいに違いない、と涼子は意味のないことを考えていた。

 呆然とした表情で自分を見つめるだけの涼子に、不意に知明の苛立ちが爆発した。

 携帯電話を切りながら涼子を押し込むように玄関に入る。困ったような表情のまま涼子があとずさる。そのまま後ろ手で玄関を閉めると、無言で涼子に手を伸ばす。

「―――――っ!」

 両手で彼女の顔を捉え、唇に唇を押し付ける。性急に何度も啄ばみ、角度を変えて強く吸う。

「…〜〜〜!!」

口を塞がれたまま、涼子が何事か叫ぼうとする。喉の奥の震えが唇から伝わる。頬を掴んでいた片手を滑らせ、首筋から後頭部へ廻す。肩を抱くように引き寄せようとすると、両腕が彼の胸を押し、突っ張ろうとする。抵抗を無視して体を引き寄せ、唇の力を緩める。僅かに開こうとする彼女の唇をすかさず舌でなぞり、もう一度しっかりと塞ぐ。抵抗するように力を入れて引き結ばれた唇を、塞いだまま舌で舐める。柔らかい唇は、普段よりもがさがさと荒れていて、メンタームの刺激がした。

 胸の間に挟まれていた腕が、彼の肩をぎゅっと掴む。もう一方の腕は肘を折り曲げて腕を彼の胸に当て、その両方の腕で彼の体を押し戻そうと力を入れる。唇が僅かに外れる。

「……はあっ………!」

 俯くように顔をそらせ、大きく息を吸う。その表情を追うように、彼が顔を寄せる。とっさに反発しようとした彼女の踵が、玄関の段差にぶつかる。ぐらりと体制が崩れる彼女の腰に、彼がとっさに腕を廻す。そのまま勢いを殺しながら、二人の体が床に倒れこむ。

 押し倒したような体勢になって、知明が固まる。冷たく硬いフローリングの感触が、彼の理性を少しだけ覚まさせる。


床に倒れ込んだ衝撃は、知明の腕が支えてくれたおかげでほとんど受けなかった。自分を押し倒したまま固まっている知明に、涼子は反射的に手を振り上げ、その頬を叩いた。

頬を打つ鈍い衝撃に、知明の意識が、今度こそはっきりする。はっとして見下ろす涼子の目尻には、微かに涙が滲んでいた。

「涼子サ…」

「ばか!!」

怒鳴られて、知明は言葉を失う。

「いきなりなにすんのよ、あんたは!」

一息に怒鳴ると、涼子が咳き込む。知明は慌てて体を起こしながら、涼子の体を抱き上げようとする。咳き込みながら、涼子が体を起こす。あまり激しく咳き込みすぎて、きつく瞑った涼子の目元に涙が浮かんでいる。

 知明はしばらく戸惑ったように目の前で咳き込んでいる涼子を見つめていたが、おもむろにその体を引き寄せ、抱きしめた。今度は優しく、ただじっと。

「…風邪、引いてるって言ってませんでしたっけ?」

 ようやく咳の治まった涼子の、こもった声が聞こえる。不機嫌そうではあったが、怒ってはいないと知明は思った。

「…うん、聞いてた」

「…メール、返事読んでます?」

「……うん、読んでる」

知明が涼子の肩に頭を乗せた。背中には大きな温かい掌の感触。首筋に当たる暖かい肌の感触と、時折偶然を装うように当てられる唇の感触。それぞれから感じる自分のものではない熱に、涼子の全身がじんわりとあたたかくなっていくような感覚がした。その感覚にあたたかい気持ちがわいてくるのを感じ、彼女は複雑な表情をした。



 知明の肩口に押し付けられた涼子の額から、手に触れる柔らかな体から、頬が触れる首筋から、涼子の熱が伝わってくる。普段より熱い吐息が服地越しに知明の胸をくすぐる。

 お互いフローリングの床にペタリと座り込んだまま、知明は脱力しきった涼子の体を抱きしめる。抵抗をしない彼女の様子に、本当に具合が悪いのだな、と知明は思う。そのことに申し訳なく思うのと同時に、同じくらいの彼女に対する苛立ちを感じて、結局知明は何も言わず、ただ涼子を抱きしめる。

(そんなに俺は頼りにならないか?)

 風邪を引いても、具合が悪くても、しんどくても、涼子が知明に弱音を吐いたことはない。甘えられたこともない。

(それって一体、付き合っていると言えるのか?)

 きっとそう言えば、涼子はこう答えるだろう。

『だって、トモさんに風邪うつすわけにはいかないじゃないですか』

 それがどうしたのだ、と思う。確かに知明が体調を崩せば仕事に差し支える。身体が資本の仕事である。しかしそれは涼子とて同じこと。自分と、涼子とに何の違いがあるのか、と知明は思う。

 涼子は知明を特別扱いしない。知明の名前を利用することもないし、自慢をすることも、かといって卑屈になることもない。強いて言うなら、あまりにも欲がない。それが、知明には寂しい。



 彼女と出会った一年前、知明はひどく荒れていた。

 MACHIとして求められることと、知明として望む自分のあり方の乖離。多忙さの中で失われる自分という個と、それを感じて何とかしようと、もがく行為のあれこれ、その反動。

 何より一番彼を追い詰めたのは、MACHIに偏執的な愛情をぶつけてきた「MACHIのファン」の女性の行動であった。

 最初はラブレターを送り付けてきたり、仕事先におしかけてきたり、そういった少し過激なファンでしかなかった女性だった。しかしそれが徐々にエスカレートし、一方的に「恋人」や「妻」を名乗り始め、ついには、一般的には全く公表していないはずの彼の自宅にまで押しかけてくるようになった。

 それは日を、時間を追うごとにエスカレートし、過激になり、ついには暴力沙汰、刃傷沙汰にまで発展し、彼を追い詰めていった。

 ある日、どうしようもなく自暴自棄になった知明が、行方をくらませた。

 誰とも連絡を取らず、知り合いのいそうな場所から逃げ出した。

自分という存在を消してしまいたい、と思ったのかもしれなかった。

しかし結局はどこへ行っても「MACHI」から逃れることはできず、あてもなくさまよった挙句、東京へ戻り、力尽きて行き倒れてしまった。

気が付いたとき、彼は見知らぬ部屋のベッドにいた。状況がつかめず、ぼうっとしていた彼は、女性の声に呼ばれて、ようやく意識がはっきりした。

「目が覚めましたか?」

 慌てて起き上がった彼は、部屋の入口に立っている女性に気付き、一瞬身体を堅くした。一時的に女性不信、いや、人間不信に陥っていたのかもしれなかった。しかし、そんなことに気付かない女性は、何も答えない知明の様子に首をかしげると、柔らかく微笑んだ。

「起きれるようになったら、こっちへ来てください。食べるものとか用意しときますから」

そう言うと、彼女は扉を閉めて去っていった。薄暗い部屋の中、金縛りの解けたような脱力感に襲われ、知明はベッドに倒れ込んだ。

 シンプルで、飾り気のない部屋であったが、適度に崩してある感が、不思議に居心地よかった。心なしか漂う甘い香りは、アロマか何かの残り香だったろうか。感覚を刺激しない、優しいものだった。

 次に意識が戻った時は、やはり部屋は薄暗かった。起き上がってテーブルの隣にあったローテーブルを見ると、手紙とキーが置いてあった。

『申し訳ありませんが、仕事に行っています。帰るときは、カギをかけて、ポストに入れておいてください。キッチンに食べ物と飲み物置いてますので、お腹空いてたらどうぞ』

 手紙を持って部屋を出ると、灯りがついたままのキッチンに、ラップのかかった皿と、ペットボトルが置かれていた。

 彼は不意に、笑いがこみ上げてきた。

 壁にもたれた姿勢で床に座り込み、片手で頭を抱えて、笑い続けた。久々に声を出して笑えることに、彼は心から安堵していた。



 何がきっかけであったかなど、彼自身にもわからない。

 ただ、涼子と接していると、知明は誰といるよりも居心地がよかった。

 理由などどうでも良かった。ただ、彼女を側に置いておきたかった。側にいたかった。


「涼子サン」

 彼女の首筋に顔を埋めたまま、彼が囁く。

「会いたかったです」

 彼女は僅かにくすぐったそうに身動きしただけだった。

「会いたかったんです」

 そうして、もう一度、涼子サン、と囁く。


 涼子は大きく息を吸い込んだ。それを一旦止めて、目をぎゅうっと瞑る。それからゆっくりと腕を持ち上げて、知明から体を離した。

「ありがとう。私も会いたかった。でも」

 ゆっくりと涼子の顔が上がる。無垢な瞳がまっすぐ彼を捉え、すぐ下にそらされる。

「今日は、帰ってください…」



***



 土曜日の昼下がり、涼子は『ウンディーネ』の公演が行われている会場にいた。

 知明の用意してくれた席は、前すぎもせず、後ろすぎもせず、とても見やすい位置であった。客層は、やはり若い女性が多かったが、それ以上に、落ち着いた年齢層の男女も多く、総じて舞台に対する期待の高さを感じさせた。


 『ウンディーネ』は水の妖精と人間の騎士の悲恋物語である。

ウンディーネは美しい少女の容姿と美しい歌声をもった妖精である。水辺に潜む彼女たちは、その姿と歌声で人間、特に若い男を魅了し、破滅させる。本来魂を持たないウンディーネたちは、人間の魂を奪うことで、自らのものとし、力を得た精霊へと進化する。そのため、本能的に人間を襲うのだと恐れられている。

主人公であるウンディーネも、そんな一人で、これまで何人もの男を虜にしてきた。

ある日、彼女は漁師の男に近付いた。そして彼自身と、その周囲、陸上の生活に興味をもった。そこで、彼女は水の世界を出て人間の生活に入った。そして、漁師の魂を奪った後、地上をあちこちさまようことになった。

人の魂を奪い、地上を流離う旅の末、ある土地に辿り着いたウンディーネは、その土地の貴族の息子に求愛されることになった。興味を持って彼に近付くウンディーネ。しかし彼女は貴族の息子の護衛である、とある騎士に、激しい恋心を抱くことになってしまう。そうして彼女は、ウンディーネの罪深い性に気付き、打ちのめされる。

ウンディーネは男の魂を奪う。しかしそれは誰でもよいのではなく、自分が気に入った相手、より深く愛した男の魂を奪う性を持っていたのである。

騎士を愛する心と同等に、彼の魂を奪うことを激しく欲している己の本能との相克。自分を切ないほどに愛する貴族の息子の一途さを愛おしく思う心。その狭間で悩み、苦しむウンディーネ。

結局、ウンディーネは貴族の息子の魂も騎士の魂も奪い、水の世界へ戻る。水に戻ったウンディーネは地上での全てを忘れ、水へと溶け込んでゆくが、唯一消せなかった騎士への愛するが故の苦しみの心だけは消えず、永遠に水に漂い苦しむこととなる。



マンションでの出来事を目撃した後、涼子は少し三枝ユミのことを調べた。――といっても、特に調べようとしなくても、マスコミが一斉に書き立てた三枝ユミとMACHIの「熱愛報道」によって、大体のことは労せず耳に入ってきていたのだが。


三枝ユミは、若いながら、演技力の高さに定評のある女優である。活動は主に舞台であり、テレビにはあまり出演しない。しかしある意味、テレビや雑誌などによく登場する名前であった。

東南アジア系の風貌で、一見お嬢様風の美人である彼女は、しかし舞台上と普段の印象が相当違うらしい。いわゆる「不思議系」で、恋多き女性なのである。

今までも芝居の共演者と噂になることが度々あった。そして、そのたびにのらくらと周囲を煙に巻いているということであった。


舞台上のウンディーネ――三枝ユミは、本当に美しかった。

無垢な振る舞いも、恋を知り、愛する人を破滅させる己に苦悩する姿も、絶望して心を壊した表情も、全てこの上なく美しく、魅力的だと、涼子は思った。同性にもかかわらず、見惚れて引き込まれてしまうような姿であった。


別に、涼子は三枝ユミと己を比較しているつもりはなかった。しかし、舞台上で三枝ユミのウンディーネとMACHIの貴族の息子が並び立つ姿は、いかにも美男美女で、見栄えがした。涼子にこだわる要素が何もなければ、きっと普通に眼福を喜んでいただろう。

一方で、自分は平凡で、やはり彼――知明に吊り合っているようには、やはり涼子には思えないのである。

かといって、涼子はMACHI――那智知明と、三枝ユミが本当にどうにかなっているとまでは、思ってはいなかった。と言っても、その後ほとんど連絡も取ってはいないし、知明からも話題にしてこないので、涼子からも話題にはしていない。だから、本当のところはわからない、というのが涼子にとって最も正確な認識であった。全ては「勘」でしかない。それも、きっと、今の精神状態の原因なのだろう、と涼子は思う。

こういうときどうすればいいのか、涼子にはわからなかった。


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