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「羽根ちゃんが休み?」
翌日、始業10分前にかかってきた電話を取った後輩からの報告に、苫野は眉を顰めた。
「はい、どうしても具合が悪いので、午前中休ませてくださいってことです」
「…確かに昨日、顔色相当悪かったけどね…」
苫野は表情を曇らせる。
「羽根が休みだと?」
そんな彼女に秘書課の課長が近付いてくる。
「羽根は明日、営業の林部長と出張だろう。準備はできてるのか?」
苛立たしそうな表情と声で言う課長に、苫野は冷静に応じる。
「書類は昨日の内に全部チェック済み、大まかな打ち合わせも昨日やっておりました。チケットは今日の午前中に届くはずだから、それから届けると言っておりました。林部長に確認しなければ確実なことは言えませんが、大きな予定変更がなければ大丈夫なはずだと言っておりましたが」
秘書課においては羽根涼子の上司にもあたる苫野は、昨日帰宅前に受けていた報告をそのまま課長に伝える。涼子のデスク上に封筒に入れて置かれている書類の束を取り上げると、それを課長に示す。課長は中身をぱらぱらと確認すると、眉を顰めながらも、頷いた。
「まったく、この忙しいのに…」
それでもぶつぶつ呟きながら離れていく課長の後姿を、苫野は困ったような笑顔で見送る。
この忙しい時期に誰か一人でも倒れれば全体に皺寄せが来る。それは事実なのでしょうがないと彼女は思う。ましてや全員が疲労で苛立っている。ここはそっと受け流すしかないことを、苫野は経験上身につけていた。
とりあえず、羽根涼子が来るまで自分がフォローすることにしよう、と苫野は思った。
しかし結局その日、羽根涼子は全日欠勤したのであった。
「羽根ちゃん、こんなとこ住んでんだ」
終業後、苫野は以前知らされていた住所を頼りに羽根涼子の家を訪ねていた。街灯に照らされた、見るからに築年数が相当経っていそうな、古いタイプの3階建てアパート。その1階の一番奥が涼子の家のはずだった。
結局会社に来れなかった涼子だったが、業務にはさほどの支障はなかった。恐らく週明けからは皺寄せが来て大変だろうが、当面問題はなさそうだった。課長は不機嫌そうだったが、電話口で相当変わった涼子の声を聞いていたため、表立って文句も言えないようであった。
インターフォンを押すと、室内でチャイムが鳴っているのが聞こえる。ドア脇のサッシは暗いままだったが、表から見たときには確かに明かりが点いていたのを確認していたため、苫野は涼子の在室を確信していた。しかしなかなか返答がない。もう一度インターフォンを鳴らすが、やはり反応がない。
(……まさか、倒れてないよね…)
普段ならしつこい、おせっかい、と思って引き下がるところだが、今日に限って、苫野はここで帰る気にはなれなかった。実際、明日必要なはずの書類を持って来ている以上、直接手渡ししなければ意味がないのも事実であった。
携帯電話を鳴らすと、室内から着信音が聞こえた。そしてようやく、人間の動く気配がドアに近付いてきた。
「苫野さん…」
ドアを開けた涼子が掠れた声で目を丸くする。涼子はやはり寝ていたらしく、髪の毛がくしゃくしゃで足取りもおぼつかなかった。
「悪いね、起こして。でもこれ、渡しとかなきゃと思って」
苫野が封筒を渡すと、涼子が中を確認して頭を下げる。
「すいません、ご迷惑おかけして…」
「しょうがないよ。風邪引いた?昨日顔色悪かったもんね」
「そうみたいです…薬はもらってきたんですけど。…あれも始まっちゃったから、吐き気はするわ何わで……ちょっと、一日動けませんでした…」
苦笑する涼子だが、その表情にも精気が大幅に欠けている。苫野は表情を曇らせながら、涼子の額に手を当てる。熱はないようだったが、顔色の悪さを見ると、貧血くらいは起こしているのかもしれなかった。
「あ…すいません、こんなとこで立ったまま…お茶くらいなら出せますけど」
不意に気付いたように涼子が言うが、苫野は頭を振った。
「いいよ、様子見ついでにそれ渡しに来ただけだもの。明日は大丈夫そう?」
「はい、それは大丈夫です。一日体力温存しましたから。多分明日には気分悪いのは治まるはずなんで」
弱々しいながらも涼子ははっきり頷いた。自分で言ったことはきちんと実行する涼子のこと、多分大丈夫だろうと苫野は思った。
「…わかった。でも一応、明日、朝電話するわ。8時頃。それでいいね?」
有無を言わさない迫力の苫野に、涼子は苦笑いしながらではあったが、頷いた。
***
『ウンディーネ』の公演が始まった。
初演の評価はまあまあで、これが初舞台であるMACHIこと那智知明は、気が抜けないながらも少しだけ詰めていた息が吐けるような気がしていた。
そうして少し気持ちに余裕ができると、ここしばらく会うことのできないでいる羽根涼子のことが気になった。
直接電話で話したのは1週間は前になるか。涼子は元々あまり電話をかけてくることのない人だったが、知明が忙しくなった頃からは、メールもあまり来なくなっていた。同じ頃に涼子の仕事も忙しくなり、連日ハードなスケジュールに振り回されているということもその電話の時に聞いていたので、おそらく気持ちに余裕がないのだろうと思い、知明からの連絡も控えてはいた。
(でもよく考えたら1週間以上も会えてないってのは――)
時間を認識すると急に欲求が募る。会いたいと思うときに目の前にいてくれない彼女に、無性に腹が立つ。もちろんそれは、勝手な、一方的なわがままだということは認識している。それでも思ってしまうことは止めようがない。
(この間だって結局来れなかったしな…)
会いたい、突発的に思ってメールを打つ。しかしその返答はなかなか返ってこなかった。
「記者会見の時間です」
携帯電話を見つめてじりじりしながら待っている間に、楽屋に迎えが来た。知明は納得できない気分だったが、楽屋を出る。気持ちを切り替えようとぶるぶると首を振ってみる。
舞台前の廊下でマスコミ各社の記者に囲まれて受ける簡易的な記者会見が始まる。
「MACHIさんはこれが初めての舞台での芝居ということになりますが、いかがですか」
「三枝さんの役は周囲の男性を魅了して破滅させる役どころですが、役作りで悩まれたことなどはありませんか」
一通り芝居についての質問が終わると、周囲にじわじわと緊張感が漂い始める。
来たな、と知明は内心身構えた。
「今回三枝さんのウンディーネは周囲の男性すべてを虜にされてるわけですが――」
記者の山の中から妙に甲高い男の声が上がる。小太りな中年の男性記者が片手を挙げながら知明たちを――正確には、三枝ユミを、見つめながら言葉を続ける。
「――今回、共演者の皆さんとはいかがでしたか?」
聞いた瞬間、周囲の緊張感は高まり、反対に知明たち出演俳優たちの間には苦笑が漏れる。
(スタッフは神経質すぎるけど――)
そちらを見なくても、この群の外側に控えている自分のマネージャー辺りは鬼の形相になっているに違いないと知明には確信できた。
(こいつらもレベル低すぎだ)
知明の内心は冷め切っていた。こんなに意味のない質問もないだろう、そう彼は思うのに、ワイドショーや雑誌に取り上げられるのはこういった部分ばかりなのだろう。今までの経験から、彼はそう確信する。くだらない、と思う。
ちらりと隣に立つ藤本を見ると、彼は完璧な微笑を湛えた表情だった。反対側に視線をやると、頭ひとつ分くらい小さな位置で、三枝ユミがにこにこと愛想のよい笑顔を周囲に満遍なく向けていた。
「ええ、共演者の皆さんとてもいいかたばかりで…稽古の間もとてもみんな仲良かったんですよぉ。だから、どなたも、大好きですねぇ」
かわいらしい声で、語尾に多少の甘えを乗せることを忘れない。これぞ完璧な女優のしゃべり方だな、と知明は思う。
「じゃあ、プライベートでもどなたかと遊びに行ったりとかしていたんですかぁ?」
輪の外で殺気立った気配が動いたのを知明は感じた。しかしその前に、隣の三枝ユミが反応していた。あははは、と甲高い声で笑うと、困ったように眉を寄せて、口で笑う。
「そんな時間はありませんけどぉ、稽古の後にご飯食べに行ったりとかはしましたね。風間さんがおいしいお店たくさん知ってらっしゃたので…」
そう言いながら三枝ユミは知明とは反対隣に視線を向けた。三枝ユミの視線を受けて、この舞台のもう一人の主役の風間駿介が会釈する。
「この話では逞しい騎士や美しい貴族の青年など様々な男性が登場するわけですが――」
また別の記者の声が上がる。
「三枝さんなら誰を選びますか?」
途端、ぴりり、と空気が緊張するのを知明は感じた。そっと視線を巡らすと、マネージャーと劇場の担当者が表情を引き攣らせていた。
(そりゃまあ、そうだな。こんな質問されたら――)
「そうですねぇ、皆さんかっこいいから誰か一人といわれても悩みますけど…」
しかし三枝ユミはそんな空気を感じていないのか、間延びしたような声で笑う。
「…やっぱり、美形の貴族さんがいいかな」
その言葉はあまりにも軽く、さりげない風だったが、記者たちにこぞって眼の色を変えさせ、マネージャーはじめ劇場関係者の頬を引き攣らせ、芝居の共演者たちに苦笑を漏らさせるに充分すぎる破壊力を持っていた。
「――はい!お時間です〜!みなさん、ありがとうございました〜午後の部の準備がおしておりますので、この辺りで会見を終了させていただきたいと思います〜!!」
ぱんぱん、と手を叩く音が響き、劇場関係者が声を張り上げた。すかさずマネージャーや劇場スタッフが記者を掻き分け、退場路を確保した。知明は思わず笑いたくなったが、それは内心だけに留めておいた。クールで、何事にも動じない、不敵な美青年俳優MACHIの、超然とした美貌にフラッシュがいくつも向けられる。連続する白光に、MACHIは僅かに目を眇めた。
この写真はどんな見出しで使われるんだろう。他人事のようにそんなことを考えていた。
戻った楽屋で確認した携帯電話は、やはりまだ沈黙したままであった。
「ウンディーネ」は一日2回公演。夜の公演を終えて知明が一息ついたのは、午後10時を過ぎてであった。
携帯のメール着信ランプが点滅しているのに気付いてチェックをすると、夕方に涼子からのメールが届いていた。
『今ようやくメールチェックしました。遅くなってごめんね。今最高に忙しいのです。一段落ついたら連絡します。ほんとごめん。お芝居、がんばって』
簡潔な、そして丁寧な拒絶。知明は無言で携帯電話を閉じると、手早く荷物をまとめて楽屋を出た。
大股で歩く彼に誰かが声をかけてきたような気もするが、その時の彼にはあまり認識がなかった。
タクシーで涼子の家の近所まで向かい、大通りで降りる。そこで携帯電話をかけてみた。数回のコールで、電話が繋がった。
「…もしもし」
『もしもし、トモさん?』
普段よりも低く、掠れたようにも聞こえる声が、彼の名を呼んだ。歩く彼の足が速まる。
「涼子サン。今大丈夫?」
『…うん、まあ。どうしたの?』
「今、どこ?家?」
『うん、家だよ。今日は珍しく、9時には帰れた』
くす、と笑う雰囲気が受話器を通して伝わってくる。
『…ああ、それから、メール、ごめんね。最近なかなかチェックする時間なくって』
「……ああ、うん。さっき返事読んだ」
『あ、そうか。あの時間じゃお芝居中だったかな』
タイミング悪いね、と笑う声が続く。いつもと違う掠れた声。ため息のような笑い声。
「――涼子サン」
電波が自分の念を声に乗せてくれないかと願う。
『何?』
「会いたい」
簡潔に伝える要望。そのあまりのストレートさに、涼子の声が詰まる。
『………最近、会えてないもんね』
「うん、だから、会いたい」
ようやく搾り出したような涼子の言葉に、知明は即答する。響く足音を嫌いながら、マンションの外廊下のコンクリの上を進む。
『そんなこと言っても』
苦笑いしながらの声を聞きながら、目的のドアを叩く。軽く、二回。
『…え?あ、誰か…』
「ドア、開けて」
『…………ええ?』
恐る恐る、といった風に目の前のドアが開く。室内の柔らかい黄色い光が細く筋状に外の暗闇を照らし、その眩しさに、知明は目を細めた。