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高嶺の花  作者:
4/9

 MACHIの出演する舞台、『ウンディーネ』の稽古は公演日も迫り、佳境に入っていた。それまでは出演者それぞれのスケジュールがなかなか合わず、個別練習が多かったが、さすがに無理にでも日程をすり合わせて通し稽古が行われ、当日まで完成度を上げるための稽古が連日行われるようになった。

 芸能界ではそれなりに知名度のあるMACHIではあったが、本格的に芝居を始めたのはここ1年ほどのことであり、役者としてはまだまだ駆け出しという扱いをされるのは仕方のないことであった。

 MACHI自身も、自分の力量不足は自覚しているところであったから、熱心に稽古に励んでいた。監督や先輩俳優たちに教えを乞い、時には自分の解釈も主張し、更に修正をかける。彼にとって、主役でこそないが、それなりに重要な役どころを与えられたこの舞台は、自身の今後の俳優人生においてのターニングポイントになるであろうことは予想できた。だからこそ余計に、手を抜くことは一切なく、全力でこの芝居にかけていた。

(――涼子サンにも、見てもらうしな)

 稽古の合間の休憩時間、疲れた体をソファに横たえていたMACHIの脳裏に、ふっと羽根涼子の姿が過ぎる。正直な話、仕事中は彼女のことを考えることはない。いや、今は考えている余裕がないというのが最も正確なところである。だからこんなふうに休憩時間とはいえ、彼女のことを考えるのは、最近の彼にしては珍しいことであった。

 涼子には既にチケットを渡していた。彼としては公演初日に見てもらいたいのは山々であったが、さすがに勤め人の彼女に平日昼からの公演に来てもらうわけにはいかず、公演期間の最初の土曜日に、彼女は来ることになっていた。

 彼が涼子にチケットを渡した時、涼子は最初恐縮していたが、「こういう舞台って見るの初めて」と、割合素直にチケットを受け取ってくれた。

「がんばってね」

そう言ってにっこり笑ってくれた彼女に、無様な姿を見せることは、やはり好ましくない。そう思ったところでMACHIは目を開け、体を起こした。

(顔洗ってきて、もう一度動き確認しとくか…)

 適当な鼻歌を歌いながら廊下を歩いているMACHIを、呼び止める声があった。振り返ると、廊下の向こうから、やはり稽古着であるジャージ姿の若い女性が近付いてきていた。今回の舞台の主演女優である、三枝ユミであった。

「まだ休憩中でしょ?お茶でも飲みにいきません?」

 追い付いたユミが彼の腕に手をかけて笑いかける。彼女はMACHIよりいくらか年下のはずであったが、子役から芸暦を積み重ねてきている彼女は、この世界ではMACHIよりもずっと地位は上であった。そんな彼女が気さくに声をかけてきてくれている。それは恐らく大変名誉なことであろうとMACHIは思った。しかし彼はその端正な顔に礼儀正しい会釈を浮かべて、失礼にならない程度にそっと腕を引く。

「すみません、三枝さん。俺、次の稽古までにもう一度確認しときたいことがあるんで…失礼します」

 軽く頭を下げると、彼はそのまま廊下を少し歩いて男子トイレに入った。手洗い場で冷たい水で顔を洗う。再び廊下に出たときには、見える限りの廊下には誰の姿もなかった。



***



 いつものように目を覚ましてシャワーを浴びる。早朝の冷たい空気をうつした冷たい水が、眠気の残滓を文字通り頭の天辺から吹き飛ばしていく。

 ここ連日、絵を描くのに夢中で睡眠時間を相当削っていた涼子は、そろそろ日中辛くなっていることを自覚していた。

(でも、もうちょっと、もうちょっとでなんか掴めそうなんだよな…………一向につかめないけど)

 いずれにせよ、会社勤めをしている以上、業務に支障が出るのは彼女の本意に沿わない。加えてお盆明けに開催されるフェアーに会社の新製品を展示することになっていて、秘書課含め会社全体が今現在超多忙な時期に突入していた。ぼんやりしていてミスでもしようものなら、どこにどんな支障が発生するかわかったものではない。気を引き締めなければ、と涼子は水ですっかり冷えた自分の頬を軽く叩いた。

 いつも通りに朝食を仕掛け、いつも通りにテレビを点けて着替えを取り出しにクローゼットに向かう。そんな彼女の背後で、テレビの音声が涼子の聴覚を惹き付ける。

 クローゼットの扉に手をかけたまま、涼子が顔だけをテレビに向ける。いつもより少し早めの時間を示すテレビからは、普段見ない芸能ニュースが流れていた。

『…で、主演の三枝ユミさん、風間駿介さん、藤本章一さん、MACHIさんが登場し…』

 若い女性アナウンサーの声にかぶせて、軽く上下にぶれる横スクロールで、数人の男女が順に映し出される映像が流れる。我知らずどきりとなった胸を無意識に押さえながら、涼子は体ごとテレビに向かう。

 ここしばらく、知明とは会っていなかった。涼子の方も仕事が忙しくて、まともな時間に帰宅できていなかったし、知明の方も忙しくて時間が取れない、と謝罪のメールが何本か入っていた。だから、一方的とはいえ、涼子にとっては久々の知明との邂逅であった。

(そう言えば、もうすぐ公演初日か…てことは、今週末?あれ、忘れちゃ駄目じゃん……)

 ちらりと壁のカレンダーを見ると、今週ではなく、来週末の土曜日に大きな赤丸が書かれていた。言うまでもなく、MACHIの舞台を観に行く予定日である。

 忘れていたわけではないものの、日時があやふやになっていた自分に内心呆れつつ、再び彼女はクローゼットに向かい、夏用スーツのスラックスとノースリーブのカットソーを取り出して着替え始める。

 手早く朝食と仕度を済ますと、急いで涼子は家を出た。いつもより少し早い時間だが、今日は昨日最後にまとめた書類が気になっていたため、早めに出社して、提出前にもう一度見直すつもりであった。

 時間があるときは乗らずに歩く地下鉄2駅分の道のりだが、少しでも時間節約のため、素直に乗り込む。早足で改札に向かう途中、キヨスクの前に積まれた新聞束に目を留め、少し行き過ぎて、どくんと高鳴る心臓の音と同時に勢いよく振り返った。

 梱包の隙間から覗いていたスポーツ新聞の一面に見える、見間違いようもない顔と目立つことだけが目的のような品のない書体が、彼女の無意識を惹いて、足を止めたのである。

「ねつあい?……」

 漢字書体をひらがなで読んで、自分自身の声に涼子はふと我に返った。そして慌てて踵を返すと、改札を通り抜けた。



「羽根ちゃん、大丈夫?」

 午後2時を過ぎた頃、涼子のデスクにそっと寄って来た影が机に突っ伏さんばかりに一心不乱に書類を読み下している涼子に声をかける。

「え?…あ、はい!?苫野さん?何か御用でしたか?」

 勢いよく顔を上げた涼子が、デスク脇に立っている苫野麻希子の姿を認めて、腰を浮かす。

「ああ、いや、用ってわけじゃないんだけど」

 苦笑しながら苫野が宥めるように軽く手を振る。

「昨日も今日も羽根ちゃん、コンビニ一人ランチだったでしょう?朝から晩まで根詰めすぎな感じしたからさ」

 苫野のにこにこ笑う表情は、相対する者を安心させる魅力があった。涼子もその笑顔についつい詰めていた息を大きく吐き出していた。

「いえ…ちょっと」

口から出たのはあまり意味のない言葉で、浮かんだ表情は苦笑に近かったが、何となく重いものが一つ取れたような感覚を、涼子は感じていた。

「区切りがよければ、コーヒーでも飲まない?私喉渇いちゃってて」

「あ、はい、じゃあ、先に行っててくださいますか?5分もすれば区切りつきますんで」

「ん、じゃあ、先行ってるね」

再びにこりと笑った苫野が廊下に出て行く後姿を見送って、涼子は再び書類の束に目を落とした。

 約束通り、5分を過ぎた頃に羽根涼子が給湯室に姿を現わした。苫野麻希子は笑いかけながら、サーバーからカップにコーヒーを注ぐと、目の前まで来た涼子に差し出す。礼を言って受け取った涼子が一口含んで、軽く眉を顰めた。

「う〜〜なんか、効きますね…」

「…なんか、煮詰まってんのかもね?」

 今日のお茶当番誰ですか、などとぶつぶつ呟きながらも、涼子は捨てようとはせず、普段はあまり入れない粉ミルクに手を伸ばす。一さじ入れてかき回し、濃い褐色になったコーヒーを再び口に含んで、何ともいえない表情をした。

「…くどくなってない?」

苫野は自分のカップを示しながら、苦笑した。ちらりと涼子がその手元を覗き込み、同じような色をした液体がそこにあるのを見て、ふっと噴出した。

「目覚ましにはなりますかねえ」

「強烈ではあるわね〜」

 ひそひそと囁きあいながら二人は笑う。笑い合いながら、苫野はそっと涼子の表情を確認する。やはり心なしか顔色が悪いな、と彼女は思った。

「ここんとこ、忙しいねえ。疲れてない?羽根ちゃん」

 苫野の言葉に、涼子は困ったような表情になる。

「いやあ、…これは半分自業自得なんで…寝不足なんですよ」

心配かけてすみません、と涼子は頭を下げた。

「まあ、仕事はちゃんと片付けてるから、その辺はさすがだなあと思ってるけどね」

苫野もどう言ったらよいものか、考えつつ言葉を選ぶ。

「まあ、今日が終わればとりあえず明日は金曜日で、土曜日午前中の出張が済めば後は休みですし。もうひとがんばりしますよ」

涼子が片手でガッツポーズを作りながら言う。そう言われてしまっては苫野もそれ以上何も言うことはできなかった。

「まあ、ほどほどに休憩取りなね?羽根ちゃん根詰めやすいから」

選びに選んだ末の苫野の言葉に、涼子は気をつけます、と答えて、微笑んだ。しかしその表情はやはりどことなく顔色が悪いように、苫野には思えた。



 苦いコーヒーを飲み終え、苫野と時間差で席に戻った涼子は、机の下に置いているハンドバックの中で明滅する携帯メール受信合図のランプに気が付いた。仕事を再開する前に確認しておくか、と開くと、届いていたのは知明からのものであった。反射的にどくりとなる心臓には気付かない振りをして、涼子はメールの内容を表示する。

『今日は遅くなる?晩飯食べに来ないか?』

「…食べに来い?作りに来いじゃなくて?」

 誰にも聞こえない程度の声で呟いてから、くすりと彼女は笑った。少し考えてから、返信メールを打ち込む。

『分からないけど、行けそうだったら改めて連絡する。ごめんね』

 手早くそれだけ返信すると、携帯を再びバッグにしまいこむ。

 ただそれだけの作業で、不思議と心が一つ軽くなったような感覚を、涼子は感じていた。



 結局その日、涼子が会社を出たのは10時を少し過ぎた頃であった。

(行けそうだったら……?)

 会社から彼女の家までは地下鉄で2駅分。歩いたってたかが知れた距離である。一方、知明の家は反対方向に5駅ほど。いかに都内とはいえ、この時間ではいろいろ不便だし危険でもある。

(今から行ったって何ができるわけでなし…)

 明日も涼子は朝から会社だし、知明とてオフではないはず。それ以前に、公演が迫っている知明が、オンオフ関係なく芝居のことしか考えていないことを、涼子は知っていた。

 しかし気が付くと、涼子は自宅とは反対方向の地下鉄に乗っていた。

「……顔、見るだけなら、ね………」

 自分の顔が映る地下鉄のドアに向かって、ぽつりと呟く。

 駅を出て5分ほど歩くと、上品な高層マンションが立ち並ぶエリアに入り、辺りは信じられないほど静まり返る。ヒールの音を響かせながら早足で歩く。バレッタで留めた髪が不意にきつい感じがして、無造作に外して頭を振る。一日中バレッタで留めていた髪には変な癖が付いていてぼさぼさになっているであろうことは、鏡を見なくても彼女には分かっていた。

(また、ストパーかけに行こうかなあ……)

 思いながら角を曲がると、いきなり数人の人が暗闇の中に立っているのに気が付いた。

(…カメラマン?)

驚いて立ち止まった彼女は、マンションの前にたむろしている人たちが揃ってカメラを手にしているのに気が付いた。

 そのマンションは知明が住んでいるマンションで、MACHI以外にも芸能人や有名人が住んでいることで有名なマンションであった。だからそういった人種が集まっていても何の不思議はない。そもそも普通に平凡なOLスタイルの自分が入って行ったって彼らの気を引くわけもない。一つ息を吸うと、彼らの間をすり抜け、涼子はマンションに入った。案の定、誰に声をかけられることも、注目されることもなかった。

 ちょうど出てきた人がいたので、それと入れ違いにロビーへ入る。下りたままになっていたエレベーターに乗り込んで扉が閉まると、涼子は大きく息を吐いた。

(自意識過剰だろ、私…)

 そんな自分自身を哂いながら、目的の階で止まったエレベーターを降りる。何となく足音を潜ませながら廊下を歩む。角を曲がってすぐに見えるのが知明の部屋。その角で、涼子の足が止まる。

 角の向こうから、ドアの開く音が聞こえる。位置関係から、知明の部屋だと察しがつく。そして聞こえるのは、間違いようもなく、若い女性の声――

 無意識に廊下の角に身を隠しながら、そっと涼子は廊下の向こうをのぞく。開いたままの扉をおさえる手だけが見える。細くてしなやかで、薄いパールピンクのマニキュアをした指。女性の腕。何を言っているのかは、室内でしゃべっているためか、はっきり聞こえない。ただ女性の声のテンションが高く、上機嫌に聞こえること。親しそうなしゃべり方をしていること、それだけは何となく伝わる。金縛りにあったように動けない涼子の視線の先で、女性の姿が部屋から出てくる。服装はさほど華やかではないが、抑えられた光源の下でも、それが美しい女性だと分かる。尚も室内に向かって何かしゃべっている横顔は、離れていてもそれが誰だか、涼子には分かった。

(三枝、ユミ…)

「わぁかったってば〜〜じゃあね、また明日!那智君!」

 やっとはっきり聞こえた声を認識すると、涼子は勢いよく踵を返した。無意識にエレベーターを避けて、脇の非常階段を駆け下りる。踊り場を一つ越えて数段降りたところで足を止める。階上の廊下で軽快なヒールの音が近付き、エレベーターの作動音が聞こえる。涼子は無意識に気配を殺しながらその気配を全身で感じ取っていた。エレベーターの扉が閉まる音を聞いてから、涼子は再び足音を殺して階段を下り、エレベーターホールに出る。既に通過して行ったランプを確認してから、涼子は下るボタンを押した。


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