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けたたましい目覚まし時計の音で、羽根涼子は目を覚ます。
枕にうつ伏せたまま腕を伸ばし、いつもの場所にある時計を操作し、音を止める。
静寂に戻った部屋の中、ベッドの上でしばしもぞもぞと体を動かす。うっすら開いた瞼の隙間から卵色の光が視覚を刺激する。薄手の夏掛けの布団はとっくに足下で団子状態になっていて、抱きしめている枕以外はタンクトップと短パン以外何も身に着けていないのに肌はじっとりと汗ばんでいて、次第に明確になる全身の感覚が不快感を叫び、涼子はようやく体を起こした。振り向いて時計を見ると、7時を10分ほど過ぎていた。
簡単にシャワーで全身の汗を流すと、上下下着姿で頭からタオルをかぶったまま、朝食の仕度をする。オーブントースターに食パンを放り込み、コーヒーメーカーをセットする。電器ポットに充分お湯があることだけを確認すると、部屋に戻り、テレビを点けながら衣服を身に着ける。天気予報だけはしっかり確認すると、キッチンに戻り、ちょうど出来上がったトーストとコーヒーに、カップスープで朝食を済ませる。
メイクをして、髪を整え、いつもと同じ時間に家を出る。始業30分前にオフィスに着くと、彼女の部署には、今日はまだ誰も来ていなかった。
簡単に身だしなみを整え直すと、デスク周りを掃除する。始業10分前には同僚も揃い、既にパソコンに向かって仕事を始める姿もある。
涼子が働いているのは、某外資系の商社で、彼女はその秘書課に配属されていた。
ちなみにその配属通知に一番驚いていたのは、恐らく彼女自身であったろう。語学が特に並外れて良いわけでもなく、容姿も殊更抜きん出ているわけでもない。あえて言うなら、いかにも真面目そうな外見と、落ち着いているように見える仕草や言葉遣いが対外的に清潔感を与えていると言えなくもない。その辺りが人事担当者の目に留まったのだろうかと、涼子は考えている。
実際のところ、秘書課といっても何人もスタッフがいるわけで、その全員がよくドラマや映画で見るように重役たちのそばに付き従っているということではないわけで、そういった自分自身の偏見に近い秘書業務のステレオタイプを、仕事に慣れていくうちに涼子は改め直していった。
それはともかく、既に5年目にもなる仕事は慣れたものであり、今日の業務も特に問題はなく、あっという間に午前中の時間が過ぎる。
昼食は同じ課の女子社員で連れ立って社外のランチに出かける。涼子は時には弁当を持参することもあるが、基本的にはこの時間は皆と行動を共にすることにしていた。就業時間中にプライベートな付き合いを持ち込むことをあまり好まない彼女は、従業員同士が、就業時間以外あまり行動を共にすることもないこの社内で、この昼食時間に同僚とのコミュニケーションを図ることとしていた。
その日は5人ほどで連れ立って歩き、行き慣れたカフェに入った。その店はおしゃれだがランチメニューは質、値段ともに手頃で、涼子たちが愛用している店であった。
オープンテラスに席を取り、それぞれ注文をすると、誰からともなくおしゃべりが始まる。涼子は元々芸能情報などにはあまり詳しくなかった。そのため今までは、こういうおしゃべりではなかなか輪に入ることができなかった。しかしここ最近、大分詳しくなった、というのが周囲の一致した意見である。
(そりゃあね)
涼子は自分にも分かる最近のドラマの話に相槌を打ちながら内心思う。
(トモさんと付き合ってれば嫌でも情報は入ってくるし、気にもなるし…)
そして自分の思ったことに不覚にも照れて、慌てて冷やの入ったグラスをあおる。
実際、彼女は少し前まで芸能界というものに全く関心がなかった。そう言うと知明は「絵描きなのに!?」と驚いていたが、むしろ涼子に言わせれば絵描きだから大して気にしていなかった、ということになる。人物画を描くことにも見ることにも大して興味がなかったから、というのもあり、プライベートの時間を全て趣味に費やしていたような時期もある涼子にしてみれば、テレビなど見ている暇も時間もなかった。普通のニュースや雑誌広告にも頻繁に名前や顔の載っていた「MACHI」のことは、知ってはいたが、それだけという有様であった。
今ではさすがに、その当時の自分は極端であったと涼子自身思っているが、反対にその程度の認識であったからこそ、知明と今の関係を築けているのだろうと思うと、なかなか複雑な心境になる涼子なのであった。
「…どうしたの?羽根さん」
ふと気付くと、隣に座っている後輩がぼんやりしていた涼子の顔を見つめていた。
「え?あ、ごめん、ちょっとぼんやりしてた。何?」
少々慌てて取り繕うように周囲を見回すが、特に妙な反応は起こらず、涼子は内心安心した。
「いや、特に何もないけど」
正面に座っていた一年先輩の苫野麻希子が微笑んだ。外見も内面もおっとり穏やかな苫野は男性のみならず女性からの評判もよく、涼子もこの部署の中では特に気を許せる相手と認識していた。
「…あれ、そういえばそのピアス、見たことないや。かわいいね」
「あれ、そういえば。おニューですか?」
反対隣の後輩が涼子の耳にしげしげと視線をやる。
「ああ、うん。少し前に買ってたんだけど、そういえば、会社に着けてくるのは初めてだったかな?」
微かに口許を緩めながら、涼子は指で軽くピアスを揺らす。いぶし銀加工されたシルバーのピアスは、左右違うモチーフが揺れるタイプで、右に四葉のクローバー、左にてんとう虫をつけていた。モチーフはいずれも小さいので普段のように髪をまとめていても、あまり目立たない。しかし近くでよく見れば、繊細な細工が施されていたり、さりげなく貴石が埋め込まれていたりするのがわかるもので、そういったものが涼子は好きなのであった。
「そういえば、羽根ちゃん、ピアスにした頃からなんか変わったよね」
苫野がにこにこしながら言う。その言葉に内心涼子は冷や汗をかいた。
「…そうですか?」
「うん、なんか、きれいになったっていうか」
「そうそう、何か女らしくなりましたよね」
「いや、そんなことは…」
しかしその辺りは実は想定済みで、表面には動揺を表すことなく、涼子は不思議そうな表情を作って首を傾げてみせる。
「そもそも何でピアスにしたの?ずっとイヤリングだったよね?」
「いやあ、穴開けるのがずっと怖かったんですけどね…すごいほしいデザインのピアス見つけちゃって、これ着けるためならいいや!…って思い切って」
「ああ、でも、なんかありますよね。そういうきっかけって」
あっさり納得してくれた周囲に涼子は内心ほっと胸を撫で下ろす。
(…買ってくれたのは、トモさんだったけど)
その当時まだピアスホールを開けていなかった涼子に、それと知らない知明がプレゼントしてくれたのが、小さなピンク色の石の付いたピアスであった。かわいらしくて確かに涼子の好むタイプであったが、それがピアスと気付いて正直に困った顔をした涼子に、知明は更に困ってうろたえていた。そんな彼を見ていると返品したりイヤリングに作り変えてもらったりするのも気がひけて、思い切ってその足でピアスホールを開けに行ったのである。
それが知明からの初めてのプレゼントであり、多分付き合い始めたのもその頃からであった。そういうことを考えると、間違いなくその辺りから彼女たちの感じているであろう『涼子の変化』は起こっていたのであろう。
(確かに、まあ、変わったんだろうな、私は……)
そう考えると、ふと涼子は俯いた。思わず浮かぶ憂鬱な表情は隠しようがないことにとっさに気付いたからであった。
午後もさしたるハプニングもなく、突発的な残業も発生せず、珍しいほど穏やかにその日は一日が終わった。ハプニングが日常茶飯事といってもよい秘書課でこんな穏やかな日は珍しく、そんな平穏さを最後まで満喫するため、涼子は早々に退社することにした。
帰宅ついでに、近所のではなく、少し離れたところにある輸入食材も多く扱うスーパーマーケットに足を伸ばす。紅茶の葉が少なくなっていたので適当に気に入ったものを選び、それに合いそうなお菓子を選ぶ。基本的に身の回りのことにあまりお金を使わない涼子にとって、これが唯一と言ってよい贅沢であった。というよりも、趣味の画材にどうしてもお金がかかってしまうため、他にあまり使う気になれないというのも事実ではあったが、少し前まではあまりファッションや娯楽に興味がなかったのが、最も大きな理由である。
(それがピアスのことで話題にされたり『女らしい』なんて言葉までもらえるようになるとは…)
自分らしくない、と、気恥ずかしさに涼子は一人頬を赤らめる。会社や知人の前ではポーカーフェイスを貫き通している涼子であったが、こんな知り合いのいない場所でまで気を遣う必要もない。そもそも四六時中気を張っていてはどこかで早々にボロを出してしまうに違いない。だから彼女は必要以上に無理をすることはしなかった。
(そもそも、これは私にとって、相当な幸運なんだもの。嫌がってたらバチが当たるんじゃないかしら)
日の暮れかけた道を歩き、自宅に帰り着く。近所からおいしそうなカレーの匂いが漂っていた。そういえば夕飯のことは何も考えていなかったなと涼子は思う。
シャワーでざっと汗を流して楽な部屋着に着替えると、買ってきたばかりの紅茶を淹れる。テレビをぼんやり眺めながらほのかに甘いフレーバーを楽しむ。
(そういえば、最近は民放見てることが多いか?)
無意識にチャンネルを変えながらふと涼子は気付く。
(変わった…んだろうか?)
趣味や思考が変わったとは思わない。だが今まで自分のことだけで手一杯だったのが、少なくとも、無意識に彼のことを考えている。テレビでドラマや映画の情報が流れていたら無意識に注目しているし、街を歩いていて彼の広告やCM看板があれば自然と目を向けている。本屋に行けば雑誌コーナーでついつい表紙が誰かをチェックしてしまう。彼がドラマや舞台に出演すると聞けば、原作本や関連情報をついつい仕入れてしまっている。
それがなぜなのか、改めて考えなくても涼子には分かっている。今まで知らなかった彼――MACHIのことを、少しでもたくさん知りたい。それだけの単純なことで、そうして知っていく彼のことを、少しずつ愛おしく思っていく。毎日会えるわけではない彼のことを想い、そうして会えた時に自分は彼のことが好きなのだと改めて自覚する。益々好きになっていく。
(恋をするときれいになるとか、惚れた方が負けだとか、なんじゃそりゃって思ってたけど――)
一人で頬を赤らめて、耐え切れなくなり、両手で両頬を押さえながら、ベッドに倒れこむ。
羽根涼子は自分で自分のことを平凡な人間だと自覚している。容姿は悪いとまでは思わないが、人より良いというわけでもない。多少ふくよかな体型をしていると認識しているが、それも並程度の範疇であろう。多少趣味に没入する傾向はあるが、日常生活まで犠牲にはしていない。学校の成績だって、美術が好きでそれに関してはしばしば高評価をもらうこともあったが、それとて自分の好きで、得意にしたいと思う事だからこその努力の結果であり、他の教科はやはりそこそこ。普通に大学を出て、就職した。就職先については、少し自分でもがんばったと思える結果で、その努力だけは今までの人生で自信を持って誇れることだと思っていた。――少なくとも、1年ほど前、MACHIこと那智知明に出会うまでは。
最初に自宅前で行き倒れている男性の姿を見たときは、何もせず見捨てるか、いっそ警察に通報した方がいいだろうかと考えた。しかし街路灯に照らされた男性の顔を見て、それがテレビや雑誌で散々騒がれている人物だと気が付いた時には、何かの間違いか夢か自分の記憶違いかと散々悩んだものである。
彼女は秘書などという仕事柄、他人の名前と顔を覚えることには自信があった。しかしそれとて現実に出会いうる、仕事関係の、つまりは一般人相手でのことであり、さすがに芸能人などという直接面識のない人間では勘が鈍るのだろうかなどとも思った。しかしいかに見直しても、こんな並外れて端整な顔立ちの男性がそこらにごろごろ存在しているわけもないと思えた。
結局、いくら夏とはいえ薄着の人間が屋外で寝ていれば体に悪い。最悪凍死する可能性もある。とりあえず目が覚めるまでは家に入れるのが人情であろうと、涼子は判断したのであった。
そのことがきっかけで、羽根涼子は那智知明という人物と知り合うことになったのである。
(さすがにそれがこういうことになるとまでは思わなかったけど――)
だから、彼女は今でも不思議なのである。なぜ、那智知明が自分を気に入ってくれたのか。女性の扱いに物慣れている彼の様子からして、多少の彼の過去の行状には察しがついているものの、少なくとも羽根涼子を口説き始めた頃から現在まで、涼子が自分以外の女性の存在を彼の周辺に感じることはなく、従って不安や不審を感じたことは、今まで一度もなかった。知明は少なくとも涼子に対してはいつも誠実で、情熱的であった。だからこそ、涼子も彼に対して真面目に向き合い、そしてその想いを受けとめることに決めたのである。
(だから、やっぱり、私はすごい幸運に巡り会っちゃったってことなんだろうなあ)
運が良かったのだ、と涼子は思っている。そして今も幸運が続いている、と思っている。そしてだからこそ、
(この幸運は謙虚に、大切に、するべきなんだろうなあ)
そう、羽根涼子は本気でそう思っていた。