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MACHIといえば、今や日本中で知らぬ者はいないであろう。特に年齢問わず女性に絶大な人気を誇る、若手俳優である。
男性向けファッション雑誌のモデル出身の彼は、すらりと均整の取れた長身に、ハーフかクオーターかと思わせる日本人離れした端整な容貌で、デビューしてたちまちのうちにアイドル的な人気を得た。彫りの深い貌のつくり、筋の通った高い鼻筋、切れ長の瞳と短めの髪は驚くほど黒々としていて、白皙の美貌に艶を添えていた。加えてデビュー時の十代後半の少年から青年へと変化する時期の、繊細でどこか危うげな雰囲気も、年齢問わず女心を惹きつけてしまった。
かくしてバラエティーからドラマ、果ては歌手まで、各メディアへの露出により、1年ほどで人気は確たるものとなっていった。
数年はそんな感じでマルチな才能を持ったタレントとして活躍していたが、1年ほど前からは俳優一本に活躍の場を絞っており、最近では演技力の高さが認められ、国外からのオファーもちらほらきているとのもっぱらの噂である。
そんな彼の人気に拍車をかけているのが、徹底した秘密主義であった。
「MACHI」は日本人であることは確かなので、当然芸名であるが、本名は公表されていない。年齢も、デビューしてからの年数を考えると二十代であることは恐らく確かであろうが、はっきりしたものは公表されていない。生年月日等一切のパーソナルデータも非公表。そして、それだけ目立つ美貌の持ち主でありながら、不思議なことに私生活が一切暴かれることがないという、ほとんど謎の領域の事実があった。デビュー当時にはバラエティー番組にも出演していたことがあったため、かろうじて「実は実物は存在しない」という説は否定されている。また、十人中十人が認める美貌と色気のため、スキャンダルの噂は常に存在する。しかし、今まで一度も現場をおさえられたことがないため、結局は全て証拠のない、単なる噂話程度で収まってしまっているのである。
「実際、うまくやってるよな、お前さんは」
そう言って、藤本章一が笑った。読んでいた雑誌のページをひらひらとMACHIの眼前にかざしている。MACHIは無造作に粗悪な紙の束を掴むと、ちらりと誌面に目を走らせる。そこにはここ数日芸能リポーターの注目を浴びている某アイドルの『熱愛報道』が派手に書き立てられていた。紙の荒さと印刷の荒さでほとんどドットの集合体くらいにしか見えない『決定的瞬間』の写真も、見開きど真ん中に掲載されている。
今は舞台稽古の休憩中である。藤本章一はMACHI同様、モデル出身のタレントで、俳優をやりながら趣味である音楽でもメジャーデビューして活躍している。爽やかな好青年という表現がぴったり当てはまる容姿の藤本は、性格も男気があって爽やかで、MACHIとも普段から親しい間柄である。今回、彼らは偶然同じ舞台に出演することになったのである。
「うまくやってるって、何がだよ?」
MACHIが言うと、藤本がわざとらしく肩を竦めてみせた。
「よく言うよ。この芸能レポーター泣かせ。ばれてないだけで、お前相当遊んでたろ?」
「遊んでたというのは語幣がある。俺は普通に恋愛していただけだ。そんな個人的な事情をわざわざ他人にひけらかすような露出趣味は俺にはないだけだ」
藤本のからかいに、MACHIが平然と答える。そのあまりの堂々とした言い草に、藤本も苦笑を返すことしかできなかった。
別に露出趣味のある人間がこういった雑誌にスクープを載せられるわけでもあるまいに、と藤本は思った。言うまでもなく、こういった報道をされる人間のほとんどは、むしろ世間から自分たちを隠そうとしている人間の方が多いに違いない。それでも暴かれるのがたいていの場合で、それをかいくぐって秘密の交際を貫き通せる芸能人というのはごく稀であろうと彼は思う。
実際、藤本とて何度かこういった雑誌に追いかけられている。彼自身があまり気にしていないのは、単純に最近、芸能界に入る前から交際を続けていた女性と結婚をしたからであった。
「だいたい、こいつ、わざと写真撮られやすいとこ選んで歩いてるんじゃないか?真夜中にフード被ってサングラスかけて歩いてる一般人がどこにいるんだよ。ご丁寧に彼女の方のマンションの近くで撮られてるみたいだし」
MACHIが苦笑しながらぺらぺらと雑誌のページをくる。
「じゃあ、お前はどうしてばれないんだ?何か秘訣でもあるのか?」
藤本の問いにMACHIが目を見開く。
「…秘訣ぅ?んなもん、ないよ。ていうか、小細工なんてすればするほど馬鹿を見るだろ?」
「…隠してもないってのか?」
「別に…目立つ行動とってないってだけだな。隠すって言うか。けっこう、気付かれないぜ?俺」
「それが一番の謎なんだがなあ」
藤本が呆れたように笑う。実際、MACHIは同性の自分から見ても相当整った容姿をしている。身長だって、ずば抜けて高いわけではないが、人ごみの中で頭一つ抜けるくらいには高い。たとえ彼が芸能人でなくとも、人目――特に女性の好奇の目は充分に惹くであろうに。だが実際、彼が芸能界に入ってからこれまで数年、MACHIの姿がこういった写真雑誌に捕らえられたことは一度もないのであった。
――いや、正確に言えば、恋愛スキャンダルが取り上げられたことはない、というべきか。というのは、MACHIは1年ほど前、しばらく行方をくらましていたことがあった。その頃既に親交のあった藤本も全く彼と連絡が取れなかったし、他の友人たちの誰も、彼の行方を掴むことができなかった。事務所のスタッフですら、数日MACHIの所在を捉えることができずに、相当慌てていたものである。
結局、数日の行方不明で、すぐにMACHIは事務所に姿を現わしたのであるが、その後もちょっとしたトラブルで、解決まで半年ほどは後を引くこととなった。その間のことは、これは事務所が総力を挙げて外部に不必要なことを漏らさないよう対処したため、当たり障りのない程度の記事が数回、雑誌に載った程度でいつの間にやら話題も消えてしまっていた。彼の近くでその一連の騒動を見聞きすることができた藤本は、その鮮やか過ぎるMACHIと彼の事務所の情報操作の手腕に感嘆を覚えたほどであった。
「…で?ところで、『彼女』は元気か?」
唐突に口調を変えて藤本が尋ねた。
「…元気だよ?昨日も泊まりに来てたし」
平然とMACHIが答える。しかし藤本は、彼の声の微妙な震えと表情の微妙な波立ちを見逃さなかった。
(でもこれ、『秘密を嗅ぎ付けられたから』っていう動揺じゃなくて…)
「…お前、顔がのろけてるよ」
藤本の冷静な指摘に、MACHIは反射的に片手で口許を覆った。
彼――MACHIは本名を那智知明という。芸名のMACHIは、本名の苗字をもじっただけのものなのである。そんな彼の平静を崩せる、現在唯一の存在が『彼女』こと、羽根涼子であった。
彼が羽根涼子に初めて出逢ったのは約1年ほど前のことで、紆余曲折を経てやっと「付き合う」という状態まで漕ぎ付けたのが、それから3ヶ月ほど後のことであった。
MACHIが一人の女性を口説き落とすのに3ヶ月もかかったというのは、藤本の知る限り、彼にとっては最長記録であった。それ以上に藤本が驚くのは、彼女よりも彼の方が関係を築くのに積極的であったこと――つまり、初めに惚れたのも、相手を手に入れることに執着を見せたのも、MACHIの方であったということであった。そして更に藤本を驚かせることに、未だに二人のその状態は変わらず続いているらしきことであった。
(この男をここまで前後不覚にする女って一体どんな奴なんだか)
「今度、俺にも紹介してくれよ、えーと、羽根さん?だったっけ?」
「涼子サンを?……そりゃ、かまわないけど。でも何で?」
心から不思議そうな顔で自分を見るMACHIに、藤本は少々意地の悪い笑みを返した。
「どんな人間も本気にさせることができなかった那智知明っていう男を虜にしているすごいヒトに会ってみたいからだよ」
***
「…ってなこと言われたよ」
「……私は見世物ではないんですが」
那智知明が昼間あったことを話すと、羽根涼子は深くため息をつきながら答えた。
言いながら、彼女はキッチンから知明のいるリビングスペースに入ってくる。さりげなく、しかし律儀にキッチンの電気を消して来るあたり、彼女の性格を示していた。
涼子は手にしていた皿をローテーブルに置くと、知明と反対側にまわって座った。皿の上には山盛りの肉野菜炒めが湯気を立てていた。
「お〜〜ありがと〜〜。悪いな、わざわざ」
彼は既にご飯とスープに舌鼓を打っていたが、新たに登場したおかずに、早速箸をのばす。
「…でも、よかったんだよ?飯とこれだけでも」
彼がご飯茶碗とスープ皿を順に指しながら言うと、彼女は眉を顰めてみせた。
「…そういうくらいなら、事前に電話くらいはしてきてくださいよ…普段一人分しか夕飯なんて作んないですもん、残り物のご飯とスープだけじゃ、いくらなんでも夕飯にはなんないじゃないですか…」
「ごめんごめん、急に思い付いたんだよ」
ローテーブルを挟んだ向かいに座る涼子は不機嫌そうな表情だった。食事をしているのは知明だけで、彼女は大きめのマグカップを抱えているだけだった。
そんな彼女に彼が話すところによると、こうだった。
知明は今日は一日舞台稽古のみで、他の仕事は入っていなかった。当初は夕方頃には終わる予定だった舞台稽古は出演者全員何やら白熱して、なかなか終わらず、終わってみると10時近くになっていた。練習中は気が張り詰めて集中していたが、緊張が解けると、急に空腹感が襲ってきた。自宅に戻る途中に何か食べるか、買って帰るか、考えたときに、その練習場が羽根涼子の家のすぐ近くであったことに気が付き、それならば…と訊ねることにしたのだ、と。
「それならそれで、思い付いたときに電話の一本…いや、メールでもいいですけど、くれたらよかったのに…」
「悪い悪い、いきなり行ったら、涼子サン、驚くかな〜と思って」
案の定、びっくりして目をまん丸にしてる涼子サン見れたし、と知明は何やら大変嬉しそうな表情をし、肉野菜炒めをご飯の上に載せて口の中にかきこんだ。その、世間一般の『アイドル』のイメージにそぐわぬ豪快な食べっぷりに軽く目を瞠りながら、彼女はそれでもまだ不機嫌な様子であった。
「そんな子供みたいな…」
ぶつぶつと呟く彼女の声が聞こえているのかいないのか、更に彼は続ける。
「それに、涼子サンの飯、今日こそは食べたかったし」
何気なく続けられたその言葉に、涼子がぴくりと小さく頬を引き攣らせる。
「…それに、今朝はあわただしく帰っちゃったし…大丈夫だったかな、ていうのもあったし」
更に続けられる彼の言葉に、涼子は頬をかあああ〜っと紅潮させる。
(そんなこと恥ずかしげもなく言うな〜〜〜!)
表情を隠すように、涼子は顔の半分が隠れるほど大きなマグカップに顔を伏せた。頭ごとくい、と仰け反らせるようにしてひと口含む。冷めたインスタントコーヒーがぎこちなく口内から喉へと通っていく。
昨夜涼子は結局、知明の部屋で朝まで過ごした。――というよりも、彼が離してくれなかったと言った方が正しいと彼女は思っている。――その点に関しては知明にも言い分はあろうが。
ともかく、彼のベッドで彼女が目を覚ましたのは日の昇る少し前、4時過ぎ頃であったろうか。慌ててヘッドボードにあった時計を見ると、彼女はしばらく針の指す3と4の数字を眺めて、それが午前のものか午後のものかを、真剣に、しばらく考えた。それから慌てて半身を起こして、ベランダに続く掃出しのサッシ窓に目をやる。レース一枚だけ引かれたガラスの向こうは、まだ暗かった。しかしそれは夕方の暗さではなく、明け初めの濃い群青色であった。どこかで鳥の鳴く声が微かに聞こえる。ようやく朝だと確信すると、慌しく服を拾い、身支度を始めた。
彼女の気配に気が付いた知明が目を覚まし、最初不思議そうに、それから不満そうに、最後に残念そうに、表情を変えた。
「いっそ今日は泊まっていくとか」
「私は今日は仕事です!」
「うちから通ったっていいじゃないか」
「着替えもメイク道具も持ってきてないもの。うちに戻って仕度しなきゃ」
食い下がろうとする知明のセリフにも涼子は負けず、手早く簡単に身支度を整える。そして途中で引き止めるのを諦めた知明が呼んでくれたタクシーに乗って、早朝、日が昇り始めたばかりの時間に、自宅へと戻って行ったのである。
「今日は眠くなかった?」
「…大丈夫!でした!」
「そう、よかった」
にっこり、と笑って問いかけてくる知明に、涼子はぶっきらぼうに返す。不機嫌そうな表情だが、頬の紅潮は隠しようもない。知明はそんな彼女をほほえましいものを見るような表情でしばらく見つめていたが、やがて彼女から目を逸らし、食事に専念した。
「…で、トモさんは何て答えたんですか?」
しばらくFMのラジオに耳を傾けていた涼子が、ふと思い出したように知明を見た。唐突な問いかけに彼はしばらくきょとんとしたような表情をみせたが、すぐに少し前に自分がしていた話題を思い出した。
「ああ、藤本さんね。別に。そのうち機会があったら、て答えたよ」
特に具体的な約束はしていない、と聞いて、涼子がほっとしたように息を吐いた。
「そりゃあ、気が進みませんよ。藤本章一って言ったら、すごい人気のあるタレントさんだし。私、平凡なただの会社員ですもん。世界が違うというか」
そんなに嫌か?と訊くと、彼女はそう答えた。軽く眉を顰めながら答えるその様子には含むものは全く感じられなかった。
「一応、俺だって『すごい人気のあるタレントさん』なんだけど」
「でも、トモさんはトモさんじゃないですか」
からかうような知明の言葉に、涼子は即答した。その、いかようにも取れる彼女の返答に、知明は探る視線を彼女に向ける。しかし涼子は既に彼から視線を外して、FMラジオから流れてくる音楽に耳を傾けているようであった。マグカップを唇に当て、ぼう、とした視線をラジオの方に向けている。
彼女は既にメイクを落としていたが、普段からナチュラルメイクで通る涼子の素顔は、よく聞くような、「メイクとすっぴんは別物」というタイプのものではなかった。淡い茶色の髪の毛は、後頭部で簡単にひと括りにされていた。太目のヘアバンドをヘアゴム代わりに使う先から奔放にはねる淡い茶色の毛束。マグカップに押しつぶされた柔らかそうな唇のふくらみ。
「…悪かったよ」
知明がぽつりと呟く。
「今度からは電話する」
言ってから、残りのご飯を口内にかきこむ。
「ごちそうさま。美味かった」
涼子がふう〜っと長く息を吐く音が聞こえた。合掌して視線を下に向けていた知明が彼女に目をやると、涼子は立ち上がろうとしているところだった。マグカップをローテーブルの上に置いて、そのままぐるりとテーブルを回って知明の方へ来る。彼女が自分の後ろを通ろうとしていると思った知明は、軽く腰を浮かせて彼女の通り道を広げようとする。しかし彼女は彼の後ろを通り過ぎるのではなく、す、と彼の横に膝をついて屈んだ。
「…ごめんなさい、ちょっと言い過ぎました。…ちょっと……不機嫌になりすぎました」
涼子はそう、彼の耳元で囁くと、彼が振り向くより早く、すっと顔を近づけた。ちゅ、と知明の頬に軽く唇を押し付ける。
「お茶淹れてきますね」
にっこりと笑った涼子が、キッチンへと去っていく。その口調にも、先ほどまでの不機嫌な様子はもうなかった。
(俺のこと、恥ずかしいやつって貴女は言うけどさ…)
知明はゆっくりと上体を傾け、肩の先で背後のユニットボードにもたれる。大変不自然な姿勢だが、床に付いた両肘でしばらくその姿勢をキープする。
(………俺に言わせりゃ、不意打ちの『ほっぺちゅー』の方がよっぽど照れくさいんですけど〜〜)
先ほど涼子の唇が触れた柔らかい感触からじわじわと熱が広がっているような錯覚がある。知明の背中はそのままずず、とすべって床にべたり、と落ちた。
羽根涼子の家は、都内の繁華な地域に近いところにある。最初はよくこんなところに若年の女一人で部屋を借りれるものだと思ったが、聞いてみると、意外に家賃は手頃なのだという。確かに住所としては繁華街の地域だが、表通りから一本裏に入ると雰囲気はまるで変わり、古びたアパートや民家の立ち並ぶ地域になる。彼女の家もそんなところにあり、多少の治安の悪さを除けば、通勤にも便利で静かな場所である。
「かなり不動産屋さんまわりまくって粘りまくって、やっと発掘しましたからね〜」
その話をした時の彼女の得意そうな笑顔は、まるで子供のようにかわいらしかったことを彼は思い出す。
部屋は2Kだが、かなりの築年数のためか、意外なほど間取りは広く、キッチンスペースや水周りにもゆとりがある。和・洋の2室の内、和室はリビング兼寝室――つまりは日常使いの部屋であり、決して広くはないがうまいこと家具が配置された部屋は、『女の子』あるいは『女性』らしさにはいまいち欠けるものの、適度に居心地のよい生活感があって、彼は気に入っていた。
もう一室の洋室は和室と同じ広さだが、そこを彼女は趣味の作業場として専用に使っていた。
キッチンでお湯を沸かす音や食器を用意する音が聞こえる。それを聞きながら、彼は静かに洋室の扉を開けた。暗がりの中にイーゼルの影が浮かび、サッシから漏れるネオンの明かりに、立てかけられたカンバスやら何やらが見える。微かに揮発性のオイルの臭いが鼻をつく。
彼女の趣味というのは、つまり油絵なのであった。入口側の壁を探ってライトを点けると、白い蛍光灯の光が部屋に溢れる。イーゼルには描きかけの絵が載せられている。まだ下絵からそんなに進んではいない状態のようであったが、木立に囲まれた神社か何かのようであった。
「あれ、そっちにいたんですか」
彼の背後、入口から彼女が覗き込んでいた。どうやらお茶が入ったらしかった。
「ああ、まだ描きかけなんですよ。やっとね、この辺りとかはっきりしてきたくらいで」
絵の描き方は人それぞれであろうが、彼女の場合は全体的にぼやけた色調の下塗りから徐々にくっきりした色に、厚く、何度も何度も塗り重ねていく方法を採ることが多かった。今回もどうやらそういうことらしく、まだはっきり輪郭が見えているのは画面下方の石段らしきものくらいであった。
「けっこうね、思った以上に石の表情を再現するのって難しいんですね。どれだけ記憶に近い色を作っても、どれだけ写真を見て色を合わせようとしても、塗ってみたら全然思うような感じにならなくて。気が付いたらそこだけ妙に進んじゃってまして。全体のバランス悪すぎなんですよ」
苦笑しながらも嫌々な口調ではなく、むしろ活き活きした表情で語る彼女は、表情にも瞳の明るさにも、全身で好きなことに打ち込む楽しさが溢れていて、絵のことはよく分からない彼も、不思議と楽しい気持ちにさせられてしまうのであった。
羽根涼子は、普段は一般企業に勤める、平凡なワーキングウーマンである。しかし趣味も諦めたくないと、時間をつくっては絵を描き続けているのだという。今現在は基本的に油絵だが、表現したいものによって画材は変わるのだという。
そして彼は、そんな風に自分のやりたいことに貪欲に打ち込める彼女が、とても好きなのであった。
「そういえば涼子サン、風景画ばっかなんだね。人物画とかは描かないの?」
彼の素朴な問いに、彼女はう〜んとうなりながら小首をかしげた。
「何でかは知らないけど、人物画には興味が向かないんだよね。基本的に描きたいものしか描かないわけなんで、例えばこの辺散歩していて、今まで知らなかった神社を見つけた!意外にきれいだ!ここ描いてみたい!…ってのは思うんだけど、ベンチに座って日向ぼっこしてるおじいさん、なかなか様になるなあ、とは思うんだけど、じゃあ、描いてみよう!…ていう気にはならないんだよね。何故だか」
「家族とかも描いたことないの?」
「う〜ん…描いたことがないわけじゃないけど…確かすごい不満足な出来で提出せざるを得なくって、いい思い出がない…のかも」
昔々学生の頃だけどね、と彼女は苦笑して続けた。
それじゃあ描きたくなったら描くのか?と訊ねると、多分そうだと思う、との返事が返ってきた。
「じゃあ、そのうち俺を描いてよ」
彼が笑いながら、軽い口調で言った。
「そうですね、…そのうち、気が向いたら描くかもしれません」
素直な笑顔で答える彼女に、知明は満足そうな笑顔で頷いた。